非常の際は、ここを破って隣戸へ避難して下さい

 私は非常に困っていた。ベランダに出た拍子に飼猫が上手い具合に窓の鍵を閉めてしまったのだ。一人暮らしなので中に入れない。携帯は鞄の中。高層階の角部屋なので下に声が届かない。


 今夜は極寒という程でもないが腹も減ってきた。私は隣戸との仕切りに貼られたステッカーを見つめた。隣は無人だが更にその隣へ行けば助けを求められるかもしれない。意を決してボードを蹴破ろうとした私の足は、何故か抵抗もなく次の一歩を踏み出した。


「らっしゃい」


 野太い声に出迎えられ目をしばたたくと、そこには赤黒い肌をした大男と数人の子供達が立っていた。シェフ帽を被った男は、お玉を手にニヤリと笑った。


「ここは…?」

「非常事態食堂だ。時々あんたみたいのが来る。腹減ってるか?」

「ええ、まあ」

「ほれ、食いな」


 カウンターにドンと置かれたスープ皿。食欲をそそるスパイシーな香り。子供達が給仕してくれる間、私は夢中でそれを貪った。食べ終わる頃にはすっかり満腹になり眠くなってきた。


「帰れる場所があるなら帰りな」


 どうやって?と聞く間もなく、気が付くと私は自分の部屋の中にいた。点けっ放しだったTVからはベランダに締め出された子供が失踪したニュースが流れていた。



◇◇◇◇◇



別名・天狗食堂……1話と繋がる世界線。

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