第4節(2/2)

 しばらくして、細長い木箱を持った富守が戻って来た。地べたに座った富守は、政綱たちを手招いた。

 木箱にかけられた紐が、富守の痩せて乾いた手によって解かれてゆく。三人も腰をおろし、箱に深く一礼した富守が蓋をとるのを見守った。

 両手で持ち上げた蓋を静かに置き、富守は畳まれた紙を手にとった。

「これが神の詫び証文だ」

 政綱がうなずくと、富守はそれを開いてみせた。文字は、日出ひじで常用されている真名と仮名とは違う。文字というよりも、記号、あるいは絵に近い。当代の文字と較べてみると、普段使っているそれが洗練された物だとよくわかる。

「その昔、彼の地の水神の眷属が、この村の者をいく人か殺した。人々は手を携えて、それを懲らしめたのだ。証文は、その時に受け取った物だ」

 富守は、証文を政綱に差し出した。政綱が受け取ると、続けてこう言った。

「おおよそ、こんな風に書いてある。〝我は罪を謝し、許しを求める。自今以後じこんいご、清滝の者を我が眷属がごとく慈しみ、その苦しみを永くわかち合うことを誓う。水を求むれば雨を呼び、光を求むれば雲を退かせん。飢える子あらば、我に其を委ねよ。天に日月がある限り、この誓いの旨に背くまい。もし違うことあれば、我が朋友たる国津神々の、逃れる場のない怒りに触れんことを〟」

 政綱が字面を追っている間、〈望月〉と雲景は両側から証文を覗いていた。最後の一文字まで――少々自信はないが――確かめた政綱は、ゆっくりと顔を上げた。

「おまえたちは、神代文字が読めるのか?」

「いや、証文の中身は口伝で受け継いでいる。さて、これで納得してもらえただろうか」

 政綱は、冷めた表情で言った。

「子を妖に間引かせる言い訳には、持って来いの言質だな――これが正文しょうもんで、由来譚が事実であればの話だが」

「証文でなくてなんだと言うのかね?」

 それを聞いて、雲景が口を開いた。

「政綱が言ったのは、本物の、然るべき筋で作られた文書という意味だ。セイブンと書いて正文と訓ませる。彼は、その詫び証文は本物なのかと訊いている」

 富守が目を細め、睨むようにして問うた。

「あんた、侍烏帽子を被っているが、もしや将軍府の奉行人ぶぎょうにんか何かかい?」

「いや。もと朝廷の外記局げききょくに勤めた官人だ。これでも、父の師次もろつぐ大外記だいげきの任にあった」

 富守は、奇妙な表情で雲景を見た。

「ほう、官人殿と? ――ああ、当然ながらこれは本物だ。言い訳でもなんでもなく、神に誓いを守るよう求める正当な理由だ。子らは異界で、飢えも病も争いもなく幸せに暮らしているのだ。わかるか? 我らは子を間引いて――殺しているのではない」

「本当にそう――」

 言いかけた政綱の手から、〈望月の君〉が証文を取り上げた。青い瞳は政綱の倍以上の速さで文面を検め、紅をさした唇が冷ややかに歪められた。

「この手の物は、自分たちのために――うしろめたさを隠すために作られる。どんな罪の意識か、それは人によって様々だけれど、目を背けようとしていることには変わりない。だけどこれは、言い訳にしてもお粗末ね」

 〈望月〉は、証文を政綱に返して言った。

「読みづらかったんじゃない、政綱? 太郎坊殿は、あなたに間違いのない神代文ばかりを読ませていたみたいね。いい物を沢山見せようとした愛情に敬意は表するけれど、間違いも教えないと、真贋を見極める目が育たないわ」

