36 自覚

「ふぁあ、疲れた」


月日はあっという間に過ぎ去り、秋が色濃く草木にその存在を主張させるようになり、寒がりの私にとって夜と朝の寒さが憂鬱の原因になってきたころ。


パソコンの画面に表示される時刻を確認すると夜の11時過ぎ。


オフィス内を見回してみると私のデスク周辺の照明しか点いておらず、誰も残ってはいない状態。


最近見慣れた景色を一瞥して私は姿勢を崩した。だらしなく椅子にもたれかかり、長時間のパソコン作業で溜まった疲労を緩和させるために目頭を押さえる。


残業を意図的に増やしている。


理由は幾つかある。


ひとつは未だに良也が事ある毎に諦め悪く近寄って来るのを避けるため。叱られたのにいい根性している。こちらからの働きかけではどうにもならなそうだったので、外回りを増やして奴が出勤している時間帯になるべく会社で顔を合わせないようにした。


といっても純粋に業績アップのために新規顧客獲得を増やそうとしている面もある。


日中は目一杯営業先を回り、日が落ちてから会社に遅めに戻って来る。だから、帰社後に事務作業や資料作りをすると必然的に残業時間が増えるのだ。


そして、仕事に打ち込むことによって余計なことを考える時間が減る。


これが、ふたつ目の理由。


木野さんと良也が私の精神を立て続けに揺さぶってきた出来事以降、私の生活リズムが変わってしまった。


木野さんは希望通り営業2課への転属が決まり今や同じフロアで働く社員の一人に。


本気で仕事に打ち込んでいるらしく、まだまだ新人扱いとはいえ、その就業態度は評価されていると聞いている。


何故元々総務に配属されたのかも分からないくらい営業センスもあって、付き添いありでの営業成績は他の社員の成績を追い抜く勢いだとか。


好ましい事だとは思う。


入社してからずっと自分と同じように働く女性社員が他にも居ればいいのにと思ってきた。


本格的に独り立ちしてからの成績によって評価が変わる可能性はあるけれど、勢いを見ている限り女子の中でも抜き出た存在になる可能性は高い。


そう、これは私にとっても良いことなのだ。


けれども、どうしても彼女に関して目を逸らしたくなる光景がある。


木野さんは営業部の人間になってから業務開始前と業務終了時に必ず榊課長のデスクへと訪れる。そして、仕事に関するアドバイスを求めるのだ。


はじめは自分の課の上司に聞けと突き放していた課長だったけれど、仕事を始める前と完全に仕事が終わった後を狙って来ること、仕事に対する姿勢が真面目であることが分かってくると無下には出来なくなったらしく、一言二言アドバイスをするようになりそれが習慣化していったようだ。


課長のデスクや休憩スペースで行われるそのやり取りは今となっては一課の皆にとっても当たり前の光景で、はじめは色恋沙汰の課長目当てと批判的な目で見ていた社員も気に掛けなくなった。


悪い事ではない。まして良い事だ。


部署内で最も優秀な社員に教えを乞うことは皆がしないだけでしていけない事ではない。


私だって課長や他の先輩にアドバイスを求めることはある。


違う課だからと言って一課の人間に指導してもらってはいけないなどというルールはないし、就業時間外ならばなおさら問題ない。


でも、私はその光景を見ることに未だに慣れない。


課長が私以外の女性社員と一緒にいる事に胸がモヤモヤする。


木野さんの真剣な顔とそれに真剣な表情で応える課長を目に入れてしまうと、心臓が重くなる。


ただそれだけの光景が目に焼き付いて離れなくなって、私の頭の中を支配する。


仕事をしているときだけ、それを忘れられた。


だから出来る限りそれを忘れていたいがために残業を繰り返す。


「はあ。これはもう確定かなぁ」


独り言が人気のないオフィス内に響く。


そして自分の口が発した言葉がじんわりと自分の鼓膜を震わせて脳に染み込む。


確定、なのかもしれない。


確証はない。


けれども、少なからず私の心は奪われている。仕事をしている以外の時間に囚われて振り払えない程に。


寝不足が続いている。


疲れているのに、頭が余計なことを考えて眠気を押しやってしまうのだ。


目の下の隈が酷くなってきたみたいで、時々それを周囲の社員に見咎められて心配されることが増えた。


でも、どうしようもない。


解決する手段を今の私は持ち合わせていないのだ。


目頭を押さえていた手をどけてゆっくり目を開ける。


見上げた蛍光灯が無機質な光を放っていて、少しだけ私を無心に導いた。


ガチャリ。


扉が開く音がした。


「もう、そういう冗談を言うのは止めてくださいよぅ。その内誰かに怒られちゃいますよ」


「煩い。余計なお世話だ――あれ、川瀬まだ残ってたのか?」


今の今まで頭に思い浮かべていた人間の声が二人分一気に耳に入ってきて、一瞬幻聴かと思って身動きせずにいる。


すると、人が近寄ってくる気配がして、私はがばりと背もたれに凭れ掛かっていた体を起こした。


「――課長、と木野さん」


二人が私のデスクに向かって来る。


何でこんな時間に? 


