John Doe(前)

――Kai――

 少し、腹が減ったな。そう思い、カイは大あくびをしながら売店へ向かった。よく分からない物質たちがパッケージされて並ぶ棚の前で、売店のお姉さんに怪訝な顔をされつつ「どれが食べ物ですか」などと聞きながら適当にひとつ選んだ。


 白っぽい生地で挟まれた、鮮やかな紫色の何かと、その他の有象無象だ。きっと、サンドイッチかハンバーガーみたいなものだろう。それを持ってエントランスの方角へ歩き、途中のラウンジの大型テレビを眺めながら食った。


 ――博士と見られ、身元不明の他二名も、その場で死亡が確認されました。いずれも殺人と見られ、警察は――。と、ニュースキャスターが淀みなく原稿を読み上げていく。どの世界でも殺人事件はあるんだなぁ。そんなことを考えながら、空いた袋を近くのゴミ箱に放り込み、近場の椅子に座る。ぼうっと顔に手を添えると、指先が自分の角に当たった。


 少し触ってみる。全体的に硬い。根っこの表面に少しだけ感覚があるのだが、角の上へ行くほど感覚がなくなっていく。コンコンと爪で叩くと、その硬い感触が直接頭に直接響くような感じだった。角って成長するっぽいし、もしかして中まで血が通ってんのかな。そうだよな、ロックさんのとかデカかったし。あ、血じゃなくてPpだっけ。えー……っと、プロトプラズマ?


 そんなことを考えていると、ふとあることを思い出した。博士に呼び出されていたのだ。


 ちょっと勢いをつけて立ち上がり、廊下を歩いていく。そして突き当たり、ニコ博士の私室に到着した。入ってみると、汚かった部屋の汚点が部屋の端に追いやられ山を成し、整地されて空いたスペースに今度は書類が散らかりまくっていた。1周回るどころか2週目に突入した汚い部屋であった。ニコ博士は書類の海に、孤島のように浮いていた。ぶつぶつと何かを呟いている。


「んぇ~……? パープルの前例が無いからかぁ? いやあの特異な状態のせいかなぁ。そもそもどうしてあれで記憶として成り立っているのだ? う~ん? なぜだぁ~っ?」


 間抜けに大きくなっていく声を出しながら、書類を持った手をパタリと自分の身体に落とした。


「ど、どうしたんすか?」


「な~ぞなのだよぉキミぃ。キミはカイなのだよなぁ」


「う~ん? おれは、おれっすけど……」


「そうだろうそうだろう。カイとしての記憶だけが残ったのだよな」


「そうっすね。ジェイクさんの記憶は思い出せないっす」


「ちょっとここに来るまでの記憶を整理してみてくれたまえ」


「え、えーっと。こっちで生まれる前のことと、生まれてからここに来るまでのことしか覚えてないっすよ? リィラと出会って、アーミー……ってかT.A.S.の皆さんに襲われて、なんだかんだでここに来て、ディスカッションしてから、えー……っと? メシ食って来たっす」


「じゃあ、自分のことは好き?」


「えぇ?」


 本当に意味の分からない質問に、カイは目と眉を直線にした。


 答えるにしても、すぐに返事はできなかった。生き方を間違え、『大人の折り合い』を受け入れられず苦しくなって、しまいには間違えじさつした。そんな自分を、堂々と好きとは言えない。


