第二章一







 *



 少将の事件から一月がすぎた。

 左大臣家では、姫君の裳着と入内の準備が本格化していた。

 様々なところから香や書、織物が届けられる。今様のものは華やかで美しい。緻密に計算された趣がある。

 しかし、左大臣は屋敷の蔵を開けさせて、昔渡りの品々を出して惜しげもなく調度品に用いた。唐の錦、綾、緋金錦。それらには今様のものにはない麗しさがあった。荘厳ななかにも人のぬくもりと無我の境地がある。贈られてきた今様のものは「美しいけれど奥深さがない」と全て女房達に下げ渡した。

「大君には本来の美しさを身につけて欲しいのだよ。まことの美しさを知るものこそ、まことのゆかしさを知る。それでこそ主上の傍らにあるのに相応しい」

 飾られてゆく姫君は沈黙を続けたまま、夏木を片時も離さずにおいていた。時折、思いつめたような表情で考え込む。夏木には、それが気がかりだった。

 男達は姫君をめぐって、かまびすしく騒ぎ立てる。主上だとてその内の一人だ。内裏では、名高い姫君の美しさを楽しみにしていると仰せだったと女房伝いに夏木は聞いていた。


 その流れに逆らうように、内大臣が三の君を後宮に奉った。歳は十三の可憐な姫だという。登花殿の女御と申し上げる。

「内大臣家の三の君は主上のお気に召したそうね。でも、まだ雛遊びをしているとか」

「絵物語に夢中だという話も聞くわよ。やはり、こなたの大君様には及ばないわ」

「でも……ねえ、大君様も一介の女童にご執心ですもの」

「あら、それは入内のことが済めばお変わりになるわよ。今までとはお暮らしが変わるのだもの。主上にまみえれば、お心だって柔らかにおなりあそばされるわ」

 女房達は忙殺されながらも常に新しい噂にさえずっている。それを一瞥して、夏木は今宵も姫君のもとへ上がった。

「清様……」

 姫君は脇息にもたれて物憂げに顔を伏せていた。ここしばらく、それが続いている。今までなら夏木の姿を見れば顔をほころばせていたのに、心苦しそうに夏木を見る。

「夏木……来てくれたのね」

「はい……清様、お顔の色がすぐれません。どこかお悪いのですか?」

 心配になって訊ねる。姫君は吐息まじりに「いいえ……」と首を振った。

「入内のことでお悩みなのですか?」

「それもないとは言えないわ……けれど違うの」

「……清様?」

「いつかは頼むことだわ……夏木、おいで」

 夏木を手招くときには、いつでも悪戯めいた笑みをたたえていた。けれど、今日は何かに耐えるように固く強張っている。

 夏木はその表情に、心がよじれそうな思いで姫君に近寄った。途端に、姫君が夏木を激しくかき抱く。

 それは、これから奔流に落とされる夏木が押し流されないように。──その恐ろしさを、夏木は姫君から聞かされることとなる。

「夏木、お前にしか頼めないことがあるの」

 姫君はようやく夏木をまっすぐに見つめた。夏木は大きく潤いのある黒い瞳で、白く弾力のありながら柔らかい肌に豊かな黒髪、小柄な体は匠が生み出す人形のようだ。

「お前は美しくなるわ……夏木」

 たまらず、姫君は再び夏木を抱きしめた。声が僅かに震えている。

「後宮に上がれば、いつかはお前も主上の目にとまるでしょう……そのときには」

 姫君の息が耳に熱い。対照的に、声は凍えそうなほど冷たい。だが、凍えているのは姫君だ。そのことに夏木も気づけていない。

 夏木はその落差にただ戸惑いながら姫君の背をさすることしかできなかった。

「私が、主上のお目に……?」

「ええ。それを……私はとめない」

「清様、どうして……」

 姫君は体を離して、夏木と向き合った。その真剣さに、夏木は何も言えなくなる。そこには恐ろしい謀略があった。それは──。

「……そのときには、お前に私を主上から解き放って欲しいの」

 それは、大罪だった。

 その方法を聞かされて、夏木が戦慄を覚え体を硬直させる。息がうまくできない。

「清様、それは……!」

「お前にしかできないことなの。お前にしか頼めないことなのよ……」

 後宮に上がれば姫君は主上のご寵愛という檻に閉じ込められる。主上でも姫君の美しさには心を奪われるだろう。そうなれば、姫君に自由はない。

 ──その清様を、解き放てる……私だけが……。

 夏木は姫君に全てを捧げると誓った。その言葉に偽りも迷いもない。だからこそ、少将の凶刃からも姫君を守った。

「私が……清様のお役に立てるのですか……?」

 姫君が酷な願いに涙を堪えながら頷いた。それを見て夏木も決心する。いつか、必ずと。

「……そのお役、承りました」

「夏木……!」

 深々と頭を下げた夏木に、姫君が抱きつく。歓喜ではなく、懺悔に苛まれた悲しい抱擁。受けとめる夏木は、姫君の悲痛な声を聞いて、なだめるように優しく抱き返した。

「大丈夫です。私は清様のものです。これからも清様のおためだけに生きてゆきます」

 姫君は涙を散らして夏木にしがみついた。夏木の頬に姫君の温かい涙が降り注ぐ。二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。

 そして、姫君は顔を上げると両手で夏木の頬を包んだ。

「夏木、憶えておいて……私の手がもたらす悦びを。お前の悦ぶさまを、私もしかと憶えておきたい。……許して……」

「はい。この身に憶えさせてくださいませ。最後に……」

 夏木は微笑みを浮かべて応えた。姫君が覚悟を決めて唇を寄せる。夏木はゆっくりと目を閉じて口づけを味わった。

 まぐわいは激しく、姫君は夏木の身体中に唇を這わせた。秘所に触れると、夏木の背がぴくりと仰け反る。じっくりと、刻み込むように舌と指で愛撫を繰り返す。

 憶えておくために。忘れないために。

「清様っ……」

「夏木……愛しているわ、お前だけを」

 何よりも重い罪を分かちあう。誰よりも愛おしいものに、それを犯させる。


 姫君の心は慚愧の念にじりじりと焼かれながら夏木を求めた。

 ──夏木のここに触れられるのは今夜が最後……。

 そう思うと、いくら愛しても足りない気がした。

 ──もっと見ておきたい。もっと味わっておきたい。

 それは、夜が白むまで続いた。

 その翌日、夏木は自分の局に籠もっていた。

 目の前のものを、恐れに鳥肌が立つのを感じながら見つめる。届けられたばかりのそれは禍々しいとしか言いようがなかった。

 だが、己を叱咤して手を伸ばした。指先につけ、自身の秘所に埋める。指の震えをおさえて塗り込めた。

 すぐに熱い痺れがきて、次に猛烈な吐き気をもよおす。夏木は両腕で自分を抱きしめながら必死に耐えた。

 それは毒だった。塗り込めた量はまだ致死量には及ばない。これから少しずつ増やして体を慣らしてゆく。

 毒は、都にたつ東西の市場では手に入らない。東西の市場は生活に必要なものを東西それぞれ半月ずつに分けて立てられるが、それだけでは不便なので小路に入れば裏の市場が立って賑わっている。そこでは珍しい書物から動物、──毒薬までもが入手できた。

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