第15話「キス」



 忘れていない、初めてを捧げた翌朝。

 キスして欲しいと、真衣は確かに言ったのだ。

 でも、結果はどうだ。


(秋仁は……、海恋先輩からの連絡に気を取られて)


(………………そういえば、コイツそんな事を言ってたな、すっかり忘れてたぜ)


(分かってます、まだ……海恋先輩の方が優先なんでしょう? 連絡ひとつで私のお願いなんて忘れるくらい)


(今更キスの一つや二つ……、いやでも海恋の前でか?)


 別れたばかりの元カノの前でキス、真衣がそう願う気持ちは分かる、理解できる。

 しかし、だからと言って受け入れるかどうかは別だ。

 秋仁と海恋の恋愛関係は終わった、でも彼にはまだ気持ちが残っていて。


(――早く、答えないと)


 全裸で俯く真衣は耳も首筋も真っ赤で、手は胸の前で祈るように組み合わせて。

 否、祈っているのだ秋仁がイエスと言うのを。

 だが、彼には彼女の言動に引っかかる所があって。


(なんで……なんで何も言ってくれないんですか秋仁っ)


(ここで受け入れるのは簡単だ、セックスだってしたんだ、俺がアイツへの未練に目をつぶればいい)


(ダメ、なんですか? 私じゃ、秋仁の――)


(でもさ、それでお前の不安は本当に晴れるのか?)


 秋仁は手に持っていた真衣の服を床に置き、彼女に近づいた。

 髪に触ると、彼女はビクッと肩を震わる。

 それを無視して、彼は彼女のポニーテールを解いた。


「ぇ……」


「俺は妹の顔をしたヤツとキスする趣味はない」


「ぁ、ぇ、は、はい……、じゃあ――」


「勘違いするな、俺は海恋の前でまだキスする気はない」


 顔を上げた真衣の瞳は、ドス黒い怒りに満ちて。

 秋仁は、そんな彼女の顎を掴む。

 その華奢な腰に腕を回す。


「っ!? ~~ぃ、秋仁っ!! 私じゃ、私じゃ――――っ!? ……………………ん」


「ん…………」


 しかし次の瞬間、驚愕に目を見開いたかと思えば。

 唇にあたる感触に、うっとりと瞼を閉じる。

 秋仁が、有無を言わさずキスしたのだ。


(秋仁……秋仁先輩、秋仁ぉ――)


(俺はバカ野郎だ、こんな時も……いや、考えるんじゃない、今は真衣の事だけ考えろ)


 長い、長いキス、唇を合わせるだけの軽いキス。

 真衣は泣きたくなるほど嬉しくて、でも悲しくて。

 伝わってくる、秋仁が口づけに集中していない事が。


(どうして……キスしてるのは、私なの、あの人じゃないのに……)


(くそッ、キスするんじゃなかった。真衣は海恋じゃないのに、同じようにキスするんじゃなかった)


(ダメ、ダメなの? 私じゃなくて……海恋先輩じゃなきゃ愛の籠もったキスをしてくれないの?)


(どうしたらいい? コイツは海恋じゃないんだ、海恋のフリをする必要なんてないし、こんな風にキスをねだる必要なんて――)


 耐えられない、キスしているのに、こんなにも近くにいるのに。

 真衣の心は、秋仁の心と繋がってくれない。

 ぽろぽろと大粒の涙がこぼれる、顔がゆっくり離れていく。


(嗚呼、ダメなのに、こんなコトで……悦んだらダメなのに)


 悲しくて、悲しくて、悲しくて、――それが何より嬉しい。

 初めて秋仁が自分から、真衣の事を海恋の代わりにしたのだ。

 彼はそんな意図でキスした訳ではないだろう、だが結果的にそうなった。


「酷いヒト……、こんなにも私を悦ばせてどうするんです? あはっ、あははははっ、キス、気持ちよかったですか? 海恋先輩にするみたいにキスして、ふふっ、私、秋仁の道具になれたんですねっ」


「ち、違うっ! そんなつもりじゃ――」


「――やっぱり、海恋先輩じゃなきゃダメなんですね」


 それはとても艶やかな声だったのに、秋仁には何より冷たく聞こえて。

 間違ってしまった、致命的な間違いを犯してしまった。

 後悔に歪む秋仁の顔を、真衣はそっと撫でる。


「嗚呼、いい顔ですね秋仁。ゾクゾクしちゃいます、また一つ……心に私という傷が出来てしまいましたね」


「お前はッ!」


「ふふっ、秋仁が悪いんですよ? もっともっと私の心を傷つけてください、罪悪感で死にたくなって、でも死なせてあげません、そうなったら飼ってあげますから、私だけを求め貪る恋人として、窓のない部屋で飼ってあげますから」