 むしろ、自分以外になれたらなと、思うこともあった。


「……そんなにっすね」


「うん、なんの異常もない! 謎だよぉ~……」


「異常ないのに謎って、そっちのが異常じゃ……?」


 いよいよ彼女の言動が意味不明で、来たことを後悔し始めたカイだった。そう思っていると、ニコがばっと起き上がって目の前まできた。


「――ねえねえ、カイ君っ。ちょっとしたお願い。……聞いてくれるかい?」


 彼女なりに思い付くであろうかわいい仕草を見せつけられ、ロクなことじゃないと分かっていても、かわいいなと思ってしまうカイだった。


「お願いって?」


「ほんとう。ほんっとうに気が引けるんだけど、ちょーーーっとばかり記憶に関する実験させてよぉ」


「じ、実験? 例えば?」


「例を挙げるなら、ねぇ……? ……バラバラとか」


 カイが目を見開くと、ニコはここぞとばかりに両胸を腕で持ち上げて強調した。しかしカイの視線が全く顔から下に降りてこないので、彼女は口を尖らせて抗議の顔をした。


「はーやっぱりキミってのは。こんなに誘惑しているのに全く動じないなんて失礼だとは思わないかね。チューまでした仲じゃないか」


「いや、してねえんすけど? というか、戻せるんすか? バラバラにして」


「…………んー。『身体は』な」


 カイは踵を返して、全力で走った。


「イヤに決まってるじゃないっすか!」


「走るなっ! ねーわたし足遅いんだから! こら待てー!」



――――

 建物の敷地の中心を点として、隊員たちがいつも集まるロビーと売店の間のラウンジから点対称の位置に、あまり人が通らないラウンジがあった。そこでカイはテーブルを挟んでニコと向かい合って座っている。


 そして卓上には、赤い薬と、青い薬。


「…………これは……」


 あの薬なのだろうか。あの、SF映画の。流石に見たことがあるぞ。


 ……見たことあるけど、どっちの薬を飲むんだっけこれ。


「さあ実験の時間だ。ただ、キミのアイデンティティに関係することだから、選択はキミに任せよう、ということだ」


「アイデンティティ……?」


 ニコはテーブルに両ひじを乗せ、両指を組んで、その上に顎を乗せた。


「そもそも記憶と言うのは肉体に刻み込まれるものだ。そして今は、キミの心がジェイクの肉体にいるという状況だ。だからずぅっと引っ掛かっていたんだよ。どうしてジェイクの記憶を思い出せないのか。他の身体の部位にアクセスできるのだから、記憶にもできて然りのはず。そうだろう?」


「それは……確かにそうかも?」


 この世界の人間の身体の構造が分からないので、自分がいた世界の構造で想像する。


 記憶は脳にある。だから幽霊が乗り移ったり、それこそ異世界転生して魂が入れ替わったとしたら、その肉体の持つ脳の記憶を当然思い出せるはず。


 そこまで考えてカイは、それじゃあ『魂の記憶』ってなんだろう、と頭をよぎった。だが、分からないものを考えたって分からないだろうと諦めた。


「記憶が綺麗さっぱり消えることはない。思い出せないというだけで、存在はするのだ。アクセスされない記憶だって、ごくゆっくりと風化していくだけなのだよ。


 つまりキミがジェイクの記憶を思い出せないのは、ひょっとしたら事故によってアクセスすることができなくなったからではないか、と考えたのだ」


「……だからアクセスできるようにすれば、思い出せるはずってことっすか?」


 そう言うと、ニコはその通りと微笑んだ。


「しかし――キミの意思もあるだろう。だから、選択肢を用意した」


 ニコはまず、赤い薬を右手に取った。


「これは、思い出す薬。先ほども言ったように、強制的に記憶へのアクセスを開通する。記憶喪失の患者などに使われる」


 次に、青い薬を左手に取った。


「これは、忘れる薬。ジェイクの記憶へのアクセスだけを、完全に切断することができる。もう二度と思い出すことはできない。その昔、戦争捕虜が使っていたというものをわたしが再現した」


 そうして、両手の平を差し出す。


 右手に、赤い薬。


 左手に、青い薬。


「死んだ人間の人生を背負うか、消し去るか。選ぶのはキミだ」


 ふたつの薬を見つめる。


 時と共に人は変わるものだ。変わる前の記憶を持ったまま、変わった後の人生を歩んでいく。だから過去ジェイクのことを思い出しても、現在じぶんが豹変するとは思えなかった。それより、使命感とも罪悪感とも取れる、胸のざわめきがあった。


