第2節(1/3)

「待ったか、柳丸やなぎまる? 悪かった。退屈しただろう?」

 政綱は、鳥居の脇に待たせておいた月毛馬を撫でた。並みの馬より背の高い柳丸は、政綱と同じく鳳至ふげし山中の異界――神々は異界を〈庭〉と呼ぶが――で育った。鳶の野分丸と彼は、下界を旅する政綱を助けるのが役目だ。

 小笹の北、五十町(約五・五㎞)ほどの地点にある山麓の寂れた社は、簡素な木の鳥居と小さな拝殿があるばかりで、塀も柵もなかった。柳丸はその鳥居の脇で、黄白色のたてがみをふわりと靡かせて待っていた。

 鳥居の向こうは、丘を上がる坂道だ。そこからおりて来る足音を聞きつけ、政綱は愛馬の首を優しく叩いた。相手に横顔を見せたまま、政綱は言った。

「出迎えご苦労、雲景うんけい。やっと終わったぞ」

 坂からおりて来たのは、青裾濃すそごの水干に、萌黄色の手甲と脚絆を当てた若い男。雲景と号する没落官人の草紙書きだ。今日もいつものように、赤黒いヌエ革の荷袋を袈裟懸けにしている。

 雲景は愛想よく微笑んで応えた。

「よく戻ったな。どうだった? 〈小笹の蛟〉は息災だったか?」

 雲景は色が白くて鼻がすっきりと高く、それなりに整った顔立ちをしている。どこから見ても、生まれに似合いの公家官人といった風情で、刀と言っても腰刀しか差していないのだが、日頃から侍烏帽子を被るのを好んでいる。理由は政綱も知らない。

 政綱は雲景のほうを向くと、宝剣の包みを見せた。

「達者に暮らしているらしい。中々立派な構えの屋敷に住んでいた。あんな暮らしなら、剣のひと振りくらい失ってもどうということはあるまい――まぁ、少しばかり屋敷の修理は必要だろうが」

「へぇ、あの盗人がね。――それが盗まれた鉄剣か。ちょっと見せてくれないか?」

 錦の包みを雲景に手渡し、政綱は鳥居を潜って坂をのぼりにかかった。

 ここには滅多に人が訪れないようだ。風雨のせいだと思われる倒木がいくつも転がり、何を祀っているのかわからない壊れた祠が、道の脇でほったらかしになっている。

 うしろから追いついた雲景が、「いい経験になった」と剣を返し、こう続けた。

「てっきり、奴の首も引っ提げて帰って来ると思っていたが。その口振りだと、まだ生かしてあるようだな。山の兄弟を殺された恨みは浅くないだろうに、何故だ?」

「何故と訊かれてもな。今日でなくともいいと、なんとなくそう思っただけだ。首が見たかったのか?」

 雲景が顔をしかめた。

「まさか。八日前を忘れたか? 市場の外れで二十余も首が晒してあるのを見ただろ」

「謀叛人の処刑だったか」

「そうとも。岩動いするぎの町で宮将軍のお命を狙った者たちだと聞いたが、侍所さむらいどころに引き渡されもせずに刑場の露と消えたわけだ。ふむ、何か明るみにするとまずい、立ち入った事情があったのか。……まぁ、なんであれ、当分はああいうのは御免だよ」

「そうだな」

 政綱は、仇を討つ気にならなかった理由が、自分ではそれなりにわかっていた。だが、いまの会話でそれに蓋をした。新しい言い訳は、木に渡された縄にぶら下がった首を、いくつも見たせいだということになった。

「それより、雲景。〈望月もちづきの君〉は?」

「少し前に戻って来た。上でおまえを待ってるよ」

 坂道はまだ半ば以上残っているが、雲景は用心深く声を落とした。

「そろそろ潮時だと思うが。彼女のために駆け廻って、もうひと月になるぞ、政綱。おまえたちが、色々あって知り合ったのはわかっているし、上手くいってほしいとも心から願っているが、それでも敢えて言いたい。いいか――」

「言われなくても最前承知のことだ」

「口ではそう言うが、いざあの美しい顔で頼まれると断り切れないだろ? いつもそうだ。聞けよ、政綱。この秋に由須ゆすの龍神宮に呼び出されて以来、おまえはもう五つもただ働きをした。五つだぞ。仕事に礼を求めるのはおまえの権利で、且は責務だろう? 神使いのおまえがただで使われるというのはつまり、太郎坊殿が軽んじられているのと同義だ。由々しきことだぞ」

「〈望月〉は、その師匠が戦友と認める青龍殿の弟子だ。鳳至山と由須の龍宮には、神代以来の長いつき合いがある。さほど問題にはならんさ」

 雲景は呆れたと言わんばかりにため息をつき、首を横に振った。

「じゃあ、この問題はどうだ? ――その五件の中で、おまえが刀に触れずに済んだのは、ただ一件だけだった。その一件も、半狂乱の婆さんから、あわや目に火箸を刺されるところだったろう。あの時、彼女は涼しい顔して言ったよな? 〝簡単な呪いを解くだけよ、政綱。人狗のあなたなら、それくらいなんの問題もないわ〟。確かにそう言った」

 坂の上にある拝殿の、苔むしたすきっ歯の瓦屋根がちらちら見えている。政綱も声を落として言った。

「人間のおまえには意外かもしれんが、おれみたいな異人の旅とはそういうものだ」

「わたしは、〈鳳至童子〉の旅仲間だと自負している身だ。それくらい理解しているさ」

 元々、〈鳳至童子〉なる呼称を政綱につけたのは雲景だった。そのせいで、口に出して言う時にはいくらか自慢げになる。だが今日はすぐに表情を改めた。

「その上でこう言ってるのがわからないか、政綱。いくらおまえが当代きっての人狗でも、いまに命を堕とすぞ」

「そいつはどうも。衷心、痛み入る」

「ああ、どうも。だが、わたしは冗談を言っているわけじゃない。彼女との約束は、これで全て果たしたはずだ。よく考えることだな――もうあまり猶予はないが」

 ふたりが口を閉ざしてすぐ、拝殿の全体が目に入った。古びた小さな建物で、もう数年すればなくなってしまいそうな儚さが漂っている。曇り空のせいばかりでない、湿っぽい社地を歩くふたりは、ほぼ同時に足を止めた。

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