第12話 暗号



 いまや、外交、軍事分野だけではなく、経済情報や科学技術情報、個人情報にいたるまでが、さまざまな通信媒体をながれている。その流通の安全性をささえているのは20世紀以降急速に発展した高度な暗号化技術である。


 国際社会において暗号化技術で優位に立つことは、安全保障上重要な意味を持つ。もし優劣が逆転すれば、機密保持は空洞化する。


 コンピューターで大規模な並列計算を行えば、どんな暗号でも解かれる可能性があるが、それには相当の時間がかかる。何十年、あるいは何世紀もかけて古くなった情報を解読しても、パズルを解くほどの価値もない。


 従来のコンピューターとは全く異なった原理で計算する「量子コンピューター」では、 量子力学的な「重ね合わせ状態」を利用した超並列計算を可能にするため、従来のコンピューターとは桁違いの高速処理が可能になるはずであるが、いまだに安定した量子計算機は実用段階に至っていない。 ニューメキシコ州、ロス・アラモス研究所にはすでに、完成間近の量子コンピューターの試作機が存在すると伝えられているが...


 いかに効率的に暗号を解読できるかの「ひとつの重要な鍵」は「規則性」である。 暗号の中の規則性を見破られないためには、不規則性をできるだけ装うしかない。処理能力の高い計算機を使っても暗号の解読が容易でないのは、極めて強力な「不規則性」が利用されているからである。


 高度な不規則性を保障するため、暗号化の過程でしばしば円周率π(パイ)が使われてきた。 πの小数部を同定する手段が講じられたが、単純な暗号以外では実用にならなかった。 さまざまな検定法が試されてきたが、πの数列の不規則性には定評があった。


 数字の出現頻度や、数字の組の出現頻度を調べる頻度検定法、ポーカー検定など、無秩序性を判定する検定法、さらには重複対数の法則というランダムウォークに基づく高度な無秩序検定にもπはパスしている。


 πの小数部をどこまでも計算していけば、かならずどんな数字の組み合わせも出現するかに思えた。2039年3月、当時ウェスタン・オンタリオ大学の大学院生だったマイケル・チャンが「兆し」を見つけるまでは。


 ことの起こりは、2038年のことだった。国立エネルギー研究科学技術計算センターでチャド・ベイリーが、数列内の何らかの「秩序性」を発見するプログラムを開発しつつあった。ところが、この研究が暗号解読に役立つと判断した政府は、12月初旬、ベイリーをロス・アラモス研究所へ移そうとしたが、ベイリーの助手とともに行方がわからなくなってしまった。数学者の失踪事件として報じられ、FBIも乗りだしたが、いっこうに手がかりがつかめないまま、研究は闇に葬られた形となった。


 ベイリーの研究記録も所在がわかなくなっていたが、2039年8月2日、 ジョージア州立大学で円周率計算を研究していたチャン博士は、(どのような経路によってかは不明だが)ベイリーの記録を入手する。 チャン博士はベイリーの研究を再開させるが、今度はチャン博士も行方不明になってしまう。


 2040年11月21日、ジョージア州立大学は行方がわからなくなっているマイケル・チャン博士の捜索をアトランタ警察に依頼した。無断欠勤のなかったチャン博士が火曜に出勤せず、翌水曜日になっても全く連絡がとれなかっため、学部長らがアパートに赴いたところ、 ドアには鍵がかけられたままになっていた。


 市警察の調べによれば室内にも博士の姿はなく、郵便は20日からたまっていたという。 月曜日の夜以降帰宅していないようだった。何らかの事件に巻き込まれた可能性もあり、大学周辺の調査や足どり調査が行われたが月曜の夜以降の行方がわからないままであった。図書館の前を駐車場に向かって歩いていくのを学生らに目撃されたのが最後であった。


 11月23日のアトランタ・デイリー・ネットワークがチャン博士の失踪事件を報じるより早く、連邦捜査局が捜査官2名を送ってきた。翌日にはさらに所属不明の男がひとり、捜査に加わった。30代半ばくらいで、厚手の深い緑のセーターにジーンズ姿はどうみても役人ではなかった。


 チャン博士の助手を務めていた大学院生、ローラ・ピーターソンの話では、「円周率の高速計算アルゴリズム」が当初の研究テーマだったが、昨年の夏頃から関連する別のテーマにも取りかかっていた、ということだった。


