いってきますスニーキングイン

 ジャーダイ伯爵領のカントリーハウス、つまり自分の領地での住処である屋敷は、岩がちな山肌が目立つノザン山から続く裾野に建っているわ。

 両翼廊に塔がある豪華な様式の本館、その周囲に広がる庭園、さらに領内を横断して王都へ続く街道を望む所には、見事な垣根が築かれていた。

 伯爵位に相応しい、実に立派なカントリーハウス。しかし、私の目にはどうしようもなく陰鬱な空気を纏っているように見えた。それは垣根に張り巡らされているイラクサが病的な斑入りの枝葉を広げているからかもしれないし、垣根を越えて透かし見ることができる庭園を飾る彫像に、禍々しいものを感じるからかもしれない。

 リュー少年の陰に遁行して私はカントリーハウスの見える野原の外れに到達したわ。そこは垣根で守られた正門の前にある空き地で、私とリュー少年は、村の裏道から続く荒れた枝道から山際に入り、林の隙間からここへと至った。

「ここからなら、垣根の先にある御舘様のお屋敷が見えるんだ」

「その口振りだと、何度もここにきたことがあるようね」

「うん・・・・・・お屋敷には兵隊がいて、いつも屋敷の外を見張ってて、他の子供たちは近づいてこないから。ここなら静かに過ごせるし、お屋敷やその庭を眺めるのも楽しいよ」

 ちょっと寂しげに、少年は答えてくれた。本当は村の子たちと仲良くしたいのね。苛められているというのに、優しいことだわ。

「少年、ありがとう。私一人ではここまでこれなかったわ」

「あはは、なんだか照れくさいな。たいしたことしてないのに。おねえさんこそ大丈夫? 寒くないの?」

「私のことなら気にしなくて大丈夫。ニンジャだから」

「だからニンジャってなーに?」

 それはね、と、私は遁行を説いて陰から現れてリュー少年の前に立つ。

「誰にも傷つけられない、強いものをいうのよ」

「わぁ・・・・・・」

 私は既に織物を纏っていない。川岸の時のように遮る物は何もなく、野原に過ぎる風と太陽の光が私の身体に絡みついているのみ。

 そんな私の様子が、リュー少年の無垢なまなざしにきっかりと映っていた。


「じゃあね」

「あっ・・・・・・」

 私は少年が答えるのを待たずに走り出す。あっという間に最高速度に達した私の身体は風を切り、うっすらとした肌色の流れのように見えるはずだ。

 その証拠に、今私は垣根の前を巡回している兵隊らしき格好の男へ迫っていたけれど、相手はこちらに気づいてもいない。

 これがニンジャの遁行術の一つ、韋駄天イダテンの術よ。アヤメ曰く韋駄天とはホーライの神々の名前らしいわ。

 心臓が鼓動を三百打つまでの間、私はこの韋駄天の術で風よりも早く走り、人の視界に捕らえられなくなる。逆に言えば三百回目の鼓動を打った瞬間、私は風を捕らえられなくなって姿を見せることになってしまう。

 少年の陰に隠れて行動することになってしまった理由がこれだ。流石の私も相手の居所を掴むまで、韋駄天の術で走り続けることはできないだろうと思ったからね。

 この術を授けてくれたアヤメは私よりさらに長く、五百回の鼓動を打つまで走り続けられた。きっとアヤメの足ならホーライからノーランドーまであっという間に走り着いたことでしょうね。すこし羨ましいわ。


 さて、私は韋駄天の走りによって垣根の前に陣取る見張りの兵隊をやり過ごし、垣根を飛び越える。垣根は大人の男性の胸あたりまで高さがあり、全面にびっしりと茨やイラクサが茂っていたけれど、私は跳躍で難なく飛び越える。

 垣根を飛び越えた先の庭園には、杉や松が疎らに植えられ、導水されて拵えられた人工の泉が点々と見つかり、芝や花草による花壇たちは控えめに置かれているばかりだった。代わりに存在を主張しているのは、多彩な色の石で作られた彫像たちだ。胸像、立像は勿論、目を引くのは馬や牛といった家畜の像が多いことだ。まるで本物の家畜の群のようにあちこちに複数体ずつ建っていて、そのそばには牧夫風の像まで建っている。

 なるほど、ジャーダイ伯国が牧畜で身を立てていることを表す装飾なのね。それにしても、石像ばかりが目立って、まるで墓地のようだわ。

 私は隙なく周囲に目を光らせながら、木と木の間に出来た小さな枝陰を見つけ、そこに足を止めた。韋駄天の術をやめた途端、身体からふわっ、と汗が浮く。そしてゆっくり、ゆっくりと息を吸って、吐いた。