「~~~~ぁ、そんな事を泣きながら言うなッ!!」


 居ても立ってもいられず、秋仁は真衣を強く抱きしめた。

 己が何を言っているかすら自覚せず、言葉を紡ぐ。


「俺は海恋の身代わりなんか求めちゃいないッ、素のお前が隣に居て欲しいだけなんだッ、どうしてだッ、どうしてそんな顔で悦ぶッ、悲しいのに悦ぶんじゃねぇッ!!」


「素の私? 変な先輩っすね。――本当の私って何でしょう、ね、知ってますか? いつも貴方の隣で笑っていた私は……」


 瞬間、秋仁は耳を塞ぎたくなった。

 とても嫌な事を真衣は言う気がする、だけど抱きしめたままでは耳を塞げず、彼女の口も塞げず。


「全部……全部、可愛い後輩のフリです、ずっと見てたんです、研究したんですよ? 秋仁が好む後輩像を、だからあんな風に振る舞ってたんです、――秋仁の知る私は、全て偽物なんです」


「嘘だッ!! そんな、そんなの嘘だッ!!」


「可愛そうな秋仁、でも貴方は何も悪くないの、だって貴方の気持ちに付け込んだ私が悪いのだから……」


「違うッ、違うだろッ、ならあの時のお前はッ、あの人形みたいなお前は何なんだよッ!!」


「っ!? ぁ、そ、それは――」


 言い淀んだ、秋仁にはそれが真実だと思った。

 あの夜、表情の抜け落ちたまま待っていた真衣。

 性癖を告白し、求め、全身全霊で彼を求めていた彼女。


「違うっ!! あんなの私じゃないっ、忘れて、忘れろっ!! 違う、違う、違う、気の迷いだったんです、先輩をからかってただけです、あんな、あんな私なんて、私じゃないっ!!」


「真、衣……?」


「違う、違うんです、言わないで、私は人形じゃないっ!! ただ死を待つだけの人形じゃなくなったんです、だからもう人形じゃない、何の熱も持たない人形じゃないっ!! 取り消せっ!!」


「落ち着け、俺が言葉を間違えただけだ、今のお前の何処が人形なんだ? な? 落ちつけって……」


 血走った目で秋仁の顔に爪を立てていた真衣は、手を離した瞬間。

 ドン、と全力で突き飛ばし彼を拒否した。

 そして力なく、ぺたんと座り込むと。


「…………ごめんなさい秋仁先輩、お願いです嫌わないでください」


「嫌わない、だからさ。今日はもう休もうぜ? ちょっと疲れてるんだよお前」


「…………ありがとうございます、すみませんが今日は家に帰って頭を冷やします、服、返して貰います」


「おう、……でも、帰って来いよ。待ってるから」


 のろのろと立ち上がった真衣は返事をせず、緩慢な動作で服を着ると。

 本当に人形になったような表情で、ふらふらとした足取りで部屋を出て行く。


(――――ダメだ、行かせらんねぇッ)


 それは何の確証もない衝動だった、彼女をこのまま行かせてしまうと取り返しがつかなくなる気がして。

 秋仁は引き留めようと、彼女の腕を掴もうとするが。


「……」「……」


 真衣は振り向かず、秋仁の手を叩き落とした。


(――は? なに拒否ってんだコイツ??)


 だがそれで怯む彼ではない、再び手を伸ばし彼女の手首を掴んで。


「…………離してください」


「気が変わった、側にいろよ」


「休めって言ったの、秋仁先輩ですよ?」


「……」


「ねぇ、離してください先輩……」


 冷たく堅い声、真衣は目を合わせずに。

 彼女の急変に、今までの行動に、自分の想いに、秋仁はフツフツとストレスが溜まっていくのを感じた。


(ああもうッ、イライラするなぁッ、なんでコイツはこんなに無茶苦茶でさぁッ、俺はコイツを拒否せず付き合ってんだよ!! ざっけんなよッ、もう面倒だ一々聞いたり待ったりしてられるか!! 攻めるぞ、俺はもう攻めに回るぞ、追いつめて追いつめてテメェの方から心の全てを剥きだしにするまで地獄に落ちて貰うぞ……ッ!!)


 正しい答えなんてない、愛を囁いても、キスしても、セックスしても解決しない。

 目に見えない傷が深まるばかりだ、なのに彼女の求めを拒めない。

 だから。


「悪かったよ、嗚呼、本当に……俺が悪かった」


「…………先、輩?」


「俺はさ、お前にお前自身を求めてたんだ。お前は海恋になってくれてるっていうのに」


「……………………え?」


「だからさ、――俺は今からお前を海恋として扱うし、これまで以上にお前を本物の海恋にしてやる、そうだ……俺の手でお前を完璧な海恋にしてやるッ!!」


(あ、秋仁がぶっこわれたあああああああああああああああああああああああっ!?)


 これまでとは正反対にすら思える秋仁の言葉に、彼の内面の変化を敏感に感じ取り。

 真衣は、大きな身の危険を感じたのだった。


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