日出卜英斗は動けない

 華やいだ昼休みの空気が、不穏にざわつき凍ってゆく。

 生徒会一行の前に突如とつじょ、大柄な男子一同が現れた。皆、道着を着ている。多分、空手部かなにかだろう。

 その中央、一際大きな男子生徒がズズイと前に出た。

 うろたえる周囲とは裏腹に、ハナ姉は動じた様子を見せない。


押忍おす、副会長ぉ! おつとめご苦労さまであります!」


 ビリビリ空気を震わせ、張り上げた声が伝搬してゆく。

 声そのものが衝撃波であるかのように、誰もがおのずと身を反らして後ずさった。

 だが、ハナ姉は穏やかな笑みで応じる。


「押忍ですっ、ごきげんよう。空手部の部長さん、でしたね。どうかされましたかぁ?」

「おっ、押忍……ど、ども」

「あっ、そうでした! 追加予算の申請をされていたんですよね」

「そ、そうであります! 我が空手部にも是非、もっと予算を――」


 俺はその時、見た。

 この目で確かに目撃した。

 ハナ姉は慈母のような笑顔で、無情な決断を口にした。

 それはもう、容赦なく、言いよどむこともなく。

 天使の声音で、死神の一言が放たれた。


「……は?」

「先日審議したのですが、申請は受理されませんでした」

「ぐっ、なっ、ななな、何故なぜっ!」

「多数の生徒から苦情が届いているんですよ? もぉ、空手部さん? 強引な部員の勧誘は、めっ! って言いましたよね?」

「なんと……では、予算は……いていただけない、で、ありますか……ッッッッッ!」


 ひたすらにかわいいハナ姉とは裏腹に、空手部部長さんの表情が急変する。もともとゴツくていかついその顔が、今は修羅しゅら羅刹らせつかって感じだ。

 周囲の空手部員たちも焦り出す程に、空気が険悪に濁ってゆく。

 そして、俺の袖を不意に隣の沙恋されん先輩が引っ張った。


「さて、どうしようか? 英斗ひでとクン、キミならどうする。考えてみて。この手のトラブルは日常茶飯事にちじょうさはんじで、この半年で常態化した学園の日常なんだよ?」

「どうする、って」

「よく考えて。キミはハナの彼氏クンだろう? だったら――」

「だったら! 考えるまでも、ねえっ!」


 そう、俺に考えてる余裕もなかったし、その余地もありはしない。

 まことごと沙恋先輩を置き去りに、俺は廊下の影から飛び出した。

 そして、転がるように走って自分をハナ姉の前に押し出す。

 死ぬほど恐ろしかったが、ハナ姉を案じる気持ちのほうがまさっていた。それに、こうしてハナ姉を守ることが、小さな頃からの夢だったことも思い出される。


「ま、待てっ! ハナ姉に……副会長に手を出すなっ!」

「うん? ……新入生か? ふむ……俺はただ、副会長と話をしているだけだが?」


 そうは言いつつ、部長さんはバキボキと拳の指を鳴らし始めた。

 それで思わず、俺もわずかに身構えてしまう。

 背後からは、なんとも呑気のんきな声がのほほんと響いた。


「あれぇ? ヒデちゃん? どうしたの、こんなところに。部活の見学かなあ」

「それは、その、ええと……内緒! でも、今は、ハナ姉を! 守る!」


 顔が熱くて、舌がもつれる。

 酷く気恥ずかしいけど、俺は自分に迷いだけはなかった。

 ただ、遅れてきた恐怖心に膝がガクガクと笑う。皆が俺をヤンキーだ不良だと言うが、それは誤解だ。そう、俺は日頃から喧嘩なんてしたことないし、有段者とおぼしき空手家との実戦経験もない。

