第21話 ハーヴェイへの手紙



 2040年11月27日火曜、 USAプラネットの科学担当記者ハーヴェイ・ウッドワードは、いつものように「ブダペスト・グランドカフェ」で遅い昼食をとっていた。


 高い天井とヨーロッパの古い調度類に囲まれた奥行きのある空間は、まさに彼の好みだった。これほど落ち着けるカフェはニューヨーク中探してもないと彼はいつも同僚に話していたほどである。午後2時を過ぎる頃には客足も少し減り、企画を練りながらの食事には絶好の時間帯だった。


 広い店内にはいくつものシャンデリアが、きらびやかでありながらも温かみのある柔らかい光を店内に投げかけていた。


 席につくと、時計モードになったエニグマ(携帯端末)を左腕からはずしテーブルの脇のほうに置いた。


 先日は危うく置き忘れるところだったが、席を数m離れたところでエニグマの赤外線感知アラームが鳴った。まぁ、それが万一鳴らなかったにせよ、ウエイトレスがすぐに知らせてくれただろう。 彼女はたいてい、カウンター席の一番端の高めのストゥールに腰をかけて客席の方を向いていた。


 長い黒髪を後ろにまとめ、赤いシャツに白いエプロンを着けた、やや小柄の女性だった。 東欧からの留学生だという彼女は名前をエヴリンといい、美術史を専攻しルームメイトが物理化学の学生だということでハーヴェイの記事もよく読んでくれていた。


 今や、6割近い読者がID付きの購読カードをフレキシブル表示板などに差し込んで「新聞」を読んでいたが、こうした伝統的な店に置かれている新聞は(購読料が割高にもかかわらず)昔ながらの紙媒体だった。エヴリンは古くなったUSAプラネットから興味ある記事を切り抜いていた。 ハーヴェイの記事もいくつかあった。彼女は宇宙、とりわけ火星関係の記事が好みのようだった。


 なつかしいところでは、「マルス96」のプルトニウム事件を扱った記事。1996年11月16日20時48分53秒(世界時)、カザフスタン共和国内にあるバイコヌール宇宙基地から打ち上げられたロシアの火星探査機「マルス96」は、万全の準備にもかかわらず4段目ロケットを点火させることができなかった。 探査機はしばらく地球を周回したのち、翌日01時半頃、南米付近上空で大気圏に再突入した。 電源として積まれていたプルトニウム200グラムが陸地に落下した可能性があったため、周辺国はただちに警戒態勢をとった。


 3日後にはアルゼンチン国境警備隊がボリビア国境近くの原野で、大きいもので5mにおよぶ3つのクレーターを発見するが、クレーターに接するようにしてタイヤの跡が見つかった以外は探査機の破片すら発見できなかった。プルトニウムはいまも行方がわからないままである。 そして、2028年の「マルス28」でも同じような事件が起こったのである。


 2020年代は、民間業者による核廃棄物処理が各国で禁止された時期であった。



 そして、最近の記事では...2ヶ月前にあったアリゾナの爆発事件の記事。あれは彼にとっても印象に残る記事だった。


 2018年5月7日、バイコヌール宇宙基地からプロトンロケットで打ち上げられたヨーロッパ宇宙機関の「エクソマーズ2018」は、2019年1月15日に火星に到着した。 火星における微化石の発見に成功(2019年12月)したものの、現在の火星に微生物が生存しているかどうかは不明なままだった。


 21世紀初頭の探査機と地上からの観測から、火星大気中に微量のメタンが検出されていたが、火山活動が見られないことから生物の存在が有望視されていた。この議論に決着をつけるには火星の土壌サンプルを地球に回収し、精密な検査にかけるのが一番だったが、火星の生物(存在していれば)を地球環境に持ち込む危険性をはらんでいた。


 この計画については一般の関心も高く、火星サンプル回収計画の遂行には国民の理解が不可欠とされた。完全な隔離状態で検査ができるかどうか、専門家をまじえた公聴会がスチュアート・オニール上院宇宙探査委員会議長によって行われたのが2018年2月11日から12日にかけてであった。


 NASA天体検疫センターのグロスマンらは、アリゾナの地下に作られたバイオセイフティレベル4を満たす「対バイオ兵器研究所」(Anti-Bio Weapons Laboratory)を火星サンプル検査に使用するため、安全な管理下での対応が十分可能であると強調した。 検査を担当する研究者と採取サンプルの間だけでなく、施設と外界との隔離が確保されたレベル4の研究・実験施設は全米に2カ所しかなかった。


