第16話 シーマへの手紙



 会場を出るとき、発表内容に助言をもらっていた天文学部のジョシュ・ブルームから 「もっと核心に触れた方がよかった」 と言われ、少し後悔していた。


 やや落胆気味のシーマは、どこにも立ち寄らず、真っ赤な落ち葉のカーペットの上に自転車を走らせた。


 大学近くのチェルシーブリッジにある、外見上は古めかしい女性用ゲストハウスに自転車を止めた。玄関前ホールに立つジョン・スミス(監視ロボットの商品名) に向かって「ジョン、シーマ・シャハクよ」と登録音声を言ってから、しばらくじっとして彼の電子の眼をみつめた。


 音声認識と顔認証だけのシステムだが、とくに顔認証には日本で開発された高速高精度を誇るNeoFaceが使われている。登録された認証データと一致しない場合には、大学の警備センターに通報がいくほか、自動的に州警察に照合依頼されるようになっている。


 4秒間、ジョン・スミスは全センサーを総動員して、目の前にいる人間が本当に登録されているシーマ・シャハクかどうかを判断していた。 いたずらな住人が彼にイヤリングをつけたおかげで、無表情がやけにチャーミングに見える。


 「おかえりなさい、シーマ」という返事が返ってくると、表通りに面した扉が閉まり、次いで玄関扉が開いた。


 内部に入ると、珍しく自分の郵便受けの名前の表示に郵便の絵柄が点灯している。 指紋センサー鍵を使って開けると、APOという赤いスタンプが押された封筒がひとつ入っていた。月・地球間の個人通信では、プライバシーを重視して、紙にかかれた昔ながらの郵便の使用が許されていた。


 4階にある自分の部屋に入ると、子犬ほどもある「メラニー」という黒猫がすぐに寄ってきた。 かまってほしい眼で見ているが、疲労を感じていた彼女はすぐにシャワーを浴びることにした。


 シャワーを浴びながらも、今日の発表について想いをめぐらせていた。


 自然現象であれほど強い電波が月面から出るとは考えられない。しかも水素原子が出す1420 MHz という特定周波数で。なんらかの理由で公表されなかった探査活動があの場所に存在したのではないだろうか。


 シャワー室から出てきたシーマは、冷たいビールをグラスに入れて飲み干すと、寝室に入った。 陽光が差し込まないよう厚手のカートンを引き、ベッドにもぐりこんだ。すでに意識がもうろうとしていた。


「... 地球では手に入らないような詳細な画像が入手できれば... 何か見つかるかもしれない...」


 空腹で目が覚めたときには、日も暮れていた。


 手紙のことを思い出したシーマは、居間のテーブルのところに戻ると、3本の青い線が入った封筒を取り上げた。


 シーマ宛ての手紙は「雨の海基地」の孔奧寧(アン)からだった。医療部門の責任者であるアンからわざわざ手紙とは意外だった。なぜ電子メールを送らないのだろう。


 念のため、エニグマの着信履歴から ann@sinusiridum.luna.sol を探したがやはりなかった。


 月と地球との間の郵便物は、モスクワ近郊「星の町」やジョンソン宇宙センター、そして北京近郊の宇宙飛行士訓練施設など3カ所に設けられた宇宙郵便地上局を介して宛先に届けられている。


 通信傍受ネットワークが世界中の監視カメラ、インターネット、無線通信を流れる膨大なデータを分析し、テロなどの兆候のある情報を探し出しているが、通常の郵便物については危険物探知が行われているだけだ。放射線透過型立体センサーによる未開封物の文字読取りが研究されているが、誤差が大きいこと、処理する郵便物に対して処理時間がかかりすぎること、プライバシーの問題などから各国とも導入には到っていない。


 月・地球間の郵便物について宇宙郵便地上局では独自の基準により一段ときびしい危険物探知を行っている。2019年11月10日に起こった第4宇宙ステーション(インド宇宙局所管)での爆発は、多数の封筒に分割された薄型の98-N-4火薬が、別便からの信号で同時爆発したものであるとの捜査結果が公表された。76人もの犠牲者を出したこの事件以来、インド洋で建設が始まっていた「スペースタワー」の建設もストップした。各宇宙郵便地上局では厳しい検査基準を設けるようになったのである。


 ドクター・アンからの手紙には、不可解なことが書かれていた。「雨の海基地」(これが正式名称だが、 中国が2022年に月面着陸した際、第一歩を記した李肇星船長が名付けた「虹の入江基地」 という名前がメディアでも一般化していた)の隊員に、ある種の睡眠障害が発生しているという。 いまのところ他の健康上の支障は出ていないがこれを放置してよいものなのかどうか判断できないでいる。深刻な事態にならないうちに専門の立場から基地の隊員を直接調べてほしいというのだ。


 確かに、隊員のおよそ2割にあたる6人が高い頻度で同じような夢を見ているというのは、地球上でも事例がなく、どう考えても異常としか言いようがない。


 新種の伝染病の疑いもあるため、検疫態勢をレベル4に上げている。十分調査の上で事態を公表する予定だが、現在の段階で不確かな噂が広まることは基地の運営にもかかわるため是非とも避けたい。 傍受される恐れのある通信回線を使わなかったのはそのためだ、と書いてあった。



 手紙をテーブルに置くと、窓辺に寄ったシーマは、長い間伏せたままだった書棚の写真立てを起こした。


 虹の入江の展望室で撮った写真には青く輝く地球も写っていた。


 カーテンをあけると、目の前には学生達がBlue Forestと呼ぶ森が広がり、上弦をわずかに過ぎた月が傾きはじめていた。






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