 かといって、いつもみたいに逃げるのは嫌だった。

 売られ慣れてる喧嘩から逃げるのは、一人の時だけで十分だった。


「ああん? 貴様、なんだその目は!」

「目つきが悪いのは生まれつきだ! それより、ええと、先輩! 暴力はやめてくれよな」

「これは暴力ではないっ! 正当なる意思表示、副会長への、いわば威嚇! 示威行動しいこうどう!」

「それを暴力っていうんだよ!」


 俺は咄嗟とっさに、背にハナ姉をかばったまま両腕を上げる。そのまま顔の前で交差させた瞬間、鈍い衝撃が襲った。

 痛みが熱を連れてくる。

 そのまま俺は、踏ん張りが効かずに廊下の隅に吹き飛んだ。

 無様なことに、そのまま壁に激突してズルズルと崩れ落ちる。

 すぐにぽてぽてと、ハナ姉が駆け寄ってきた。


「ヒデちゃんっ! だっ、大丈夫?」

「イチチ……なかなか刺激的だな、高校生活ってやつは」

「もぉ、やりすぎです! 空手部さん、ヒデちゃんに謝ってください! それと――」


 ズシン! と床が揺れて、巨大な影が俺たちを包む。

 俺はハナ姉の膝に抱き上げられながら、怒りに身を震わせる巨躯きょくを見上げるしかできなかった。

 けど、立てると思ったし、実際立った。

 どんな時でもハナ姉を守る、それが幼い頃からの俺の誓い。

 それを共有するまことをチラリと見て、視線で制止する。

 ここは俺が、俺だけでいい。

 それに、もうガキの頃とは違う。取っ組み合いの喧嘩なんかしなくても、きっと先輩も拳を収めてくれるはずだ。た、多分。自信はないけど。


「ほう、貴様……立ちよるか! ならば」

「ちょ、ちょっとタンマ! 先輩、そんなことするから予算がおりないんじゃ」

「問答無用っ! 我が御統学園みすまるがくえん空手部はあ! 拳で語るが歴史と伝統!」

「滅茶苦茶だ! ハナ姉、下がって!」


 そういえば、とふと思う。

 スローモーションで拳がうなる、空気が逆巻く中で思考が研ぎ澄まされてゆく。

 さっき一瞥いちべつした時、まことの隣に沙恋先輩がいなかった。

 まさか、逃げたのか?

 というか、この状況をわかっててなにを……そう思った瞬間だった。

 不意に空手部の先輩が「んごぁ!」とマヌケな声によろけた。

 そして、ゆっくりと巨体を揺すって振り返る。

 そこには、腕組み片足立ちの沙恋先輩が立っていた。どうやら背後から、膝裏を蹴っ飛ばしたようである。その細い針金みたいな右足を、ゆっくり沙恋先輩は下ろした。


「はいはい、そこまで。まったく……キミはいつも粗暴で野蛮だね」

「ぬっ! 貴様は……またお前か! 二年の狭宮はざみや!」

「そうさ、空手部。このボクが、狭宮沙恋だよ。そういう訳で、ハナを今日も助けさせてもらうね? ついでに、そこの英斗クンも」


 俺はついでですか、そうですか。

 しかし、まずい。

 ひょろひょろな沙恋先輩と眼の前の巨漢とじゃ、子供と大人くらいの差がある。それに、なんとなく沙恋先輩が体力弱いのは、先程購買部の混雑でも見たような気がした。

 こういう時、女の子を守って戦うのが男の子だ。

 今どき前時代的と言われても、そういう価値観は普遍なのだ。

 少なくとも俺の中ではそうだ。

 沙恋先輩が男か女かは、この際問題じゃない。


「沙恋先輩っ、逃げてください! ここは俺が、俺が……」

「俺が? ふふ、どうするんだい? 英斗クン」

「俺がっ! 殴られます! 殴られながら、説得してみますから!」

「――ハハッ! キミ、面白いねえ。ま、黙って見てなよ」


 空手部の部長さんは怒り心頭で、容赦なく拳を振り下ろした。

 沙恋先輩の頭上に、鉄拳が落下してくる。

 まるで隕石のような一撃だったが、むなしく空を切った。

 次の瞬間には、一歩踏み込んだ沙恋先輩は肉薄の距離。そうして、ふところに入った沙恋先輩の右手が、そっと空手部部長のあごをすくい上げる。

 そして、全てが止まった。

 呼吸も鼓動も、もしかしたら時間さえも。

 ニヤリと笑った沙恋先輩は、実に蠱惑的こわくてきな表情に顔を歪めていた。


「暴力反対だよ? だって、愛がないからね。ふむ、キミもそうかな……愛が、足りてない」


 そう言って、沙恋先輩は……

 突然、空手部部長のくちびるに唇を重ねた。

 美女と野獣のくちづけが、周囲を無言の絶叫へと誘う。誰もが声にならない声をあげようとして、口をパクパク開け閉めするしかできなくなってしまったのだ。

 そう、チューである。

 それも、たっぷり十秒以上のディープなやつだ。

 そして、ガクン! と空手部部長は膝から崩れ落ちた。


「――ぷあっ、ふう! ごちそうさま、空手部クン」


 そのまま骨抜きになってしまった空手部部長に、慌てて部員たちが駆け寄る。

 それを横目に、沙恋先輩はちろりと赤い舌で唇を舐めた。

 小悪魔なんてもんじゃない、魔王か魔神か、その両方だ。沙恋先輩がなにをしたのかが、俺にはわからなかった。キスしたのは見てたが、キスでなにをどうしたのかがわからなかった。

 ただ、俺の背中にしがみついてたハナ姉が、首だけ出して声をあげる。


「沙恋ちゃん! だ、駄目だよぉ……またそんなことして」


 また? ハナ姉、またと言ったのか?

 つまり、これが初めてじゃない?

 その証拠に、沙恋先輩は悪びれずに近付いてきた。

 あまりにも堂々としてて、不遜ふそんでふてぶてしくて、そしてなんだかなまめかしい色気がふんわり漂う。


「ハナ、怪我はないね? 生徒会諸君も大丈夫みたい。なに、ボクが好きで勝手にやってることだよ? 助っ人部に任せて、ハナたちはハナたちの仕事を頑張ってほしい」


 ――助っ人部。

 沙恋先輩が部長を務める、この御統学園の部活らしい。ボランティア部みたいなものだろうかとも思ったが、やることなすこと過激過ぎる。

 俺は昼休みの終わりを告げる鐘を聴きながら、漠然ばくぜんと理解し始めた。

 生徒の自主独立を尊重する御統学園では、外の世界とは違うことわりが横行しているらしかった。

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