第3話 遅刻

「ご、ごめんね。遅れて」


 先生が息を切らして部屋に入ってきた。顔も少し赤く、汗ばんでいる。頬についた髪が少し艶かしい。


「? 大丈夫ですよ」


 ほんの数分遅れてるけど問題はない。


 でも、先生はいつも5分前には来ているから今日は何かあったのかな? なんか急いで来た感じだし。眼鏡も忘れているし、三つ編みも雑にした感じで、今にもほどけそう。


「ちょっと休憩させて」


 すみれ先生は首元を広げ、ミニタオルで額や首を拭う。

 すると香水とは違う。人の匂いが濃くなった気がする。


 こ、これって、すみれ先生の匂い!

 しかも推しの!

 匂い!

 生の!

 ま、ま、まじか!?

 うおおおおお!

 生きてて良かったー!


「ごめん。もしかして? 汗臭い?」


「え?」


「だって、顔がぎゅーってなってるよ」


 どうやら息止めしていると勘違いさせてしまったようだ。


「いえいえ、違います!」


 僕は手を振って否定します。


 違うんです。逆なんです。むしろめっちゃ、鼻で空気吸ってます。

 変態でごめんなさい。


「そ、そうだ! ええと、何かあったんですか?」


 僕は話を振る。


「ちょっとレコーディング収録が遅れて」


「レコーディング?」


「あっ! えっと……学校の授業でね!」


「学校でレコーディング?」


「じゃなくて、授業。音楽の。アハハ。言い間違えちゃった」


「大学に音楽の授業があるんですか?」


「うんうん。あるの。保育士の資格を取る子がね。保育士になるにはピアノの授業とか受けてるのよ」


 すみれ先生、もはや他人の話になってますよ。

 そしてすみれ先生は鞄からミネラルウォーターのペットボトルを出して、一口飲みます。


「ふう。それじゃあ、勉強を始めましょうか」


「はい」


「今日はプリントを……」


 鞄を開け、中からいつもと違うファイルを取り出しました。


「歌詞?」


 ファイルのトップに歌詞のプリントがありました。


「授業のやつよ」


 すみれ先生はファイルを開いて今日の授業で使うプリントを探しますが──。


「アハハ。ファイル、間違えちゃった。……ええと、ええと」


 すみれ先生は鞄をまさぐるが、いつものファイルがないようだ。


 というか、いつもと鞄が違うんだけど。


「鞄が!」


 すみれ先生も気づいたようだ。そして頭を抱えます。


「ああ、どうしよう!」


「他の勉強にします?」


「音楽?」


「違います。学校のテキストを使った勉強とか」


 要は僕が解けないところをすみれ先生が教えるというやつだ。


 よくある家庭教師の授業だ。


「うん。そうしましょう。ごめんね」


 すみれ先生がしおらしく謝る。


  ◯


 しかし、今日の授業は集中できなかった。


 頭の中は「推しの生の匂い」というのがぎゅうぎゅうに詰めて、集中できなかった。


 そのせいか今日はよく怒られた。

 でも、それもまたご褒美のようで。


 ああ! 今日の僕は変態だ。

 変態でごめんなさい。

 匂いに興奮してごめんなさい。

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