 おれはジェイクさんのことを知らないで生きている。だから、おれが彼を覚えとかなきゃいけないんだ。それがせめてもの、身体を使わせてもらってる恩の報いってやつだぜ。カイは決めるなり赤い薬を取り、口に含んだ。ニコのボトルから少しPpを貰って、飲み下す。


「少ししたら効果が出るよ。一気に思い出すとき、大抵の患者は驚くんだ。痛みや苦しみはないけど、スゴい体験らしいからねぇ。安心して、リラックスして構えていたまえ」


「分かりました」


 背もたれに身を埋めるようにもたれ掛かり、目を閉じ、じっと待った。


 ふと、線香花火がぱちりと火花を散らすように、暗い意識の中で閃光が走った。


 ――小さな女の子が、天使みたいに笑っている。


 いや、この世界に天使なんかいない。だけど、そうとしか形容できない、柔らかで、優しげな微笑みだった。


「あ、始まっ……」


 記憶が大洪水のように押し寄せる。


 シーソーの向こうの笑顔。父、痛み、暑さ。


 痛い足。首を振る人、人、人。誰も助けてくれない。役立たず。役立たず。


 ――どうしてだ。


 笑う顔。苛立つ顔。憎む顔。泣く顔。泣く顔。泣く顔。


 ――俺は。


 手のひらを噛まれる痛み握りすぎてしびれる手死んだ人の目。


 ――もっと上手く、生きられたはずなのに。


「大丈夫かな」


 ニコの声で、ふっと現実に引き戻された。


 今のは、なんだ。あれが他人の記憶を思い出すってことなのか。でもなんで、あんな記憶ばっかりが色濃く残っているんだ。


 悔しさと、虚しさばっかりじゃんか。


「外の空気でも吸うかい?」


「……大丈夫っす」


「そう強がらなくてもいい。多くの患者は――」


「――大丈夫だって言ってるだろッ!」


 机に拳を叩きつけた。


 ……え?


 その音と、自分の拳に伝わってくる衝撃に驚き、叩きつけた右手を見つめた。


 今の、自分がやったのか。


「……あ、あの。……すいません」


「もちろんいいとも。わたしも、しつこかった。済まないね」


 見上げると、博士はニコニコと笑っていた。


「その、や、やっぱりちょっと、外行きませんか」


「もちろんだとも」


 席を立ち、椅子も戻さず行こうとすると、ニコが俺の椅子を戻してからやってきた。


 なんだよ。当て付けか? これ見よがしに戻して……。


 ……違う。違うって。自分で戻さなかったのが悪いんだ。なんなんだよ。どうしてこんなことばかり考えるんだよ。


「思い悩んでいるように見えるね」


「そうすか」


 ただぶっきらぼうに答えた。そう思ったことを当ててきそうで不快だったし、それどころじゃなかった。もしこんな状態でリィラに会ったら。もしも傷付けたら。絶対に自分を許せなくなる。


 誰にも会わないよう祈りながら、廊下をぐるりと行き、エントランスから外へ抜けた。渦巻き続ける身体の中のもやを追い出すように、深く深く呼吸をした。それでもわだかまりは、決して消えることはなかった。


「気分はどうかね」


「…………」


「そうかねそうかね。少し歩こうじゃないか」


 促されるまま、建物の周囲を歩く。


「記憶は、キミの中でどのように存在する? あくまでも過去のことか。それとも、ついさっきのことのようか」


「……」


「いま思い出せと言われたら、なにを思い出す?」


 浮かんだのは、娘の――レインの顔だった。無垢に微笑んで、この左手を引いて、どこかへ連れていこうとする少女。そうして思い出していくと、決まってたどり着くのは妻の不機嫌な顔だった。