 人為的事故を想定した最悪の事態にも備えること、という条件付きで2020年7月、8月には火星探査機「MRSR」2機が相次いで打ち上げられた。


 火星の南北高緯度地域から採取されたサンプルは2022年に回収され、直ちにアリゾナのユーマ砂漠の地下180mに作られた4階構造の「対バイオ兵器研究所」に収められた。建設に62億ドルが費やされたこの施設では通常、バイオテロに対処するためのさまざまなワクチン開発が行われていた。生物兵器に転用可能な技術であることから、施設全体が核兵器並みの厳重な管理化に置かれていた。


 1980年に世界保健機構の天然痘撲滅宣言が出され、その後ワクチンの接種をやめた人類は天然痘ウイルスに対して無防備になっていた。もしテロリストが標的に天然痘ウイルスを撒けばどうなるかは容易に想像がついた。ワクチン接種の経験がなければ死亡率は40%と推測されている。


 2017年9月にニューヨーク市中心部から発生した天然痘は2週間のうちに45人に伝染した。アメリカではテロ対策の一環として、長らく予防接種が行われていなかった天然痘のワクチン接種を再開していたため、被害は最小限にくいとめられた。初期感染者に地下鉄第7ルートの利用者が多かったことから、地下鉄内で小型噴霧器が使われた疑いが持たれている。



 2年後になってようやく、「微生物が生存する形跡は見つからなかった」という簡単な発表がインターネット上に出されたが、ワシントンでの発表にも現場の研究者の姿はなく、採取や検査の方法に関する質疑応答がなされただけだった。


 この件に関する学術論文が全く発表されていないことに気づいたのは、マリアナ海溝の原生生物の研究者でもあり、火星の「フィロシアン代」(46億~40億年前)に発生したメタン生成微生物がいまも火星の地下に存在するはずだと予言していたアリゾナ大学月惑星研究所のトーマス・ラッシだった。 この件はインターネット上でも大きな話題となりニュースでも取り上げられ始めた。8日もたってからのNASAからの回答は驚くべき内容だった。


 ベン・ウェブスター、ナタリー・フェイゲン、バード・マルティノンらの研究チームが発表直前の6月15日以降、研究所から行方不明になっているというのだ。


 厳重な管理下に置かれていた研究施設から3名の研究者がいなくなるという事態は、管理の不手際を意味するものなのか、あるいは内部職員を巻き込んだ陰謀なのか、さまざまな憶測が飛び交うなか捜査活動は進められ、NASAも独自に真相究明委員会を設置したが、所外に出た記録すら見つからなかった。不可解な事件として真相は闇に包まれたまま16年の年月が過ぎ去った。


 人々の記憶から消え去ろうとしていた頃、再び「ユーマ砂漠」の文字がメディアの世界に浮上した。


 2040年9月14日、ハーヴェイのもとに匿名の手紙が届いたのである。「9月9日午後のユーマ砂漠の衛星写真を見よ」とだけ書かれていた。主要メディアは、民間所有衛星による地球撮像データの包括利用契約を結んでいるため、彼のデスクからも容易にそうした画像を調べることができた。 社内の画像処理専門家を呼び、ハーヴェイは作業を始めた。


 9月9日分のユーマ砂漠をとらえた画像は全部で6枚存在していた。写っている領域にずれがあるが、8日あるいは7日の分と画像比較プログラムを使って照らし合わせていくと、 ものの10分もしないうちに画像変化領域が21カ所見つかった。車両らしきものの移動や雲の移動と見られるによるものが20カ所。残った1カ所はこれまでに見たことがない丸い形状だった。


 画像処理のベテラン、エリック・ハリスのことばにハーヴェイは驚いた。


「この部分なんだが...」

 エリックはペンでそれを指しながら言った。


「...地下核実験の跡そっくりだ」


 画像の緯度経度を測定したところ、ユーマ砂漠の「対バイオ兵器研究所」の北方1.2kmの位置だった。


 ハーヴェイは、もちろん情報源については伏せたうえで「政府地下研究所で爆発か」という見出しとなった記事を書いた。9月17日月曜東部標準時06時版1面を飾ったその記事は、連邦議会でも取り上げられたが、クレア・ハイアット国防次官補(軍備管理担当)の答弁でも「重大な事故が起こったことを確認している。目下調査中につき、それ以上のことはなにも答えられない」という内容に留まっていた。