もう皆帰ったのでは?


予想外の状況に疲れの溜まった頭が冷静な分析をできずにいると、木野さんの明るい声が室内に響く。


「こんな時間まで残業ですか? さすが、川瀬先輩ですね。私も見習わなきゃ」


「ただ残業すればいいってもんじゃない。効率的に仕事をしてれば残業は減らせるんだ」


木野さんの賛辞の言葉を打ち消す台詞は、彼女だけでなく私にも向けられたもののような気がした。


「すいません。……確かに非効率だったかもしれません」


「いや、川瀬の場合は効率云々の話じゃないだろう。純粋に仕事量が多過ぎる」


「はははっ、最近調子よくって」


へらりと笑って、もう帰ると宣言する。作っていた資料のデータをしっかり保存。パソコンをシャットダウンさせるための操作を手早く行う。自然と2人から目を逸らすことに成功する。


そっちはこんな時間まで何をしていたんですか?


頭の中に浮かんできた疑問を口に出したら負けのような気がして、私は早くこの場から立ち去る事だけを考えて準備を急ぐ。


けれども、2人は何故かその場から動く気配がなく、聞いてもいない理由を木野さん自ら話し出した。


「私達は榊課長のお仕事が終わってから休憩スペースでお話していたら、いつの間にかこんな時間になっちゃってたんですよ。課長のお荷物を取りに来たんですけど、明かりも消えてるように見えたから川瀬先輩が居てびっくりしちゃいました」


