わけのわからないこと
「まあ、せっかくなので……」
少しだけ考えてからそう答えると、先生はぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、行こうか」
わたしは先生の後をついていく。やっぱり背が高い……。
プロムナードをしばらく歩いて、先生とわたしは小さなカフェに入った。
「なに飲む?」
「アイスコーヒーにします」
先生はレジの前で、アイスコーヒーを二つお願いします、と言った。店員がそれを復唱し、金額を伝える。先生はスラックスのポケットから財布を出して、小銭をカルトンにそっと乗せた。
わたしは慌てて財布を取りだす。
「自分のぶんは払いますよ」
「いいよ、誘ったのは僕だし、高いものでもないんだから」
「はあ……」
でも、と言おうとしたけれど、結局わたしは、ありがとうございます、と言って財布を鞄にしまった。
レジの向こうにいたもう一人の店員が、トレイにアイスコーヒーの入ったグラスを二つ乗せて、カウンターに置く。
「ちょうどですね。お砂糖とミルクはそちらからご自由にお取りください」
カルトンから小銭を取りあげて、レジの前の店員がそう言った。先生はグラスの乗ったトレイを手に取る。
「お砂糖かミルクか両方か、いる?」
「いりません」
「そっか、じゃあ……、あ、窓際のテーブル席にしようか」
先生は店の奥の窓際のテーブル席についた。わたしはその向かいの椅子に座る。グラスを一つ自分の目の前に置いてから、もう一つのグラスをトレイごとこちらへと寄越してくれた。
「それにしても、二ヶ月待ちとはねえ」
コーヒーを一口啜ってから、先生は呟く。
「大丈夫? 二ヶ月も待てる?」
「待てる、ってなんですか?」
「ああ……、いや……。まあ君は、苦しくないって言ってたけどさ」
先生がわたしの目を覗きこんだ。
「君は……、死にたい、とかは思ってないの?」
「死にたいとか死にたくないとかじゃなくて、いつかは死ぬじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ……、僕が言いたいのは、今すぐにでも死にたいかどうか、だよ?」
「いえ、特にそういうことは思ってませんね」
そっかあ、と頷いてから、先生はまたコーヒーを啜る。つられてわたしもストローに口をつけた。
「どうしてお茶しようなんて学生を誘うんですか? そうやって学生と仲良くなって、教員に得があるんです?」
少しの沈黙を破ってわたしが訊ねると、先生は少し間抜けな顔をした。
「得って……、そんなものないよ。逆ならわかるよ? 学生が教員と仲良くなって、単位を出してもらおう、とかさ」
「じゃあ、どうしてですか?」
先生はストローに口をつけて、ううん、と唸った。
「そうだねえ……。わからない?」
「わかりませんね。そもそも、ちょっと服の袖に血がついてるからって声をかけるのも、自傷しているからって研究室に呼んで病院に行けって言うのも、なんというか……、公私混同じゃないですか」
「そうだよ、そのとおり」
そう言って先生が浮かべた微笑みは、なぜかいつもと違って寂しそうだった。なにか得体の知れない恐ろしさが、わたしの中にうまれる。
「なんですか、そのとおり、って……」
「大学の教員だって、ひとりの人間ってことだよ」
「そんなの知ってますよ。だからなんなんですか?」
先生は右手を首にあてて、ううん、と小さく唸った。
「こう言えばわかるかな。僕だって……」
そこまで言って、先生は口をつぐむ。そしてじっとわたしの目の奥までも覗きこむように、改めて視線をあわせてくる。わたしは思わず身を固くして、けれど絶対にこちらから目を逸らしてはいけないような気がした。
「僕だって、男だよ、って」
やっとそう言ってから、先生はゆっくり、とてもゆっくり目を伏せた。それはまるでうなだれる仕草に似ていた。
「あ、あの……。先生はわたしのこと、なにも知りませんよね……。講義だって、まだ、数回しか……」
わたしはわけがわからなくなって、自分がなにを喋っているのか、まったく把握できないまま、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「なんですか……、わたしが、わたしが精神病だと思った、から……、それなら、簡単に……」
「違うよ」
先生はわたしの言葉を遮る。さっきとうって変わって冷たい声だった。
「違う……、そういうことじゃないんだ。ごめんね、そんなふうに思わせたなら。僕が、悪かったから……」
今度は弱々しい声で、先生が言葉を連ねた。
「僕は、あなたが好きだよ。あなたも気付いていないあなたの苦しみを、僕は知りたい……、そう思ってしまった。だから……」
わたしは思わず椅子から立ちあがった。先生は目を見開いて不安そうにこちらを見上げる。
「苦しくないって、言ってるじゃないですか……!」
立ちあがって先生の言葉につっかかったはいいものの、わたしはどうすればいいのか、わからなかった。
— - - - — - - - — - - - — - - - — - - - —
このお話の続きのアンケートは以下よりどうぞ。
https://twitter.com/SrwNks/status/1609735646788321282
CURATOR 藤野ゆくえ @srwnks
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。CURATORの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます