第25話 見えない敵

 


 冷え込みの厳しい2040年12月4日の正午近く、ようやく陽が差してきた。


 ハーヴェイ・ウッドワードは16階のオフィスで昨日に続き、マイケル・チャン博士とのインタビュー記事をまとめている最中だった。まもなく出来上がる原稿が社内チェックを通れば、19時の版に掲載される予定だ。


 記事を読んだ犯人は何らかの動きを示すだろうか。警察やFBIすらも信用できないという博士は、いまもどこか安全な場所に潜伏している。こちらからは連絡できないがもし連絡をとる必要があれば、指定されたダミーの紙面広告を出すことになっている。その場合にはまた手紙が来るに違いない。


 同僚のケリーはしばらくは身の安全を考え帰宅しないほうがいいだろうと言っている。 社内各所に設置された監視カメラの一部が、常にウッドワードの行動を追跡できるよう設定変更された。監視カメラが彼の移動に合わせて向きを変えていく。それが命取りになるとは彼も予想していなかった。



 12月5日14時25分、ロシア共和国保安部テロ対策局局長、アンドレイ・ペシチャストノフ中佐は、スヴエルドロフスク東方40kmにあるエカテリンブルク空軍基地の薄暗い司令室の大型モニターを見つめていた。腕を組みながら彼が見ていたのはニュース番組「ベクトラ」であった。


「どう思われます?」


 15分ほど前に到着したばかりの英王立統合軍事研究所反サイバーテロ部長レベッカ・コクランは、張りつめたような雰囲気の中、寝不足をものともせずに要件を切り出した。


「マシンQの不正使用ということは、合衆国だけでなく我々にとっても脅威です」

ようやくペシチャストノフが口を開いた。


「NSAはロスアラモスの調査に着手したそうですな。

この3年ほどの間、各地で起こっている失踪事件や事故死にはどうも不可解なことが多い」


「アナンタに関係するような事件では、残っていそうな電磁的な記録が

完璧といっていいほど欠落しているんです。

人為的な削除といったほうがいいかもしれません」コクランが言った。


「アナンタが通信機器の知られざる盲点を利用している、というのがあなたの主張でしたな」


「ええ、中東の研究所で使われていたルーターのソフトウェアが知らないうちに何度も書き換えられていた事実も突き止めました」


「例のアリゾナでの核爆発の件も、自動システムが一切作動せず、やむを得ず手動操作で行われたという報告を受けている。

それでウィリアムズ空軍基地から発進していたF-45Bが引き返したわけだ」


「クリプトビオシウム(火星微生物につけられた暗号名)が レベル4のABWLから漏れ、地球環境に放たれたらどうなったと思います?

世界は無事では済みませんよ」


「2014年のグルノーブルの事件をご存知かな?」


「テロリストが素粒子実験施設でストレンジレット粒子を作ろうとした事件ですね」


「人類そのものの存在を危うくするような連中が現実にいるということだ」



そのとき、背の高い少尉がひとり司令室に入ってきた。


「彼女が眼を覚ましました!」


ペシチャストノフはコクランに言った。


「アナンタの仕業かどうかはわからんが、犯人への手がかりはあの学生だ。

 SU-973便が制御不能という連絡が入った時、9月末の南アフリカ天文台の事件を思い出した。

 あのときも旅客機の墜落で天文台が破壊されているんだ」


「そして、今後は生存者がいる」コクランが応じた。


「そのとおり」


 2人と少尉はエレベーターで地上階にあがり、タチアナ・キリーヴァが寝ている基地内病棟に向かった。窓の外には、タチアナが運び込まれたときに使われた通称「黒い幽霊」と呼ばれるステルス・ティルトローター型ヘリコプターKAMOV KA-68 があった。


 守衛の立つ部屋の中には医師が待機していた。


「脳内のドウベル・ユニットには異常がありませんが、彼女のメガネが損傷していて全く使えません。

 撮像装置付きメガネを送るよう、さきほどモスクワ中央病院に依頼しました。あす午後には届くでしょう」


「ありがとう。しばらく我々だけにしてくれ」



 タチアナはドウベル・ヴィジョンという人工視力装置のための手術を受けていた。アメリカの ビル・ドウベルが20世紀末に開発したこの装置はいまや飛躍的進化を遂げている。