「そっか、熱心だね。お疲れ様」


私は視線をパソコンに向けたまま、また顔の表面だけで笑ってみせた。


「榊課長のお話ってすごく仕事の参考になって本当に助かってます。毎日少しずつ自信がついてきて、一人で仕事をするのが最近楽しみなくらいなんですよ」


「油断して足元掬われないといいけどな」


「もう、またそんな意地の悪いこと言わないで下さい」


「何が意地悪だ。当たり前のことを言っただけだろう」


「分かっていますよ。教えて頂いた分、ちゃんと結果が出るように全力で頑張ります!」


「――そうか」


あっ。


課長、笑った。


また、木野さんの前で優しく笑った。


不意に私の視線を掠めたその表情は、頭の中で社員旅行の宴会の光景を思い出させた。


あの時、唯一見せた不機嫌ではない顔。


それは一回だけではなく、繰り返し木野さんに向けられていたんだ。


きっと、私の見ていないところでも課長は何度も――。


「うっ」


急に胃に違和感が走って私はお腹と口を押さえて背を丸くする。


「おい、どうしたっ!?」


「大丈夫ですか!?」


課長と木野さんが同時に声を上げて気遣ってくれる。


けれども、そんなシンクロも息苦しい。


私はまた笑顔を張り付ける。


「あはは、大丈夫です。ご飯食べるのも忘れて作業していたから、集中解いたらお腹が鳴っちゃって。それを抑え込もうとしただけです」


適当な嘘を言って誤魔化す。今日は食事をまともに取っていないのは事実だけれど、感じたのは紛れもない吐き気だった。原因は疲れと寝不足だろう。


変に二人を意識するせいか、頭もくらくらしてきた。


早くこの場から去りたい。


私はパソコンの電源が完全に落ちたことを確認すると、デスクの上を急いで片づけて鞄を掴む。


「家に帰ってご飯食べますね」


本当は食欲なんてない。早く帰って眠れないベッドに飛び込みたい。


無意味に気が急いて勢いよく椅子から立ち上がる。


すると瞬間頭がぐらりとして、目の前が白くぼやけた。


「あ、れ…?」


立ち眩みがして私は片手をデスクについて前のめる。


「おい!」


瞬間課長の腕が伸びてきて私の肩を支える。


力強い腕。


この腕に触れられたのは何度目か。


けれども、今までの中で一番今ほど――


――その腕を拒みたいと思ったことはなかった。


「大丈夫です、離して下さいっ」


私はまだ目が眩んだ状態にも関わらず、鞄を持っていた手で課長の腕を掴み離そうとする。


今の私にはこんな温もり必要ない。


感じるたけで辛くなってくるような熱はいらない。


「おい、どうしたんだ? 本当に大丈夫か?」


課長の腕を離そうと力を籠めているつもりだったけれども、課長の腕はビクともせず逆により強く肩を掴まれる。


視界が霞んだままで視線を彷徨わせると、木野さんの顔が目に入った。


驚いた顔をしていた。けれどもすぐにその表情が歪む。


ほら、私なんかに構うから木野さんが怒っちゃった。


目を閉じて改めて、自分に言い聞かせる。


私は大丈夫、私は大丈夫、私は大丈夫。


ゆっくり目を開ける。


うん、大丈夫だ。


「すいません。本当にもう平気です。ずっと座っていたからちょっと立ち眩んだだけです」


「……顔色悪いぞ」


「はは、部屋が暗いだけですよ。あと、お腹が空いているからかもしれないですね。早く帰ります」


「送って行ってやろうか?」


「えっ?」


見上げると、普段あまり目にしない心配気な表情でこちらを窺ってくる課長。


胸の奥から込み上げてくるものがあった。


けれど、それが何か私の頭が認識する前に課長の横から良く通る声がする。


「本当に大丈夫ですか? 必要だったらタクシー呼びますよ」


込み上げてきたものはそこで堰き止められた。


今ここで木野さんは私に課長を譲ってくれるだろうか?


そんなことは絶対に有り得ない。


この子は手段を選ばない子だ。


だって良也を奪われた。


もし課長について来てほしいと私が願ったのにも関わらず、その後課長が木野さんの方を選んだらどうする?


嫌だ。


そんなの耐えられない。


そもそもタクシーを呼ばれてしまったら課長が私と一緒に帰る必要なんてなくなってしまう。


もう先手は打たれてしまったのだ。


「……大丈夫。課長もそんなに心配しないでください。私、体力と丈夫さだけが取り柄なんですから」


「無理するな」


「無理なんかしていませんよ」


私は今度こそしっかり課長の腕を掴んで肩から離させる。


課長の腕は少し抵抗を見せたけれど、私の力が緩まないことがわかると自ら離れていった。


「ほら、荷物を取りに来たんですよね。私は女子ロッカーに荷物があるのでそれを取ってお手洗いに寄ってから自分のペースで帰るんで。二人はお先に出て下さい。お疲れ様でした。木野さんもお疲れ様」


まくし立てるように言うと、私は2人の間を抜けて扉に向かった。


ロッカーにもトイレにも特に用事はなかったけれど、今の状態で課長と木野さんと一緒にいるより、少しの時間を無駄に過ごすほうが何倍もマシだった。


ドアノブに手を掛けて、扉を開ける。


「川瀬」


背後からの呼びかけ。私は背中を向けたまま「はい」と返事をした。


「やっぱり送って――」


急激に甘えたくなる。


思わず振り返った。


でも、見たかった人の顔より先に木野さんの顔が視界に入る。


目が合いそうになった瞬間、睨まれているんだと思った。


けど違った。


木野さんは悔しそうに口を引き結びながら、今にも泣きそうな顔をしていた。


――鏡を見ているような気がした。


同時に脳裏に浮かぶ春の日の風景。


今私が課長を奪ったら、木野さんは泣くだろう。


いい気味だ。


私からあなたは大切なものを奪ったでしょ?


だから。


――だから、


同じことは出来なかった。


別に課長と木野さんはまだ付き合っているわけではないと思う。だから今付き添って貰っても奪うとは言わないかもしれない。


けれども、奪うとか奪われるとか醜い事を考えている今の自分では、過去に傷ついた自分に顔向け出来ない気がした。


表情に何も出ないように、出来る限り平坦に喉から音を作る。


「大丈夫です。本当に一人で大丈夫なんで」


感情を押し殺して呟いた言葉は、温度を持たずに室内に響いた。


「……そうか」


少し間を置いて呟かれた課長の返事に私はもう一度「はい」と頷くと、そのまま二人の顔を見ずに廊下に出た。


そうして無人の廊下に一人きりになってふと思い当った。課長と仕事の内容以外で喋ったことが久々だったということに。


木野さんとはあんなに話しているのに私とは――と考えて一拍後、私は喉の奥で短く笑った。


木野さんと一緒にいる課長が見たくなくて、前みたいに気軽にオフモードになってくれなかったらどうしようと傷つくのが怖くて、自分から課長を避けていたではないか。


これが馬鹿みたいに仕事を増やして残業している理由の最たるものだった。


いつから私はこんな臆病者になったのだろう?


「ほんと、馬鹿みたい」


独り言は虚しく、無音の廊下に溶けて消える。


大きな溜息を一つ。


その後淀んだ廊下の空気を胸いっぱい吸い込み、また吐き出す。


体と心の不快感が消えない。




歩き出す。


泣きそうになって、唇を噛んで上を向いた。


無機質な蛍光灯がまたそこにあった。


チカチカと瞬いていたそれを眺めて一瞬無心になった後、自然に言葉がこぼれた。


「――好き、かも」


最後の抵抗といえる疑問形の言葉尻が妙に滑稽に響いた。

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