 ハーヴェイはさらなる情報提供を待った。その間に「環境は誰のもの」という企画の準備を進め、環境保護運動の指導的立場にある人物のインタヴューをいくつかまとめることにした。


 その立場や手法(なかにはテロを許容するものも)の違いはあれ、「人類による地球資源の利用を、地球生態系が吸収しきれる水準まで押さえるべきである」という点では見解の一致が見られる。


 問題はその「水準」が現状に対し大きな開きを持っていることであり、各国の取組によっても世界的な生態系破壊(とくに温暖化)の進行をくい止めるに到っていないことである。


 生活水準を下げるしかないとする立場と、全く新たな技術の開発に投資すべきという立場に大きく二分されるが、いずれも確たる将来像を示せないなか、「地球物理研究ジャーナル電子版」2037年6月号に公表された "The Next 50 Years of Climate Changes" は衝撃的だった。実現性のある政策を考慮したあらゆるケースにおいても、結末は「生態学的大災害」であった。


 シミュレーションに使われた計算モデル「GISS2035」を改良して、さらに高い精度で再計算するこころみが進行中だが、別の計算結果が出ると期待する専門家はほとんどいなかった。それほど「GISS2035」の完成度が高かったのだ。



 エヴリンはハーヴェイがよく座る席のうしろに掛かっている「貴婦人の肖像」が好きだった。 貴婦人の肖像画に彼女の視線が向くと、必然的にハーヴェイもその視界に入るのだった。


 きょうの食事は、肉と野菜の煮込みスープ。実とパプリカがたっぷりと入っていた。「グヤーシュ」というこのハンガリー料理にはパンを浸して食べるとうまい。食後のコーヒーを頼もうとエヴリンをよぼうとしたとき、エニグマのチャイムが鳴った。


 メガネに受像機能を入れているおかげで、エニグマの小さな画面をのぞき込むことなく、周囲の景色にメッセージを重ねて読みとることができた。


「匿名郵便が来ているので帰社せよ。ケリー」


 来た! おもわずこぶしを握りしめた。残念だが、社内のコーヒーサーバーで我慢しよう。エニグマを腕に戻し、キーボードを折り畳むとコートのポケットにしまい込んだ。


 店を出ると、曇った空の下、ロックフェラー・センター前の巨大なクリスマスツリーがもう完成間近だった。 月末には何万個というイルミネーション電球が点灯されるだろう。


 ニューヨークタイムズ社のある8番街を横切り、9番街の北に位置するUSAプラネット社の建物に入った。地下2階から1階では、複数のゲートから社内に入れるようになっているが、いずれのゲートにも人間型監視ロボットが待機し、人物の識別を行っていた。社内の各階にも監視ロボットが巡回しており、不審者の割り出しを行っていた。


 最新型は静止した状態では一見して本物の人間と見分けが付きにくかったが、眼球の光には感情や知性が見られなかった。 自分のデスクのある16階に到着すると、隣のパーティションにいるケリー・ゼリクソンに礼を言った。


 いつものように、社の保安部を通った郵便であることを示すスタンプが押してあった。


 席についたハーヴェイは、封書の体裁が前回のものとは違うのに気づいた。


 開封して内容を見て驚愕した。なんと、差出人は先週から行方がわからなくなっていたマイケル・チャン博士だった。 これはいたずらだろうか。いや、文面はすべて手書きだ。筆跡鑑定ができるよう、つまり本人のものであることがわかるよう配慮してあった。


 命を狙われているため、手紙の内容は一切第三者に漏らさないでほしい。博士の同僚や家族にも連絡をとらないでほしい。 いまの所在についてはなにも言えない。直接会って話をしたい。



 博士のサインとともに、以上のような簡潔な内容が書かれているだけであった。指定日時はあさって11月29日の正午。場所はアラバマにあるホースシューベンド・ナショナル・ミリタリーパークだった。


 ハーヴェイは電話をとった。

「スヴェン。すまないが、急ぎの用事なんだ。アラバマまでの切符を手配してくれ!」


 誰も昇ったことのない大きな山を目の前にした登山家のような気分だったのだろうが、「見えない敵」と戦うことになるとは、誰が予想しえただろう。






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