「すぅ・・・・・・はぁ・・・・・・」

 息を整えながら、私は枝の陰に身を伏せ、周囲を見る。ここにも当然、見張りの兵隊たちがいた。一体彼らは何の為に立っているのかしら。なるほど、ジャーダイ女伯爵はあまり褒められた領主ではなさそうだわ。領民の評価は落ち、王都から大公が目付にくるかもしれない。そうしたら、領地の保障は取りあげられ、位を維持できなくなるかもしれない。

 あまつさえ、その大公家に嫁ぐ予定だった私の身柄を捕らえようとさえしていたわけだから、これはかなりの叛意ありと見られても仕方がないことね。でも、ジャーダイ女伯爵はどうして叛意なんて持ったのかしらね。世は太平、領民を良く養って慰撫に勤めれば、万事よく過ごせる世の中になっているというのに。


「切った張ったで邪神の手下と殺し合いをしなくて済むだけで、人って言うのは良く暮らせるんだぜ」


 とは、英雄として戦って領地を貰った父の言葉よ。人の死が身近になると人心が荒んでしまうのね。すわ叛乱となったらそんな時代に逆戻りよ。そうはさせないんだから。

「ふぅ・・・・・・」

 深く息を吐いて、汗が背中に貯まってお尻へと垂れた。やがて風で身体が乾くと、私は潜入を開始した。

 まずは庭から屋敷へと移動しなくちゃいけない。私は周囲を観察して、その道筋をつける。疎らな樹木や花壇、石像などの配置物の陰を伝うように移動するわ。

 ただ、陰と陰の間には絶妙な距離がある。韋駄天を使って走り抜けるというわけにはいかないから、見張りの視線が外れた一瞬を突いて動きましょう。

 見張りの兵隊の様子に注目すると、彼らもなにやら一筋縄では行かないようだ。まず、どうもかれらは兵士として訓練されているようには見えない。なんて言ったって、立ち方がなっていないわ。

 むしろその様子は私を捕まえて拉致して行った人攫いの山賊たちを思い起こす。うらぶれているというのかしら。

 私の中でジャーダイ女伯爵への疑念が一層に増したところで、目を付けていた見張りの視線が此方から遠ざかった。瞬間、私は枝の陰から音もなく飛び出し、痩せた花をつけた低木の植わる花壇の下に入った。


 その時、耳に新しい音が聞こえて、緊張に身を強ばらせた。その音は四つ足の足音で、軽い。低くうなるような声もした。

 犬だ。見張りの兵隊は犬を一匹連れている。犬は匂いに敏感で、人よりもずっと手強い狩人だわ。なんとか追い払えないかしら。

 犬を連れた見張りが、さっきまでの見張りと位置を入れ替える。交代で屋敷を巡っているのかしら。

 地面に張り付くようにしながら、首だけ陰から出して犬を見た。中型の猟犬、口が大きく尾が短い。

 その時、私の伏せている花壇の花に、一匹の蜂が留まっていた。これよ!


 ひらめいた私はそっと蜂を指先で捕まえる。そして腕に絡めていたリボンを解いて、優しく蜂を先に包んだ。

 兵隊は犬の様子に注意している。自分より相棒の方が優れた見張りだと知っているのだ。だが、今からそれが仇になるわ。

 私はリボンを振るう。包まれていた部分が解かれながら投げ出されたリボンは、先端に包んでいた蜂を勢いよく飛ばした。すかさず私はリボンを引き戻すが、多分これを見ている者がいれば、宙を舞うリボンの銀色が煌めいて見えたはずよ。

 案の定、これに犬が反応した。鼻先がこちらに向いたのを、私はちらっと視界の端で捕らえつつ、移動のタイミングを待って伏せた。

「どうした・・・・・・おわ!」

「ギャイン!」

 犬が悲鳴を上げて男も驚きの声を上げる。きっと犬は、私が放った蜂に目か鼻をやられたはずだわ。その証拠に、犬の足音と呼吸音が私から離れ、一緒に男も連れ出して行った。

 見張りがいなくなって出来た大きな隙間に、私は素早く飛び込んだ。油断なく陰から陰へ飛び移り、屋根から伝う雨樋の張り出す壁際にたどり着いたわ。

 そこは足元を見るに、さっきの見張りたちが立ち止まる地点の一つのようね。屋根の張り出しがあるので雨をしのぐためかしら。

 ともかく、私はリボンを振るって屋根飾りをつかみ、その縁に取り付く。華美に装飾された屋敷の壁面は一度掴まってしまえば階段を上るより簡単に上ることが出来るわね。

 屋根はノーランドーでは一般的な亜鉛引きの鉄板を薄く張ったもの。冬季に深い雪が降るノーランドーでは屋根は軽くできているのよ。深い傾斜のある屋根を手足を張り付けて上り、私は屋根裏に通じる戸口を見つけたわ。

 ジャーダイ女伯爵。見張りをさせたいのなら屋根から見晴らせるべきだったわね。

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