第36話

 智輝と葵は、友里奈がヒトガタを木に打ちつけたという神社に来ていた。

 地域住民で守ってきたような神社の、小さな境内の裏手に木が密集している。


「どこにあるんだ……?」


 既に時刻は零時を越えていた。不審に思われないようにと、この時間を選んだのだ。

 細く絞ったライトで木を一本ずつ照らしてみるも、友里奈が残したヒトガタは見つからない。

 誰かが見つけて処理したのだろうかと思い始めた頃、葵が智輝の腕を掴み、ライトが固定される。


「葵さん?」

「その木だよ」


 一本の木を照らされていた。根元から枝が伸びているところまで、幹に視線を這わせたが、ヒトガタの姿はない。

 だが、葵がスッと伸ばした手の先に、キラリと輝くものがあった。釘だ。


「……無駄に手の込んだ作りにしたものだね」


 葵が苦々しげに呟きながら、指先で釘をつまむ。智輝は慌てて釘抜きを渡そうとしたが、それより先に釘がググッと動くのを見て瞠目した。

 力を入れているように見えないのに、釘がひとりでに動くように抜かれていく。


「……あ、ヒトガタが――」


 釘がコロリと葵の手の平に転がった瞬間に、ヒラリと白い紙が舞い落ちた。慌てて手を伸ばす智輝を遮るように、葵がそれを掴む。


「……どこから現れたんだ?」

「ずっと釘に刺されてここにあったよ。ただ人の目に隠されていただけさ」

「……なんというか……非現実的だ」

「ふっ……今さらっ……」


 眉を顰めて告げた言葉は、葵の笑いのツボを刺激したらしい。釘を持つ手で口を押さえようとするので、智輝はすぐさま釘を引き取った。

 ヒトガタとは違い、釘に触れるのは問題ないようで、葵はあっさりと手放してくれる。


「――それで、そのヒトガタはどうするんだ?」

「こうするんだよ」


 ヒトガタを見下ろした葵は、ポケットからライターを取り出す。その瞬間に、智輝は葵がこれからすることを察した。慌てて、事前に葵に渡されていた水のペットボトルの蓋を開ける。


 近くにあった石の上にヒトガタを置くと、葵が端に火をつけた。


「オン、サキワイ、ハリハラ、イ、スミハイ――」


 静かだったからこそ、葵の声がよく聞こえた。だが、なにを言っているかはまるで分からない。

 以前、アパートで儀式をしたときは神道の祝詞を唱えていたが、どうも今回は違うようだ。


「……あ!」


 見守っていた智輝の前で、ヒトガタに灯った火が仄白ほのじろく染まった。紙が燃える色ではない。

 呆然としていると、不意に葵の手がペットボトルを掴む。慌てて渡したが、葵は飲み口をヒトガタに傾けることなく、口元に当てた。


六根清浄ろっこんしょうじょう


 呟いて水を口に含むと、ヒトガタに向けて吹き付ける。

 ヒトガタの火が消えた。それと同時に燃えかすも空気に溶けるように消えていく。


「――なにも、ない」


 燃え跡すら残っていない石を見下ろして、智輝は呆然と呟いた。

 葵と出会ってから、いくらか超常現象を経験してきたと思っていたが、今回はそれまでの経験を優に越える訳の分からなさだ。常識を根底から否定されるような感覚に、思考が停止する。


