エピソード6

 学校に行くと、話せなくなる。佳菜子は、専らそのことで悩んでいた。自分1人だけの悩みなのだと思っていた。いつ、話せなくなったのかを、思い出せない。保育園は、楽しかった。友達はいたし、何より、話すことができていた。おそらく、話せなくなったのは、小学校に入学したときだろう、ということは確かだ。

 佳菜子がお兄さんに出会ったのは、1年生の冬休みのときだ。初めての人と会うときは、「夜のあさがお」にいる子の中では、力が入らない、っていう子もいるけど、佳菜子はぐっ、と力が入ってしまう。友達やよく知っている先生でも、目なんか見られないし、バイバイ、もできないのに、初対面の人ならなおさらで、顔も見られない。挨拶はもちろん、握手もできない。そんなことだから、佳菜子は人に会うのが嫌いだった。親に、挨拶しなさい、とか、怒られるからだ。お兄さんに会ったときも、そうだった。

「僕は大智です。よろしくね。お兄さんって呼んでね。」

「ほら、佳菜子、名前ぐらい言いなさい。」

でも、お兄さんが言ってくれた言葉で、お母さんは少し、反省したようだった。

「かなこちゃんですね。お母さん、かなこちゃんが味わっている怖さを、想像したことがありますか?どこに行っても、誰かに見られている感覚です。そんな状況で、声が出せますか?動けますか?…すみません、少し言い過ぎました。どうぞ、寒いのであがってください。」

佳菜子は、お兄さんが何を言っているのか、少し難しくて、分からなかったが、お兄さんが味方になってくれていることは分かった。

 こうして、「あさがおライフ」を始めた佳菜子だったが、1か月の間、あまり進歩がなかった。佳菜子が努力を怠っていたわけでは決してない。でも、あのお兄さんに対しても、怖さというか、隔たりを感じてしまっていたのだ。それは、お兄さんにとっても、小学生を預かるのは初めてだったことが関係しているのかもしれない。佳菜子はもう、立派な小学生なのに、幼稚園の子達に対して接するのと、同じ態度で接していたのだ。

「かなこちゃん、そろそろみんなのところに行こうか。」

と言って、佳菜子が動けないときは、背中を押して、無理やり行かせようとした。あるときは、抱えて行くこともあった。お兄さんも、佳菜子が戦っている不安を分かろうとし忘れていたのだ。行きたくないところに行く不安は、崖に出会って、今から落ちるのか、登るのか分からない、こんな感じだ。命綱がないから落ちるのは怖いし、登るのには時間がかかる。そこを、無理やり行かされるということは、とてつもない恐怖だ、ということが分かるだろう。その恐怖は、心が成長するにつれて、一緒に大きくなっていくのではないか、と今ではお兄さんは考えている。

 こうして、家からも、学校からも、お兄さんからも離れてしまった佳菜子は、ついに追いつめられる。ある日の夜、お兄さんに、

「明日、うなずく練習しようね。」

と言われてしまったのだ。お兄さんに悪気はない。でも、佳菜子のことを心配しすぎて、「練習」と言われたら緊張してできなくなってしまうことを、すっかり忘れてしまっている。佳菜子はまた、崖に一人、取り残された気がした。そして運命のその日、佳菜子はどうしようもできなくなって、家(夜のあさがお)を飛び出してしまう。やっとのことで書いたこんなメモを残して。「おにいさんへ。かわらにいってきます。れんしゅうできなくてごめんね。かなこより。」そこでお兄さんは気がついた。声を出すことがゴールではないということに。いろんな子が、心から楽しむことが一番大切なのだということに。佳菜子を縛りすぎてしまっていたということに。

 そのメモをお兄さんが見つけた頃、佳菜子は、いつもの河原で、きれいな石や花を拾ったり摘んだりして歩いていた。

「どうしてわたしはいつもなにもできないんだろう。」

と、ついつぶやいてしまいながら。するといきなり、次の一歩が怖くなって、うずくまってしまった。頼れるのは石と花、それだけ。子供用携帯も、家に置いてきた。

「だれか、たすけて…!」

呼んでも誰も来てくれない。これは大変だ。佳菜子は怖くて泣きじゃくる。

 どれほどの時間が経っただろうか。佳菜子にとっては1日経ったと思われた。すると、

「かなこちゃーん!」

と、遠くの方から声が聞こえた。きっとお兄さんだ。佳菜子はほとんど泣き止んで、帰ろうかなと思っていたところだったのに、お兄さんの登場で、安堵と怒りの両方を感じて、また泣き出した。絶対に振り向くもんか!佳菜子はそう誓った。

「はあ、かなこちゃん、はあ、遅くなって、ごめんね。」

そう言って、お兄さんが佳菜子の肩に手を当てる。佳菜子はそれを振り払う。

「僕のこと、嫌いになってもいいよ。今まで、大変な思いをさせて、本当にごめんね。」

「こっち、向いてくれる?」

向けない。顔が上がらない。お兄さんのこと、ずっと大好きだよ、って、思ってきていた。それは嘘だったのかな。

「僕、気づいたんだ。かなこちゃんは、もう小学生だった。幼稚園のみんなと同じようにやっていたらいけなかったね。ひらがな、上手だったよ。」

そこでようやく佳菜子の顔が上がった。お兄さんを見る。お兄さんは安心して、ほっ、と息をつく。

「一緒に、帰ってくれる?」

返事がない。

「じゃあ、僕は先に帰ってるね。それでいい?」

やっと、佳菜子がうなずいた。

「よかった。かなこちゃんのこと、頼りにしてるから、こんなことができるんだよ、分かってる?」

「だって、小学生だもんね。」

お兄さん、分かってくれたな。佳菜子は思った。心の中で、何度もうなずいた。

 お兄さんが帰っていく。少し距離を置いて、佳菜子も歩き出す。

「かえったら、たすけてくれてありがとう、ってお兄さんに言おう。」

佳菜子がつぶやく。お兄さんの背中は、とても小さく見えた。何だか悲しくなってきてしまった。

 佳菜子は走り出す。お兄さんをめがけて。お兄さんが気づいたときには、もう、お兄さんの手を佳菜子が握ったところだった。そこから家まで一緒に帰った。

 帰ってから、佳菜子はお兄さんに手紙を書いた。渡そうと思ってお兄さんの部屋に行くと、待ってましたとばかりにお兄さんが振り向いた。佳菜子の手元を見て、持っているものに気づく。

「手紙。今日は2回目だね。今なら、読めるんじゃない?」

佳菜子もそのつもりだった。まずは、「お兄さんへ」だ。

「お…」

次の言葉につながらない。でも、お兄さんはちゃんと分かっている。せかさず、ゆっくりと、手紙が終わる最後まで聞いた。

「かなこより。」

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