明日神様になる僕の妹へ

鍵崎佐吉

明日神様になる僕の妹へ

 『女神さま』は人々の上に立ち、幸福と恵みを与えてくれる存在だと信じられていた。そして五つ年下の、先月十三歳になったばかりの僕の妹が『女神さま』に選ばれた。


 事の発端はまだ幼かった先代の女神さまが急病で亡くなってしまったことだった。元々お体の弱い方ではあったけれど、さすがの長老たちもこんなことになるとは予想もしていなかったらしい。女神さまのご葬儀もまだだというのに、長老たちは次の女神さま探しに躍起になった。これを機に古い風習を断ち切ってしまおうという声もないわけではなかったが、それはかなりの少数派だった。その他の無責任で無関心な多数派は、いたずらに伝統を廃することをよしとはせず、少数派の意見は黙殺された。

 そして長老たちが次の女神さまとして祭り上げたのが妹のヤナだった。ヤナがなぜ女神さまに選ばれたのか、思い当たる節はいくつかあったけど、やはり一番大きいのはヤナの家族が僕一人だけだった、ということだと思う。四年前に両親が事故で亡くなって以来、僕たちは二人で助け合って生きてきた。そして村の統治に関しては、長老たちと女神さまの親兄弟でしばしば対立することがあった。自分たちの権力を固持したい長老たちにとっては、そういった反対勢力は少なければ少ないほどいい。その点、何の後ろ盾もない僕のような若造は、彼らにとってこの上なく都合のいい存在だった。


 ヤナは自分が新たな女神さまになることを受け入れた。僕たち兄妹が村の中で生きていくためにはそうするしかなかったのだ。ヤナはそのことをちゃんとわかっていて、だけどそれを悟られないように僕に笑ってみせた。

「兄さん、私、女神さまになるんだよ? 綺麗な衣装を着て、皆が私に頭を下げて、歓声で迎えてくれるの。本当に夢みたいだわ」

 僕もまた揺れ動く胸中を見透かされないように努めて明るく振る舞った。

「そうだな。父さんたちが聞いたらきっと喜ぶ。僕も嬉しいよ」

「兄さん、私がいなくなったからって洗濯とか掃除、さぼっちゃダメなんだからね」

「わかってるよ、うるさい奴だなぁ」

 女神さまに選ばれた者は、以後の生涯を神殿の中で過ごすことになる。衣食住、何の不自由もない生活が保障されるが、その代わりに世俗とのつながりはその一切が断たれる。僕の妹として生まれたヤナという存在が消えてしまうという意味では、それはほとんど死別と変わらない。それでも女神さまの親族であることは大変な名誉だ。それはむしろ一族の娘を差し出したことに対する見返りという側面が強かった。だが僕にとって妹以上に大切な存在なんて何一つない。どんなものを与えられてもただ虚しいだけだ。

 だから僕は名誉とそれに伴う権力と、二つのものと引き換えに、長老たちにある要求をした。権力に固執する彼らは僕の意図を測りかねているようだったが、やがて渋々といった様子でその要求を受け入れた。


 そしてヤナが女神さまになるその前日、僕は再び彼女に会うことを許された。だがそれは兄としてではなく、彼女が人間として行う最後の食事、その料理人としてである。供物のスープを持って僕が部屋に入ると、ヤナは目を丸くした。

「兄さん!? どうしてここに……」

 たいして時は経っていないはずなのに、彼女はどこかやつれているように見えた。けれどその表情には、確かに喜びの感情も見て取れた。再会の喜びと後悔に似た痛みと、その二つがない交ぜになって暴れまわるのを押さえつけ、僕は彼女に向かって恭しく頭を垂れた。

「……お食事をお持ちしました。どうぞ、召し上がってください」

 僕のその言葉でヤナは全てを悟ったようだった。今ここにいるのは血を分けた兄と妹ではなく、半神半人の聖女とその敬虔な信徒なのだ。誰に見張られているわけでもなかったが、僕は数百年にわたって続いてきた伝統と信仰にはついに抗えなかった。僕は俯いてただじっと静寂に耐えた。僕自身の手で希望を閉ざしてしまった今、ヤナの顔を直視することは、儀礼的にも、また感情的にもできなかった。

「……これは、あなたが作ったのですか?」

 それが長い沈黙の末にヤナが絞り出した言葉だった。やっぱりヤナは聡い子だ。彼女は我を殺して、この暗黙の制約に従ってくれたのだ。

「はい、私が調理いたしました」

「そう、ですか」

 しばらくしてヤナが食器を取る音が聞こえた。ヤナは好き嫌いのない子で、母さんの作った料理はなんでも美味しいと言って嬉しそうに食べていた。両親が死んでからは家事は二人で分担していたけど、料理に関しては僕がすることの方が多かった。まだ幼いうえに作ることより食べることの方が好きな彼女は、控えめに言っても料理人としては落第すれすれだったからだ。

 女神さまになる者は、数日間肉食を控えて体内の穢れを落とす必要がある。本来は慣例によって定められた献立があるのだが、今回だけは僕が無理を言って自分の手で料理を作らせてもらった。昔母さんがよく作ってくれた、豆と香辛料を使った素朴だけど深みのあるスープ。それが今の僕がヤナにしてやれる最大の餞別であり、女神さまに対する最上の供物でもあった。

「……美味しい」

「恐れ入ります」

「あなたの料理を食べていた人は、きっと幸せだったでしょうね」

 僕は言葉を発することができなかった。それは兄への感謝であると同時に、彼女が人間として生きることを諦めてしまったように聞こえたからだ。本当は、僕にもっと力があれば、信仰を打破する勇気があれば、ヤナの手を取って今すぐ村から逃げ出してしまいたかった。だけど彼女はきっとそれをよしとはしないだろう。幼いながら聡明な僕の妹は、自分の自由と将来を捧げれば兄が平穏に生きていけることをわかっているのだ。妹の覚悟を踏みにじることは僕にはできなかった。

「……ごちそうさま」

「では、お下げします」

 僕は恭しく頭を垂れたまま、空になった皿と食器を片付ける。反抗の意思を主張する自らの両手を理性で縛り付け、僕はどうにか役割を全うした。そしてゆっくりと後ずさるように部屋の出口へ向かっていく。僕の背後にあるこの扉が閉められた時、僕は最も大切な人を永遠に失うことになる。

 ヤナの小さな、だけどはっきりとした呟きが聞こえた。

「どうか、お元気で」

 一見すると当たり障りのないその言葉は、しかし何よりも重く僕の心に響いた。

「……失礼します」

 僕は一礼し、部屋の扉を閉めた。幼く聡明な新たな女神さまは、その最初の祈りと祝福をたった一人の兄に与えたのだった。


 翌日はよく晴れた気持ちのいい日だった。神殿のバルコニーから姿を見せたのは、白を基調とした美しい装束を身にまとった十三歳の女神さまだ。穏やかな微笑みを浮かべつつ、彼女は歓声を上げる民衆に向かって控えめに手を振った。まるで何かを探すように民衆の中を泳いでいた彼女の視線は、傍らに控えていた長老の囁きによって現実に引き戻された。

 女神さまはゆっくり目を閉じ、静かに手を合わせた。それに倣って民衆も手を合わせ、静寂の中に祈りを捧げる。ただ一人僕だけが世界から取り残されたように立ち尽くしていた。


 ——なんだ、結構様になってるじゃないか。


 そう思ってしまうのは兄のさがというやつだろうか。安堵とも落胆ともつかぬ感情を抱えたまま、僕もまた目を閉じた。

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明日神様になる僕の妹へ 鍵崎佐吉 @gizagiza

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