文筆のエネルギー 🧶

上月くるを

文筆のエネルギー 🧶





 司馬さんによれば、天下のご意見番・大久保彦左衛門に、晩年、大作『三河物語』を書かせたパワーは歴代が尽くしに尽くして来た主家への恨みにほかならなかった。


 まだ松平を名乗っていた三河以来六代にわたり忠義一辺倒だったのに、一向一揆で裏ぎった本多正信は、のちに平気で家康に取り入り、ついには盟友とまで言わせた。

(この話が本当だとしたら、ばっかじゃないの家康さんと思いますけど……(笑))


 その正信の讒訴ざんそを真に受け大久保家を取り潰した家康を内心激しく憎んだ彦左衛門は、大きらいな太閤秀吉を「太香」とするなど、独特の宛字だらけの家伝を遺した。



 ――世渡り上手な者だけが取り立てられ、真心を尽くしたわが家にはお禄をくださらぬ御主様おしゅうさまを不足に思うてはならぬ。もし背けばわが死後といえど、喉笛に喰らいつくぞ。



 子孫を戒める熾烈な叙述に込められた凄まじいエネルギーこそが、明治期になって心ある人たちの目に留まり、後世に永く読み継がれる名著の栄誉を獲得したのだと。




     🦃




 現代にも当てはまりそうな歴史的エピソードから、橙子の古い記憶がよみがえる。

 小さな出版社を営んでいたころ、日々の煩瑣のひとつが持込み原稿の対応だった。


 義理がらみは年中だったし、アポなしで訪ねて分厚い原稿の束を押しつけてゆく、断っても断っても原稿を送りつけて来て感想を強要する(返信用切手なしで)etc.。


 そのうちのひとりが、中堅の総合病院の内科部長をつとめている男性医師だった。

 地元のことゆえ無碍にも断れず、仕方なく預かったが、最初の数枚で音をあげた。


 部内の看護師たちを連れてハイキングだかトレッキングだかに行ったときの記録。

 自費出版ならともかく、費用はこちら持ちで世に出そうという魂胆がアサマシイ。


 オール女性スタッフにかしずかれてイイ気になっている、気の抜けた炭酸のような作文が読み手の胸に響くわけがないだろう。半生を賭けた生業を甘く見ないでよね!


 だいたいからして、読むにせよ、書くにせよ、ぴしっと姿勢を正さずにいられないわれわれにとって文章は神聖なもの、聖域に土足で踏みこまれちゃ堪らないんだよ。


 弊社には荷が重すぎて……やんわりとお断りしたのがお気に召さなかったようで、同じ委員をつとめる会議の席で、いまどき、あり得ないパワハラの仕返しを受けた。




      🧩




 満座の席で貶められた直後は憤怒の錨を胸底に沈ませていたが、いまなら分かる。

 高潔&高徳と無縁の本多正信に大久保彦左衛門の義を求める方が無理だったのだ。


 人間の脳は思い出したくないことは思い出さずに済むようにできているそうだが、ちょっとしたヒントで、濁った罵声、会場の騒めき、匂いまでが鮮烈によみがえる。


 それからさらに同様な経験を積んで来たことが、奥歯が擦りきれるほどの口惜しさを筆一本に託して逝った天晴れ大久保彦左衛門の清高を称賛する所以になっている。




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