チョコレートケーキ失踪事件

大隅 スミヲ

チョコレートケーキ失踪事件

 静かな夜だった。

 事務室の電話は鳴ることもなく、その日は溜まっていた報告書を仕上げることに専念することが出来た。


 午後8時。刑事課の部屋には夜勤の5名だけが残っていた。

 事件は24時間365日休むということを知らない。そのため、刑事たちは交代で24時間働いている。


 その日の刑事課強行犯捜査係の夜勤担当は、高橋佐智子巡査部長とその相棒である富永巡査部長だった。


 ノートパソコンの画面と向き合っていた佐智子は、椅子の上で両腕をあげて大きく伸びをして「休憩っ!」と声を出すと椅子から立ち上がり、休憩室へと向かった。


 佐智子が休憩室に入ると、室内には甘い匂いが充満していた。

 なんだろうと、佐智子が鼻をスンスンと鳴らしながら辺りを見回すと、テーブルの上に張り紙の付いた紙袋が置かれているのを発見した。


 その紙袋には見覚えがあった。

 行列のできるチョコレートケーキ専門店のものだ。


 張り紙には『警務課の佐藤さんからの差し入れです。冷蔵庫に入っているのでひとり1つ食べてください』と書かれていた。


「佐藤ちゃん、やるじゃん」

 佐智子が独り言をいいながら冷蔵庫の扉を開けると、そこにはチョコレートケーキが入っていた。


 きょうの勤務者は、佐智子を含めて全部で5人。

 ケーキの数は5個だった。


「ケーキは次の休憩の時に食べよう」

 佐智子はそう呟いて、冷蔵庫の扉をそっと閉めた。


 佐智子の後に休憩を取った4人は、それぞれがチョコレートケーキを食べており、残っているのは、佐智子のケーキ1つだけとなっていた。



 刑事課の電話が鳴ったのは午後9時になろうかという頃だった。


「刑事課、高橋です」

「どーも、2機捜キソウの本田です」


 電話をかけてきたのは警視庁第二機動捜査隊の本田警部補だった。

 第二機動捜査隊こと2機捜は、新宿を含む東京の西側を管轄とする機動捜査隊であり、事件の初動捜査を担当する隊でもあった。


「西新宿の公園で若者たちが乱闘する事件がありました。1名が頭蓋骨骨折の重傷。加害者は逃亡中です」

「わかりました、現地へ向かいます」


 佐智子は電話を切ると、相棒である富永に声をかけて、出動の準備に入った。



 現場に着くと、血まみれの若者が救急隊に付き添われて救急車に乗るところだった。


 佐智子たちは初動捜査をおこなっていた2機捜の本田から事件の概要を聞き、そのまま捜査を引き継いだ。


 現場周辺への聞き込みによれば、若者たちは殴り合いをしていたという。

 双方とも酔っ払っており、大声をあげていたそうだ。逃げたのは、加害者を含む相手方の2人だった。


 重傷を負った若者によれば、相手との面識はなく、道で肩がぶつかった、ぶつからないで喧嘩になったそうだ。


 2機捜が聞いた若者たちの特徴をメモすると、佐智子と富永は若者が集まりそうな酒場をしらみ潰しに当たった。


 その若者を見つけたのは、富永だった。

 手が腫れている。

 富永に言われて、佐智子がその若者の手に目を向けると、拳の辺りから手の甲にかけて大きく腫れていた。

 もしかしたら、手を骨折しているかもしれない。そう思えるような腫れ方だった。被害者は頭蓋骨骨折の重傷だった。強い力で殴ったのだとすれば、殴った方の手もただでは済まないはずだ。


 佐智子と富永は、その若者を挟み込むようにして近づくと、声をかけた。


「ちょっとお話を聞いてもいいかな」


 声をかけたのは佐智子の方だった。こういった場合、女性が声を掛けた方が警戒されないだろうと思ったからだった。


 しかし、その若者は違った。佐智子に声をかけられると同時に、体をひねるようにして背を向けると、佐智子たちとは反対方向に走り出そうとしたのだ。

 それよりも先に富永の腕が伸びていた。富永はその若者の襟首を掴むと、後ろから強烈な足払いをかけた。

 若者は足元を払われたことで体が宙に浮き、そのまま地面へと体が叩きつけられた。襟首を掴んでやったのは富永の優しさだろう。そのお陰で若者は頭を地面にぶつけずに済んだのだ。


 なぜ逃げようとしたのか、話を聞いたところ、若者は喧嘩をしたと認めた。


 そして、傷害罪の容疑で新宿中央署の留置所に入ることとなった。


 ひと仕事を終えて戻ってきた佐智子は、疲れを癒やすために休憩室の冷蔵庫を開けた。


「わたしのチョコレートケーキ♪」

 自作の歌を作ってしまうほど、佐智子は浮かれていたが、冷蔵庫の中には何も入ってはいなかった。


 鬼の形相で刑事課の部屋に戻った佐智子は、同じく夜勤だった盗犯係長である木下警部補に休憩室にあったものが無くなっていると訴えた。


「これはチョコレートケーキ失踪事件です!」

「いや、そんなこと言われてもな」

 木下警部補は困り果てた顔をしたが、部下である加藤巡査が休憩室に組織犯罪対策課の山田巡査部長がいたことを佐智子に報告した。


 佐智子は、すぐに組織犯罪対策課の休憩室へと乗り込んでいった。


 そこには食べかけのチョコレートケーキと怯えた顔の山田巡査部長の姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チョコレートケーキ失踪事件 大隅 スミヲ @smee

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説