「……金のことっすね」


 咄嗟に口をついて出た。間違ってはいない。ずっと、金が無かった。金がないから、こうして実験台になってやった。


「ほうほう。なるほど。今も金の不安はあるかね」


「ねえっすよ」


 こいつはいつまでヘラヘラしてるんだ。不安だって、見て分からないのか。放っておけよ。


 そこでまた、自己嫌悪が襲ってきた。今の感覚はよく覚えていた。自殺の直前、ギリギリだったときの自分と同じだった。


「ふむ……」


 ニコはきょろきょろと周りを見る。ここは建物の裏。監視カメラの死角だった。


「気分が良くなることをしようか」


 長いまつげを伏せて、彼女は両腕を後ろに回して胸を張った。


「……なにを」


「さぁ? ただ……今からキミがわたしのどこに触れても、どんなことをしても、文句は言わないよ? ぜんぶ受け入れてあげる」


 じっと、見る。ニットに包まれた大きな胸と胸の間に、引っ張られた生地のシワができていた。そっと右手で、彼女の左胸を掴んだ。ブラジャーもしていないようで、ふわりと柔らかい感触があった。


「んっ……。あぁ……すごくいいよ……」


 ニコの後ろに回って、髪の匂いを嗅ぎながら、両胸を揉みしだく。柔らかい肉の隙間の熱を指で感じた。


 すると、今まで感じていたはずのニコが、くすくすと笑い始めた。


「アハハ。やっぱり」


「……なに言ってんすか」


「今のキミは、カイじゃない・・・・・・


「……え?」


 目の前の景色が、ぶるりと震えた。乳房を掴む手が止まったまま、動かなくなった。ニコはその手を押さえつけ、振り返った。


「……そ、それは……」


「カイならば、逃げていた。でもキミは違う。わたしの魅力的な身体に発情し、セックスを求める健全な大人さ」


「違う、だってお前が誘惑して来たから……!」


 口に人差し指を押し付けてきて、彼女は耳元に口を寄せた。


「この瞬間をリィラ君が見たら、どう思うかな?」


「あ……」


 どうして、思い浮かばなかったんだ。今さらになって、お互いに拳を当てて笑いあったリィラの笑顔が、責め立てるように明瞭に浮かんでくる。


 ……もう、顔見せできねえよ。こんなんじゃ。なんでこんな……こんなはずじゃないだろ。また間違えた。まただよ。


「カイの一面もある、か。ふーむ」


「なんなんだよ……。どうしてこんなことすんだよ……」


「……しまったなぁ。した後でもよかったか。まあいい。フォローになるかは分からんが、気持ちよかったよ」


「うるせえ……」


「さぁて、違うことをしよう――」


「黙れって言ってんだよッ……!」


 胸ぐらを掴んで、壁に押し付けた。


 ニコはただ、キーを取り出して見せた。


「ドライブが好きと、手術前に言っていただろう。わたしの車を少し転がしてみないかね」


 キーに刻まれたエンブレムは、この世界での高級車メーカーのものだ。


 来たのはガレージ。目の前で佇むニコの車は、四輪車風のフレームを用いたホバーだった。高級な革のシートに身を埋め、ガレージから発進すると、スムーズに加速し、ステアリングで車は思うように動く。


 シティの大通りに、行く宛もない前照灯の光の糸を描いていく。自分でも単純だと思うが、それだけでもずいぶんと落ち着いた。流石は最高級のグレードだ。走るだけでこんなに気分がいいなんて。


「……運転が好きだったんだ」


 過ぎていく景色の中でなんとなく、話し始めた。


「こうやって走っているときだけは、鉄のシェルで守られていて、力を持ったみたいだった。アクセルを踏めば、俺でも他の奴らと同じ速度で走れるんだ」


「素敵な趣味だ」


「まあな。……いい車だ」


「ありがとう」


 ニコの感謝にやっと微笑みを返したが、今度は少し居心地が悪くなってしまった。


「…………すみません。そういや、ずっとため口っしたね」


「いいんだよ。むしろ、敬語は使わないでくれたまえ。その方が好きだ」


「そうっすか……。だったら、遠慮なく」


 ただ何も考えず、車を走らせ続けた。ストリートを抜け、ハイウェイへ。右上車線に入り、左の地上車ビークル浮遊車ホバーを追い越していく。上下に二、左右に三の、計六車線。その右上だった。


