第38話、月夜の下で①

「だめだ……全く作業に集中出来ない」


 家に帰った後、俺はパソコンデスクの前で大きくため息を吐く。


 動画の翻訳作業に集中しなければならないのに、頭の中に思い浮かんで消えないのは今日の放課後からの出来事だ。


 俺は正直かなり動揺していた。

 姫奈と早乙女の二人から告げられた内容は俺にとって衝撃的すぎた。


 確かに姫奈は俺を副会長にしようと以前から良く口にしていたが、彼女だけでなく早乙女からも期待されているとは思ってもいなかったのだ。


 来期の生徒会役員を決める選挙は来月だ。


 返答はまた後日にと言っていたが、立候補の手続きや候補者挨拶、その他のスケジュールを考慮すれば残された時間は多くない。なるべく早くの返答を求められるだろう。だけど今回の話はあまりに突然で、まだ気持ちの整理が出来ていないのが正直なところだ。


 あの話を聞いていた周囲の生徒だって俺が副会長の話を引き受けるだろうと、早乙女の後を継ぐのだとそう思い込んでいるはず。外堀から埋められていくような感覚に思わず頭が痛くなる。


 そして何よりあれからソフィアの様子がおかしかった。俺の様子を伺うようにちらりと顔色を覗くとすぐに目を伏せてしまう。


 二人でマンションに帰ってきてからも何処か上の空で、向かい合って夕食を一緒にしている時も元気がない。


 その姿が心配になって声をかけるのだが、ソフィアらしくない弱々しい声で『ううん、大丈夫だから。何でもない』と答えるだけだった。


 食事を終えた後のソフィアは明日の配信の準備があるからとすぐ隣の部屋に戻り、それから一人のなった俺は翻訳作業の続きを始めたのだが――その進捗はご覧の有様だ。


 昨日から全く進まずただ時間だけが過ぎてしまっていて、既に時計の針は夜12時を指し示ようとしている。


 この調子だと考えすぎで今日は寝れないだろうとな、俺は椅子を回転させながら天井を見上げた。


 副会長の件も気がかりだが、俺にとって今何より心配しているのはソフィアの事だ。

 

 彼女は今、俺と二人で新しい試みに挑戦している。

 Vtuberアリスを日本に住む多くの人に知ってもらう為に、彼女はその翼をまた羽ばたかせようとしている。


 俺はそんな彼女の為に少しでも力になりたいと、翻訳作業という形で彼女の動画作成に携わる事になった。


 しかし俺が副会長として姫奈と共に生徒会を切り盛りしていくようになれば、アリスを推す時間も、こうしてソフィアを手伝う時間もきっとなくなってしまう。


 ソフィアはそれをきっと心配しているのだ。


「どうしたもんかな……」


 椅子の背もたれに寄りかかりながら、ぼんやりとパソコンのモニターに視線を移す。


 そこには笑顔でゲームをプレイしているアリスの姿があって、そんな彼女を眺めながらどうするべきかを考えた。


 俺は今までずっとアリスを――ソフィアを推し続けてきた、これからだって彼女が活躍する姿を、Vtuberとして成長していく姿を見たいと思っている。


 けれど同時に幼馴染である姫奈の事を放ってはおけない。ぐーたらでポンコツだけど周りから慕われる生徒会長を演じる為に頑張り続けている姫奈、そんな彼女を副会長として今までずっと支えてきた早乙女の存在は大きかった。


 早乙女が転校していなくなってしまえば、生徒会を支えていた柱が一つ失われる事になってしまう。その負担はきっとそのまま姫奈に降りかかる事になるだろう。


 だからこそ姫奈は俺に助けを求めているのだ。何度も手伝いという形で姫奈の負担を軽減してきた俺の事を信頼してくれているから、早乙女が抜けた穴を埋められるのは俺なのだと強く推薦してくれている。


 ソフィアの動画作成に協力しながら、姫奈と生徒会を切り盛りしていく。二足のわらじを履いていく方法は――いや駄目だ。本気で頑張っているソフィアに対して中途半端な協力は出来ない。姫奈だってそうだ。副会長を任せられるなら本気で生徒会活動に取り組まなくては、彼女が積み上げてきた努力を蔑ろにしてしまう事にもなる。


 どうするべきなのか、その答えも出ないまま俺は椅子から立ち上がってベランダの窓を開けた。


 冷たい夜風を浴びて頭を冷やせば良い案が出てくるかもしれないと、そのまま俺はベランダの外へと出る。


 綺麗な夜空だった。

 空を見上げれば満天の星が輝いている。まるで宝石箱をひっくり返したような景色に目を奪われながら俺はふぅっと息を吐き出す。


 その時だった。

 隣の部屋のベランダの方から窓が開く音が聞こえて、俺はその音の方へと視線を移す。


 隣のベランダに姿を現した彼女は手すりにもたれかかりながら夜空を見上げて、柔らかな白い吐息を漏らしていた。


 そこに居たのはもふもふとしたパジャマ姿のソフィアで、彼女もまた俺のように夜風を浴びに出てきたらしい。


 彼女はその手に暖かそうなマグカップを持っていて、どうやら中身はホットミルクのようで甘い匂いがこちらにまで漂ってくる。


 彼女はそれに口をつけてほわぁっと頬を緩めた後、ふと視線がこちらに向いて――目が合った。


『レン……?』

『……起きてたのか、ソフィー』

 

 彼女は驚いたように目を丸くした後、それからくすりと笑みを浮かべる。


 俺も同じように小さく笑い返すと、彼女はベランダの手すりに頬杖を突きながら語りかけてきた。


『もしかしてレンも寝れなかったのかしら?』

『そうだな。考え事をしていたら寝れなくて、冷たい風を浴びたら落ち着くかなと思ってさ。ソフィーも寝れなかったのか?』


『レンと全く同じ理由よ。わたしも考えことをしてたら全然寝付けなかったのよね。 それで落ち着こうと思って夜風に当たろうって思ったの』

『なるほどな。悩み事をしている時の俺達、やる事は一緒ってわけだ』


 いつも通りのソフィアの明るい声を聞いて、少しだけ安心しながら彼女を見つめる。


 ソフィアはホットミルクで喉をこくりと鳴らしながら、嬉しそうにはにかんでいて――そうしてしばらく二人で星を見上げる。


 それから俺達は月夜の下で静かな時間が流れる中、互いの胸に秘めた想いを語り始めた。




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