 政綱は、もう証文を読み返すつもりがなかった。あまり目に入れると、どうしようもなく眠気が襲って来る。

「あの爺さんも、その方面では青龍殿には到底敵わんさ。御許が一緒でよかった。教えてくれ、この証文のどこがおかしいんだ?」

「数えればいくつもある。でも細かい話はよしましょう。最も肝心で、あの子たちの命に直接関わっているのはひとつ。富守、あなたはさっき、〝飢える子あらば、我に其を委ねよ〟と言ったわね。その一文、字面の通りに読んで訳すと、〝飢える子あらば、決して我に其を委ねよ〟になるわ。――一応、この〝決して〟を、子を手放す覚悟を決めて、という意味に解釈することはできる」

 雲景は、それがどの一文――彼からすれば、どの記号から記号までの塊――なのかわからず、顔をしかめたまま言った。

「したが、そう好意的に見るには、他にも不自然な点が多い。そういうことか?」

「ええ」

「じゃあ、これは偽作なんだな?」

「間違いなく。でも、完全な偽作というのも当たらないわ。間違え方が不自然なの。どれも、余計な物があることによる誤りで、脱字ではない。書き手にいくらか知識があったんでしょうけど、おそらくこれは……」

 政綱は、証文を折り目に沿って畳みながら呟いた。

「元になった文書がある」

「ええ。きっとそうに違いない。わたしが思うに、元になった物では、神が人に訓戒を与えるための文言が連ねてあったのよ。たぶん、その中で一番伝えたかったのは、決して子を捨てるな、ということね。――間引きを神に押しつけず、親として己の手で始末をつけろ。正文では、そう伝えていた」

 〈望月〉の射貫くような鋭い視線が、富守に向けられた。村の長は、言葉を忘れたかのように口を閉ざしている。

 空を覆った雲は、相変わらず厚い。それは龍宮巫女が招き寄せた物ではなかった。政綱は、灰色の薄明るい空を眺め、富守が自発的に話し始めるのを待っていた。

「帰ってくれ――」

 富守は誰とも目を合わせずに言った。

「もう何も話すことはない。わしらはここで、こうして生きてゆくしかない。それとも、力尽くでもこの暮らしを壊し、結局は誰も生き残れぬようにしてしまうのかね? そこまでする由緒があんたらにはあると?」

「いや、ないな。所詮はよそ者だ」

 政綱があっさり答えると、雲景が驚いたように声を上げた。政綱は彼を手で制し、富守の苦しげに歪められた顔を見た。

「だから、このまま去ることもできる。したが、人狗として、人間のおまえに是非とも伝えておきたいことがある」

「なんだね?」

「おれたちが去った場合、この清滝村にはふたつの道が残る。ひとつは、このまま望まぬ殺しの苦悩を抱えて暮らし、これからも同じことを繰り返す道。いまひとつは、ここで――それも、そう遠からぬ先に――皆死に絶える道。どちらかしかない」

 富守の目に、政綱には見慣れた光が宿った。鋭く、思い詰めたような、危うい儚さを持った眼差し。家名と伝統のために一命を投げうつような、重代の武士のそれだった。

「人狗殿、死に絶えるとはどういう意味か?」

「こんな山の中で暮らしていて、その地の神に見放されるとどうなるかを考えろ。待っているのは百鬼夜行だ。あれは、都大路でこそ起こるものだと皆が言う。だが、田舎だろうと同じようなことは起こる。おれがこの目で見てきたことだ」

 都は人の目が多い。都という土地が妖の跳梁に敏感なのは、何よりもその人口――それから口さがない性質――のお蔭だ。対して、田舎ではその目が少ない。だから起きたはずの事件、事故が、相対的に目立たないだけのことだった。

 雲景がぽつりと言った。

「誰だってそんな終わり方はしたくない。あれは、目も当てられない」

 富守は天を仰ぎ見た。それから腕を組み、目を閉じ、そのまま少しの間身動きしなかった。秋風と言うには少し冷た過ぎる風が吹くと、静かに長く息を吐いて言った。

「人狗殿。ひとつ、お願いしたい」

「なんだ?」

「水神様のご様子を、伺って来てはもらえないか。あんたがカワコマとやらを退治した辺りから更に遡ると滝がある。昔は、そこにお祀りしてあった」

 政綱はうなずいた。

「わかった。行ってみるとしよう」

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