「うん、友里奈さんにも影響はなかったようだね」

「……それは、代わりになったっていうヒトガタか?」


 葵の懐から取り出されたヒトガタに灰色の文様が描かれていた。随分様変わりしているが、葵の言葉から考えると、身代わりのヒトガタなのだろう。


「そう。これも片しとくかな」


 葵がヒトガタの頭の部分を掴んで、ライターの火を近づける。


「いや、それは火傷する――」


 止めようと伸ばした手が固まった。智輝の目の前で、ヒトガタが蒸発するように消えていく。火がついてもいないのにだ。


「……むしろ、なんでライターを近づけた?」

「気にするところ、そこ? 必要だからだよ」


 智輝の言葉に面白そうに笑った葵が、軽く手を叩いた後に、グッと伸びをする。


「あー、疲れたなぁ。もう帰って休もうよ」

「説明は? このままじゃ報告書を書けないんだが」

「見たままを書けばいいんじゃない?」

「それは報告書とは言わない。協力者の仕事を忘れるな」

「もー、智輝は堅いんだから……」


 咎めるために軽く睨むと、やれやれと言いたげに肩をすくめられた。


「とりあえず寝てからね。智輝、ひどい顔してるよ」

「……暗いのによく見えたな」

「僕の特技」

「始めて知った。……俺の顔色が悪いなら、それの原因の大部分は葵さんの行いだからな?」

「え、ひどっ。智輝の感情の問題じゃない?」

「その感情の原因が葵さんなんだよ……」


 軽く苦情を呟くも、葵に軽く流されてしまってため息が零れる。


 ――ぁ……ぅ……。


 風の木を揺らすような微かな音が聞こえた。

 瞬時に周囲を警戒するために視線を巡らせる。

 神社に深夜に来る者はそうそういないだろうが、友里奈の例もある。誰か人が来たのかと思った。


「――どうやら、まだ帰れないようだね」


 葵がぽつりと呟く。そして、そっと手を伸ばした。先ほどヒトガタを置いた石の方だ。

 その視線が向く先を追うも、智輝にはなにも見えない。


「呪いから解放されたね。君はこれからどうしたい? お母様や友里奈さんの傍に居続けたいのかな」


 優しげな声で語り掛ける相手を、智輝はすぐに悟った。蒼汰だ。巴や友里奈の傍に留まったがために、呪いの一部になってしまった霊。


 ――ぃ……ゃ……ぅ……。

「そうか。まだあいつは罰を受けていないものね。それがなければ、彼女たちはいつまでも君に囚われ、悲しみに溺れ続ける。君もその苦しみから解放されない」


 耳を澄ましても、蒼汰がなにを言っているかは分からない。葵の言葉で内容を判断するしかなかった。

 ふと気づく。蒼汰の霊の存在を知らない友里奈はともかく、葵からその存在を示唆された巴が、それについてなにも言っていなかったことに。


 ――ぇ……ぅ……。

「君のお母様は時々君の姿を見ていたね。死んでも傍にあることに、少しだけ癒されていた。それが君の苦しみと共にあることからは目を逸らして」

「……ああ、そういうことか」


 悲しい。親の愛とは複雑だ。

 智輝はやりきれない思いで、葵が視線を向ける先を見つめた。ただ夜の木立があるだけの景色に目を凝らす。少しでも蒼汰の姿が見えないかと思ったが、やはり智輝の目はなにも感じ取れなかった。


「君はもう限界まで消耗している。友里奈さんへ害が及ばぬよう、君の魂を削っていたね。本来、呪った側はもっと大きな害を受けていて然るべきだった。それが痛みしかないなんて、君が犠牲になったからとしか思えない」

「……それほどまでに」


 智輝は呟きながら蒼汰の思いを考えた。

 いじめを苦にして命を落とし、遺した人の苦しみに死しても囚われた。それは蒼汰がそれだけ優しく愛情深かったからなのだろう。

 果たして、そのような人物の魂が囚われた思念が、速水への憎しみであろうか。

 母である巴や恋人の友里奈の傍にあり続けたことが、その答えなのだろうと思う。


「僕は、君はもう解放されるべきだと思う。この世の全てを忘れて、魂をリセットして、一からやり直すんだ。君は魂が消耗しているから、生まれ直すにも長い休眠が必要だ」

 ――ぃ……ぁ……ぅ……。

「あいつが彼女たちを傷つけることはない。君がこれ以上苦しむことはない。天に昇るのは、決して辛いことではないんだよ。生きる人のことは生きる人に任せなさい。……君はもう休んでいいんだ」


 答える声は聞こえなかった。

 だが、葵の表情が和らいだのに気づき、蒼汰の答えを悟る。


「榊本葵の名において誓約しよう。彼女たちが速水行宏にこれ以上苦しめられることはない。君の行く先は幸福に満ちたものになる」


 どこか厳かに響いた葵の声を合図にしたように、ふわりと月光が石を照らした。


 どこからか虫の音が聞こえてくる。

 大きな変化はなかった。だが、大きく息を吐いた葵の様子で、全てがつつがなく終わったことが分かった。


「……帰るか」

「うん、帰ろう」


 静けさを破らない程度の声で提案すると、葵が少し疲れた表情で小さく頷いた。

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