 博士の車は、車両の位置データと識別信号を発信していたはずだが、市交通局のコンピューターにその記録がいっさいなかった。 車両の衝撃感知機からの信号も発信された形跡がなかった。 大学構内は下町にあり、車が大学から移動すればかならずその移動記録が追跡できるはずであった。 車の発信器が故障したのだろうか。11月19日の移動記録が最後であった。


 奇妙なことに、携帯端末のエニグマが定期的に自動送信する個人記録(所在位置情報、設定によっては周囲の音声や画像も)も完全に消去されていた。 脅迫などによって本人が消去した可能性もあったが、失踪事件解明の決め手となってきたエニグマの個人記録が使えないことは捜査の進展を大いに妨げた。


 市警察の協力を得て、大学構内がくまなく捜索された。11月30日の午後、図書館屋上で双眼鏡を見ていたライリー捜査官のエニグマが振動した。画面に文字が流れた。


 すぐさま、捜査官は構内の別の場所にいた「セーターの男」を呼び出した。


 「マクファーレン博士。車が見つかったそうです。遺体はありません。ハウエルミルを北にいった貯水池に。  ...そうです。われわれもこれから行きます。カナダにいる家族には連絡します。  はい、現場で」


 12月7日金曜の午後、バリー・マクファーレンの上司である科学技術部長レイ・ホルトは マクファーレンを彼の部屋に呼んだ。午前中、その部屋の窓にはたいていブラインドが降りているのだが、午後になってこの部屋に呼ばれると、きまって外の景色が見えていた。


 部長のいる建物に向う途中、部長の部屋のブラインドがしまっていることにバリーは気づいた。 8階でエレベーターを降り、ホルト部長の部屋に入ったとたん、室内の明るさに目が眩んだ。 ブラインドを上げたのだろう。


 部長の背後には雪を頂いたロッキーの山々が輝いていた。

バリーはホルトの机に近づいていった。


 部長は報告書の紙出力を見ていたが、テレビ会議用カメラがなぜかバリーのほうに向けられていた。壁面表示板にはなにも映っていない。


 「どうかしたかね?」


 バリーは反射的に心中をさとられないようにした。 「...いえ、いい香りが」


 「ああ、そこにある鉢植えだろう。名前はわからんのだが... 」


 ホルトはページをめくっていき、ある箇所で目を留めた。


 「マシンQへの最初のアクセス時に見つかった...このファイルというのは.....」


 「コーカサスの事件と何か関係があるのかもしれません」


 「チャン博士の研究内容は無関係だろうか」



 ロスアラモス国立研究所で、チャン博士のコンピューター利用を支援していたサポート・サイエンティストであったマクファーレンは、チャン博士の失踪に不審な点が多いと感じていた。


 研究に進展があったらしい矢先の事故。車の安全機構がオフになっていたこと。(従って走行記録も途中までしか残っていない)自宅方向と異なる道路を通っていたこと。ブレーキが作動した跡がなく、落下地点からの推定で、時速60km以上で道路から貯水池へ転落したこと。


 「こんなに早くチャン博士が研究成果を出すとは思わなかった」


 「πには、未発見の規則性があると博士は強く信じていましたから...

  それがベイリーの研究に取りかかる強い同機になったようです。  


  はじめからここで仕事にあたってもらうべきでした」


 「しかし、大学に留まることが彼の条件だったからな」


 「マシンQへのアクセス権限もです」


 「...この事件、NSA(国家安全保障局)も調査に乗り出すのでは?」


 「どうだろう。とにかく、博士の状況をマシンQの記録で徹底的に調べてくれ」


 マクファーレンが部屋から出ると、ホルトは会議用カメラを自分のほうへ向け直しブラインドをおろすと、壁面表示板の机上スイッチを入れた。壁面に6人の男女の顔が並んだ。


 そのうちのひとり、あごひげをたくわえた男が困惑顔で言葉を発した。

 「ロスアラモスのシステムが外部から侵入されているとしたら...」


 「それは考えられません」

 ホルトが言った。


 「すると、内部に敵がいるということか?」


 ひげの男の言葉に返事をする者はいなかった。






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