第24話 罠



 マクファーレン博士からの連絡は、確かに謎めいた内容だった。


 コンピューターの保安にも関わる問題でもあり、状況解明のための調査が明日にも始まるだろうから協力してほしいという話で終わった。


 マイクはなかなか寝付けなかった。


 ようやく睡魔が忍び寄ってきた午前2時頃、再びエニグマの着信ランプが点滅、振動した。マイクは驚いてベッドから起きあがると、エニグマを取った。


 受話器からはザーという雑音だけで先方から応答がない。


「どなたです?」


 そのとたん雑音が消え、きれいな音声が聞こえた。


「チャン博士?」


 その声の主は確かにマクファーレン博士だった。

 返答を返すと、疲労を感じさせない冷静な声が聞こえてきた。


「私も驚いたのですが、今回の件でFBIが動いているそうです。

早急に直接博士にいくつかの質問をしたいそうで、 まもなく大学に到着するそうです。ご足労願えればありがたいのですが。 それとも、ご自宅に向かわせましょうか?」


 なんということだ。FBIが関係するような事件なのか!


「こんな時間に! もう2時過ぎですよ!」


 ただでさえ迷惑な話なのに、こんな時間にFBIが自宅に来るのはごめんだ。


「あ、いや、こちらから大学に行きましょう。多分15分くらいで着けると思います。南側の、サイエンス・パークの駐車場入り口付近で」


 受話器を降ろしたあと、急いで着替えを済ませ厚手のセーターを着ながら部屋を出た。



 エレベーターを地下駐車場まで降りると、やっと購入したばかりの「ハイ・ワイヤー・モデル39」のドアのレバーを握った。


 指紋認証でドアが開くと、広い足下の空間に位置するフットステップに足を乗せた。さらにX-ドライヴの画面を見つめ、網膜の静脈パターンを照合させた。こうした多重バイオメトリック照合は生活のあらゆる場面で広がりつつある。とくにネットワークを通じてのなりすましを防ぐため、バイオメトリック照合は不可欠な技術となっている。


 2020年代以降徐々に使われ始めたエンジンやトランスミッションのないこの種の車は水素燃料電池を積み、空気中の酸素と化合させ、その際発生する電気を利用している。排出されるのは水蒸気だけだ。購入時の出費がかさむことや(2020年時点ではガソリン車の10倍!)水素を供給できるステーションが少なかったことも次第に改善されていった。


 X-ドライヴの画面が開き、目的地リストからいつものように大学の駐車場を選び、自動運転に切り換えた。モーション・センサーと前後のマイクロレーダー、そして四方に付いたカメラからの情報が車内中央のコンピューター部で瞬時に処理され、安全走行が保証される。さらに車両の正確な位置データが市交通局のコンピューターにも送られ、車両の相互衝突事故を未然に防ぎ、効率的な交通管制が図られている。万一手動運転で事故を起こしたような場合には、保険が大幅に減額されてしまう。


 駐車場のゲートを抜け、車がハウエルミル道路に出たとたんありえないことが起こった。


 左折するはずが右折したのである。車は市街から離れていく。


 目的地リストは使用頻度順に並んでおり、間違いなく大学の駐車場を選んだはず。それは読み上げ音声でも確認した。


 手動に切り換えようとX-ドライヴの画面を操作したが全く反応がない! おかしい! パワーウインドウも開かない! 主電源を切ることもできない!


 この段階でチャン博士の意識は強い危険を感じとり、本能的に脱出すべきと判断した。


 座席間の隙間に備えられた道具箱からハンマーを取り出すと、力をこめて側面の窓ガラスに何度もたたきつけた。ガラスはたちまち粉々になった。


 身を乗り出して車から脱出しようとした。車が急なカーヴに差しかかり減速したときを彼は逃がさなかった。思いきって車外に身を投じた。


 幸い草むらに落ちたお陰で、腕に打撲を負った程度で済んだ。カーヴを通り過ぎた彼の車が急加速していくのが、静けさを破るモーターのうなりと風を切る音でわかった。


 なんとか道路に這い上がったマイクが直線道路の彼方で見た光景は、一瞬の判断ミスで降りかかったであろう自分の運命だった。



 マイケル・チャン博士は、しばらく何も考えることができずに呆然と立ちすくしていた。


 これは事故なんかじゃない!


 いったい、誰に助けを求めればいいのか、誰を信じればいいのか。


 西に傾きだした満月が再び雲間から姿を現すと、彼の影を路上に映し出した。


 現実をようやく受け入れた彼は、黒いコートの女性のことを思い出した。


 そして、町のあるほうへ無人の道路をゆっくりと歩き始めた。





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