エピソード5

 「お母さん、学校行きたくない。」

「えーっ?どうしたの?」

愛翔が小学校に入学してから1か月、学校では運動会の練習が始まったところだった。愛翔のお母さんは幸いにも、愛翔の危険をすぐに察知した。担任の先生に、学校での様子を聞いてみる。

「友達は1人、いるようですが、その子との会話も見たことがありません。発表などは、当てないようにしています。また、運動会の練習が始まり、あわただしくクラスが動いている中で、1人取り残されているときがあります。そんなときは、私もどうしていいか分かりません。笑顔も、見たことがありません……」

学校での様子を知らなかったお母さんにとっては、ショックを受ける話だった。

「気づいてあげられなくて、ごめんね。学校、楽しいこと、ない?」

「ひらがなを書くとき。」

普通の子なら、友達と遊ぶこととか、運動会の練習とか、そういうことを答えるだろう。でも愛翔が答えたのは、「ひらがなの時間」だった。

「家と学校、どっちが楽しい?」

「レモンがいるから、家。」

愛翔の家では、レモンというハムスターを飼っている。姉で中2になった依織、兄で小5になった泰成の進級と、愛翔の入学祝いに相談して飼い始めた。でも、レモンがいるから、は本当の理由ではなさそうだ。学校が、楽しくないのだろう。

「運動会の練習は、どうしてるの?」

「…」

しばらく経って、愛翔はこう言った。

「動かないから、見てるだけ。」

「そっか…」

お母さんは、愛翔に聞くのはもう終わりにした。少し距離を置いて、愛翔にとって一番いいことを考える。すると、愛翔が近づいてきて、涙をためながらこう言った。

「どうして僕は、みんなと違うの?」

そして言い終わると、激しく泣き出した。お母さんも、答えられずに一緒に泣くことしかできなかった。

 愛翔も、碧と同じように、幼稚園に入ってから話せなくなった。お母さんは、そんな愛翔に寄り添い、励まし続けてきた。おかげで愛翔は努力家だ。どんなことにも、一生懸命立ち向かう。特技もたくさん持っている。けん玉はもちろん、パズルやゲームなどは努力の賜物だ。しかし、話せないのには変わりがない。お母さんは、悩みに悩んだ末、愛翔を「夜のあさがお」に入れることにした。愛翔の「あさがおライフ」は、こうして始まった。

 お母さんは、「夜のあさがお」のことを愛翔に話した。

「こんなところがあってね、あいとみたいに学校で話せない子を預かってくれるの。あいとなら、すぐ慣れると思うし、きっと楽しいよ。」

愛翔は、あまり乗り気ではなかった。もう、新しい場所にはうんざりだった。でも、一度見学に行ったときに、気持ちががらっと変わった。

 それは、優希が来て少し経った頃だった。

「あいとくんだね。僕は大智って言います。お兄さんって呼んでね。ちょっとみんなの様子を紹介するね。」

愛翔が見た光景は、少し、というかとても変だった。リビングに入っても、誰もいないのだ。

「おーい、みんな、出ておいでー!」

すると、ソファーの後ろあたりから、笑いを押し殺したような音が聞こえる。なんだろう?もしかして、みんな僕をからかっているのかな?愛翔は、少し怒りを感じた。すると、お兄さんが教えてくれた。

「これはね、誰か新しい子が来たときは、絶対にすることなんだ。みんなで隠れて、お出迎えをする。なんでか分かる?」

愛翔には分からなかった。少なくとも、からかってはいなさそうだ。

「ここではこうやって、隠れたいときは、隠れてもいいんだよ、ってことを教えてあげるためだよ、あいとくん。学校では、逃げたくても逃げられなかったかもしれないけどね、ここでは、いつでも隠れる場所が、用意されてるんだよ。」

「逃げたかったら、逃げていいんだよ。」

お母さんも、感心してうなずいていた。そうなのか。愛翔は、怒りが引いていくのを感じた。

「そろそろみんな、出ておいで。紹介だけするよ。まずは、ふうちゃんかな。」

誰も出てこない。リビングは、静まり返っている。

「もう、さっきまで楽しんでたくせに。」

と言って、お兄さんは1人の女の子を引っ張り上げた。まだ少し抵抗している。

「これが、ここに一番最初に来た、ふうなちゃん。ふうちゃんって、呼んであげてね。今は、初めての子にびっくりしてるけど、仲良くなったら面白い子だよ。」

お兄さんが、風菜を降ろした。

「今日は、ふうちゃんだけにしておこうかな。」

風菜が、「なんでー?」という顔をしている。ほんとだ。面白い子だ。愛翔は思った。自然と顔が緩んでいた。お兄さんが、それに気づいて愛翔に笑いかける。

 愛翔はこの日に、「夜のあさがお」に入ることを決めて、次の日から「あさがおライフ」を始めた。「逃げたかったら、逃げていいんだよ。」この一言が、愛翔の中でこだましている。愛翔に初めて、深く突き刺さった言葉だった。

 愛翔が来てから2週間が経った。最初のうちは、みんなとごはんも食べられなかった。他の部屋に移動しても、食べられないときもあった。でも、努力家の愛翔はあきらめない。絶対にみんなと食べるんだという思いを、お兄さんの力を借りながら、実現させた。今では、毎日席が変わっても、ゆっくりではあるが、出されたごはんは最後まで食べきることができるし、おやつの時間に好きなおやつを取って、食べられるようにもなった。

 新しい子の登場で、ずっと隠れていた優希とも、「愛と勇気」コンビとして仲良くなった。言葉は交わさずとも、お互いの気持ちが分かるようだ。お兄さんはみんなに、これからの目標を決めてもらうことにした。もちろん、愛翔にも、優希にも。すると2人の答えはこうだった。「あいとくんと、もっとなかよくなりたい。おはようって、言いたい。」「ゆうきくんと、もっともっと、なかよくなりたい。いつか、ぜったい、はなせるようになりたい。」

 2人の正直さと、仲の良さが現れた目標だった。

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