「いつも思うんだよ。もっと、高くまで飛べればいいのにって。道路なんか気にしないでさ。そうすりゃ絶対効率がいい」


 言いながら、強烈な違和感に襲われた。そう思っていたのはジェイクだ。カイではない。それなのに、いつも・・・と口をついて出た。


 他人の過去が、自分の過去と同じだけ存在する。なんというか不思議な感覚だ。


 逆か? 他人の過去に、同じだけの自分の――。


 ――――。


 ――あれ。


 どっち・・・だ?


「ホバーはそもそも」


 ニコの声に、意識を引き戻された。


「そこまで高く飛べる設計をしていない。地面に空気をぶつける浮力を利用しているのだが、道路から一定以上離れるとそれ以上浮かなくなる」


「そうなのか? でも、一般でも上下に分ければいいだろ」


「ハイウェイだけが上下線ある理由は教習でやったはずだけど。覚えているかな?」


「えー、形状が……ほにゃらら?」


 まあ忘れるかそんなもんとニコは笑った。


「形状っていうのは正解。厳密には、ハイウェイでの浮力は進むときの空気抵抗――つまり揚力さ。前からの風が車を浮かせるように設計されている。このときのジェットはどちらかというと調節用だ。だから高く浮いているのに一般道と変わらない燃料で走れて、下に車が居たり居なかったりするのに同じ高度を保てるのだ。逆に言えば、空気抵抗が無ければ大量に燃料を使ってしまうし、それだと墜落の可能性もあるので、ハイウェイではホバーだけが渋滞しないようにできてる。かならず動き続けるようにね。離脱は簡単だが、合流で待たされることがあるのはそのためだ」


「へぇ~。よく分からん。最初から高く飛べればいいんじゃないか」


「効率は増えるだろうが、事故率まで増やしてはいけない。高低差を厳密に決めなければ衝突するのは目に見えている。空中で事故を起こせば、巻き添えのリスクも跳ね上がるだろう。民家に墜落しては目も当てられない」


「そうならないようにさ。安全装置? とか付けれるんじゃないか」


「どこから飛び出すかも予測できないものに対して、現実的に実装できるほど性能のいいものはない。法で高度を整備したとしても、リスクが大きすぎるしねぇ」


 ニコは助手席のシートに寝そべるようにして、こっちを見た。


「技術は人類のために頭の良い者が生み出し、頭の悪い者のために法が腐らせる。バカの被害者を減らすためにバカ以外が割りを食うのが現実だ。自由にお空を飛ぶのは諦めたまえよ? 自由が失われるほど事故も減るんだからさ。アハハハハ」


 そろそろかと、なんとなくハイウェイを降りた。少し走って、目の前の光景に思わず信号を無視しかける。


 ここは、故郷だった。ジェイクが子どもの頃は別のところに住んでいたが、『亡命』してからの生活はここだったのだ。無意識に向かって来ていたらしい。そのまま、覚えのある道を辿る。


 あのバス停のベンチは、面接で疲れて寝た場所だ。それで警官にしっかりしろだの言われたんだよな。俺がやる気を出して、てめぇら社会に尽くしてやろうとしてんのに、うちには必要ない必要ないと手軽に首を横に降る。どこも雇わねえくせに働けだと。


 だったら働かせろと警官に言えば、お前が面接に受かるとは思えないと来たもんだ。お前が雇わないならどこが雇うと思ってるんだ? 社会が俺を見捨てたんだから、俺が社会のルールなんざに従わなくっても文句は言えねえよなぁ。だから俺は――。


