第3話 発火

 官庁街に響き渡るチャイムが鼓膜を撫で、休憩時間の終わりを告げる。気が付けば、私は半ばプログラムされたかのように庁舎の入り口をくぐっていた。先ほどまで、ある種魅了されたような気持で市民の群れを追いかけていたのが嘘のようだ。帰りは電気が復旧していたお陰でエレベーターに乗ることができた。階段も嫌いではないが、あの灰色のひやりとしたコンクリートの空間よりは、(たとえ錆びた鉄と潤滑油の香りが充満する空間でも)ガラス張りのエレベーターの方が仕事を再開する前には気分はいい。

 エレベーターのドアが開き、今度は課長の机の脇のドアを開ける。

 「ソウ!また会ったな。」

 そこにはレイともう二人、輸入課と市場課の課長もいた。

 「ソウくん、ご苦労。かけたまえ。」

 市場課の課長、オリバーに促されてパイプ椅子に腰を下ろす。彼は今年で四十歳になり、湾曲した髭が特徴的な、典型的な官僚だ。上司としては、過度な要求はしてこないが楽な命令もしない、ごくごく平均的な人物だ。そして正面にはレイと輸入課の課長、ロンが座っている。この人物のことはよく知らないが、レイの話から考えると、レイのことをいたく気に入っているようで、こういった会議にもよく同席させるようだ。

 「今日の議題なんだが、全員揃ったところだし、早速説明しよう。」

オリバーが手元の書類に目を落としながら話し始めた。彼の少し青ざめた表情で察していたが、彼が読み上げる報告書の数字は、先ほどの散歩の記憶を補強するのに十分なものだった。

 「今週だけでも闇市場の密造飲料と粗悪な食料による死者数は百人を上回っていると見られ、密造品に手を出さず、飢えと脱水で死亡する人数も同程度いると考えられる。具体的な混入物としては、パンには木片や砂が、水に工業用オイルや化学廃水、時には動物の・・・」

 予想通りといえば予想通りだが、状況はかなり深刻化しているようだ。いや、今までが幸運すぎただけかもしれない。次に輸入課の報告書がレイによって読み上げられた。

 「輸入した物資が本当に本来の用途で用いられているのか、海外からの疑念は膨らみ続けています。彼らは我々が輸入した物資を隣国に横流ししていることに感づき始めており、なおかつ政府が発表する、新規の建設プロジェクトや既存のプロジェクトも、我々にそのような事業を実行する能力が本当は欠如しており、実際は政府の見栄で、ありもしないプロジェクトを発表しているのではないかと考えていて、我が国への輸出抑制も視野に入れているとの報告もあります。」

 国民が密造品で飢えと病に喘いでいることよりも、毎週百人がそれで死亡していることよりも、こちらの方が問題だった。たとえ国民の半分が死亡しようとも、官僚と政府が存在する限り、国家は消滅しない。国民が何割死亡しようとも、それは内向的な問題だ。が、海外からの投資や物資が消滅するのは、政府の消滅を意味する。外部からの問題は、外部によってのみ、解決できるのだ。そして、その望みは、限りなく薄い。

 「どうする。」

 全員が絶望の沼に沈みつつある中、ロンが口を開く。が、その顔は青ざめており、自分の運命が手元のレポートに記されているかのようだ。

 「まずは外国の連中の疑念を何とかして誤魔化さないとまずいぞ。賄賂でもなんでも送って外国のジャーナリストに、我が国の素晴らしさを宣伝させよう。

 レイが報告書を握りしめながら提案する。私とロンは賛成したが、オリバーが反対してこういった。

 「最近財政課の友人から聞いたんだが、国庫の残高があと二か月分しかなく、これ以上の予算の増加は不可能で、来月の輸入物資の隣国への横流し取引に全てが懸かっているという。そもそも我が国の通貨は賄賂として送るには国際信用度が低すぎ、飢え死に寸前の人間ですら受け取るか怪しい代物だ。」

 その後も全員が各々意見を出し合ったが、最終的に全員の着地点として、我が国の財政は持ってあと三か月。もし隣国への横流しが失敗すれば二か月で輸入が止まり、世界中に我が国の虚栄が暴かれ、最後には国民もろとも政府が力尽きて崩壊するだろうというところに落ち着いた。

 結局いくら話し合っても、我が国の崩壊がどんなふうに起こるかについて意見を交換できたに留まった。どんどん時計の針(これも頻繁に止まるので信用はできない。)が回るにつれ、会議室に充満する絶望はどんどん全員の身体を満たし、遂には全員が沈黙するまでに至った。

 突如として沈黙は破られた。爆発音と停電、そして叫び声。会議室の中で、この事態に真っ先に対応したのがオリバーだった。彼は一瞬で何が起きたのかについて理解し、素早くドアを閉め、叫んだ。

 「全員ありったけの机と椅子でドアを塞げ。下の階の人間はもうだめだ。」

 一瞬同じ部署の同僚を呼ぼうとドアを少し開けたが、階段を駆け上がり終えた群れの一人と目が合い、彼は理解不能な叫び声を上げ、こちらに向かってきた。くすんだ茶色のぼろ切れに裸足。数時間前に見かけた群れと全く同じいで立ちだ。一瞬時間が止まったように感じたが、すぐにレイの叫び声で時計が動き始めた。

  「閉めろ!ソウ!閉めるんだ!」

 慌ててドアを閉めた。が、刹那、あの面長の男と目が合った。数時間前の周りを警戒してるような目ではない。勝利した者の陶酔を含んだ目だ。私は一生、あの目を忘れることは無いだろう。

 レイとオリバーがドアを押さえつけている間に、私とロンがありったけの家具、電気器具、書類棚をドアに押し当て、群衆の激しい突進に何とか耐えられる位には補強が完了した。しばらくして、群衆は突破を諦め、数人が残り、それ以外の者が下に降りて行ったようだった。不気味な静寂と同時に状況が多少好転したところで、レイが最悪の可能性に言及した。

 「奴ら、俺たちを燻し出すつもりじゃないのか。」

 オリバーが顔を撫でながら言った。

 「大丈夫だ。官庁街の街路樹は大抵昨日の雨で湿っているし、この部屋に煙が入ってくる前に奴らの方が煙に巻かれてしまうさ。」

 だが、と前置きして彼は続ける。

 「確かに飯もないし、ワインも飲めない。ここから出ていかないといけないのは明白だ。」

 そして彼は頭上のダクトを指して言った。

 「ここから外の排気口まで行ける。ワインがまだ飲みたきゃ着いてこい。」

 外の群衆に勘付かれないよう、オリバーが皆を肩車し、まず私が金属製の蓋を机に入っていたドライバーで外すと、暗闇と冷たい風が頬を撫でた。外し終わると、レイ、私、ロン、そしてオリバーの順番でダクトに入っていった。最後、オリバーの太い腕を握って持ち上げた時、彼が一言呟いたのが聞こえた。 

 「すべて終わりだ。」  

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虚構の国 @heinkel

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