 メガネに組み込まれた撮像装置からの信号は、感覚器用に画像処理されたのち、耳の後ろの皮膚直下にある小型アンテナから脳内の視皮質に埋め込まれた微細電極集合体に電気信号を流す。映像信号が直接脳に送られるのである。



 少尉と医師は去り、部屋にはペシチャストノフとコクラン、そしてタチアナだけになった。


「お目覚めだね。2週間も昏睡状態だったんだが、医者が血腫を取り除いたからもう大丈夫だ。

   さいわい、頭のなかの装置にも異常はないそうだ。


 いま聞いたと思うが、新品のメガネが明日には届くそうだ。

 天文台の事故現場から我々が救出したのを覚えているかね? タチアナ」


「はい... どこなんですか、ここは?」


「ロシア国内の病院よ」


その声のするほうにタチアナの顔が向いた。

「あなたは...イギリスのかたですか?」


ペシチャストノフとコクランは顔を見合わせた。



「タチアナ」一呼吸おいて彼は言った。


「コースをはずれた旅客機が天文台に墜落したんだ」


「私、音で気づいて。ほかに助かった人は?」


「あなただけよ」



タチアナは涙をこらえるためか、眼を保護するためのサングラスをしたまま天井を仰いだ。


「家族には連絡してくれましたか?」


「実はね、いまは誰とも連絡がとれない。君も事故の犠牲になったということになっている。

 当面君の居場所を知られたくないんだ。どうか捜査に協力してほしい」


「どういうことです?!」


「何者かが旅客機を誘導した可能性があるの。サイバーテロかもしれないのよ」


「天文台がなぜ狙われるんですか?!」


「君と、それからもうひとり...」


「ティム、ティムール・キリャーチコ」


「そう、君たちは天文台で一体なにをしていたのか、詳しく聞きたいんだ」


ペシチャストノフの合図で コクランは録音のスイッチを入れた。




 2040年12月4日19時08分、自分の記事が掲載された USAプラネット19時オンライン版の公開を確認したウッドワードは、クリスマス前に大きな仕事をしたという充足感を感じていた。しばらくは自宅に戻れないし、社外にも出ることができないが致し方ない。


 気を取り直して、32階の展望ラウンジで食事をとることにした。あのロックフェラーセンターのクリスマス・ツリーを眺めながら。


 エレベーターホールまでの通路を歩いていくと、1台置きの監視カメラがウッドワードの方に向きを変えていくのがわかる。最初のうちはカメラに向かってウィンクしたり手を振ったり戯けていたものだ。


 エレベーターホールにはすでに9人が待っていた。ウッドワードのそばの、上階にいくエレベーターが先に到着すると、ウッドワードに続いて8人が乗ってきた。 彼は疲れていたせいかエニグマを忘れたことに気づき、入ってきた側とは反対側のドアから急いで出た。


 このエレベーターには車椅子利用者のために、入った状態でそのまま出られるよう2箇所に出入り口があった。


 エニグマを装着して再びエレベーターホールに戻ると、ひとだかりができており、保安部職員も駆けつけていた。まもなくアナウンスが聞こえた。


「4号エレベーターで事故が発生しました。

 事故原因がわかるまでエレベーターの使用はできません... 繰り返します。

 4号エレベーターで...」


 ウッドワードはひとだかりのない、さきほど降りた側であるエレベーターホールの反対側に来てみた。 台車などを運ぶ際にもこちら側のドアがよく使われるが、そこには監視カメラがなかった。



 救急隊員らが到着したとの知らせのあと、どれくらいたっただろうか。4号エレベーターが動き出す気配のないまま時間が過ぎ、やがて社内の沈黙をやぶって流されたアナウンスで、さきほどの8人の同僚が「エレベーター事故」の犠牲となったことが告げられた。





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