 思い切りブレーキを踏んだ。ニコが、「のわぁっ」などと言いながらシートベルトに受け止められる。


「ど、どうしたのだい。急に」


 驚きの顔が、そっと覗いてきた。後ろの車がクラクションを鳴らしながら追突ギリギリで回避した。だがそんなことさえどうでもよかった。


「…………金が無かったんだよ。生きられなかった。だって、誰も雇ってくれなくて……」


 どう言えばいい。うまく、言葉にできない。


「それで、どうしたんだ」


「……人を……殺した。売れるものを盗んで……」


 面接で俺を落とした会社から出てきた、ブランド物の靴の男を追った。路地で、口を塞いで押し倒す。その手の肉を噛まれながら、腹を包丁で滅多刺しにした。


 滑らないように、奪われないように、感覚がなくなるくらい柄を強く握った。ずっと、刺し続けた。動いたらヤバい。電話を取り出したらヤバい。声を出されたらヤバい。そんなことばっかり考えて、ぐちゃぐちゃになるまで刃でかき混ぜ続けた。


 それから、金目のものだけ盗んで逃げた。ついさっきの出来事のように思い出せる。


「ちょうど、あいつらが……嫁と娘がナラクに来るってときだったんだ。亡命だったからロクな金もなしに。金がなきゃ食えなくて、死んだかもしれない。そう、だよな……?」


「一人殺して、三人生き残る。ま、妥当な落としどころじゃないかな?」


 ニコは責めるどころか、認めた。彼女の顔をじっと見ると、目と眉を一直線にした。


「認められたいのか否定されたいのか、はっきりしたまえよキミはぁ!」


「……はぁ」


 ため息を返して、前を見た。彼女にまともな反応を期待する方が間違っているんだ。


 やりどころもなく、形にすらなれなかった感情が積もるだけ積もって、何にもなれなかった。


「ふーむ。ところで、『亡命』ってワードが気になるね。というのも、キミの家族についての情報が全くないのだよ。奥さんは要人か何かかね? どこのお国から逃げてきたのだ?」


「…………」


 答えたくなかった。ニコもそれを察したか、それ以上は追求しなかった。


「……おやぁ? ここで停まったのはちょうどよかったようだね」


 なにかに気付いたニコが車から降りて、歩道に立った。


「あ、おい待て……。ああもう」


 車を路肩に寄せ、降りる。そこはちょうど、公園の前だった。そしてその向こうに古いマンションがある。


 あそこが、家族の住む方の自宅だった。アーミーの被献体になる直前には、借金取りが家族に手を出さないよう別居していた。


「住所はあそこだね? 公園の奥って資料にあった。さ、行ってきたまえ。わたしは車の番をしよう」


 それだけ言って肩をぽんと叩き、ニコは車に戻った。


「…………」


 行って、どうすんだよ。そんな思いとは裏腹に、無意識に足は歩み始めた。


 でも、もしかしたら、ずっといい生活になってるかもしれない。そうだよな。だって、物凄い額の金が振り込まれたはずなんだ。なんなら、こんなところ引っ越してるよ。だから様子だけ見て、帰ろう。


 それにおれは、ジェイクじゃ……。


 ……俺はカイでもない、のか。


 気づけば、部屋の前に居た。一階の、一番奥。


 なんとなく、捲っていた上着の袖を戻してボディガジェットを隠した。だが扉の前で立ち尽くしたまま、時ばかりが過ぎた。


 まだ、分からない。どっちとして接すればいいんだ。この感情はどっちの――。


 がちゃりと、扉が開いた。まだノックもしていないのに。


「――あっ! パパぁっ!」


 腰ぐらいの背の少女が、体当たりのように飛び付いてきてぎゅっと抱き締めた。


 それは、あの記憶で微笑んでいた天使だった。

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