第11話 コーカサスの巨人



 コーカサス山脈の北側斜面、黒海とカスピ海のほぼ中間、標高2070mにあるのがBTA (巨大経緯儀望遠鏡のロシア語の頭文字)と呼ばれる口径6m望遠鏡のドームである。 銀色に輝く58mもの高さのドームは周囲の山々からも肉眼で確認できる。


 ここで働く職員は2040年現在12名。その家族は北へ40kmのところにあるゼレンチュクスカヤ村か、 川の上流にあるブコボ村に住んでいる。 BTAには、各国の研究者だけでなく、モスクワの東1000kmにあるカザン大学からの学生も来ている。施設を一定時間実習に使うことを許可される代わりに施設管理を手伝うことになっている。


 タチアナ・キリーヴァは同じ3年生で北コーカサス出身のティムール・キリャーチコと 10月中旬からここに滞在しているが、彼女らが観測実習に使っているのは隣接するドームにある口径1mの望遠鏡のほうだ。


 6m鏡のドームに入るときは、トンネルのようにドームから突き出ている長い入り口を通るのだが、中に入ったとたんに巨大な空間が広がるため、二人とも初めは平衡感覚がついていけず、おそるおそる歩いていた。冬季用トンネルを通らなくとも別に入り口があることは後で教えられた。


 11月ともなるとこの数年はとくに積雪量が多く、ドーム周囲の除雪作業も学生たちの日課となっていた。この時期、除雪機付きの4輪駆動車が村との往復に活躍し始める。12月にはそれすら立ち往生するため、学生と短期滞在研究者らは11月中に下山することになっていた。


 1976年に完成した初代6m鏡は、ロシアの経験不足からガラス材に亀裂が入るような代物だったが、その後何年にもわたって改良された6m鏡と交換され、2011年から2012年には経緯台の可動部もオーバーホールされた。


 大気による像の乱れが角度の1秒を越えることが普通であったこの天文台では、2013年に 大気のゆらぎをキャンセルするよう副鏡面を瞬時に湾曲させる波面補償光学システムも導入され、大口径を活かして天体の細部まで観測することがようやく可能になった。 波面補償光学装置も代を重ねるごとに機能が向上しており、赤外だけでなく可視光領域に到るまで、現在ではほぼ理論的な光学性能の限界に近づいている。


 26mもの長さの鏡筒が、巨大なドームスリットと同調して目的天体に向くところはいつ見ても壮観だった。 低いモーター音がドーム内に反響し、望遠鏡ではなく、まるで床のほうが動いているように感じるのだ。台長のセルゲーイ・カルポフから「動いている望遠鏡から目を離すな」といわれ、ターニャとティムは何度か転倒しそうな錯覚をおこした。


 11月上旬までに予定されていたすべての観測を終了した二人は、下山するまでの2週間を「ガイア」によって 撮像された小惑星の位置測定作業に充てていた。ドイツの航空宇宙センターに設置された 地球接近天体データベースからカザン大学に毎月送信されてくる「追跡観測要請リスト」にある小惑星の位置測定が二人の実習内容だった。同様の観測を行っている大学は世界に19カ所ある。


 地球と同じ軌道上、太陽から見て地球の前後60度離れた空間に、それぞれ「地球接近天体監視機」を打ち上げる計画は各国の予算削減で中止されたため、「ガイア」が地球接近天体の監視に大きな貢献をしている。


 2013年にヨーロッパ宇宙機関が打ち上げた「ガイア」は、月に1度の軌道修正を行いながら L2(ラグランジュ第2)ポイントと呼ばれる、地球から反太陽方向に約150万km離れた空間付近に留まりながら、約20等級までの天体について高精度位置観測・多色測光を行っていた。


 10億個をこえる天体の観測情報を記録した「ガイア・カタログ」は2021年に完成し、学術目的のみならず、網膜映写型プラネタリウムなど教育分野にいたるまで広範に活用されている。


 ガイアは太陽系内天体の観測にも威力を発揮した。L2から見ると、観測に邪魔な太陽、地球、月が常にほぼ同方向にあるため、それらからの放射を遮光板でまとめて遮ることができ、内惑星空間を含む全天の効率的な観測を進めることができた。


 2009年に打ち上げられたNASAの赤外線天文衛星WISE(ワイズ)や 2010年5月から本格的な運用を開始したハワイ、マウイ島山頂の「PS1」 (Pan-STARRS'first telescope)の活躍もあり、2011年までに直径1km以上の地球接近小惑星の93%が発見済みと推定された。さらにガイアの登場によって直径1km以上の、残るほとんどが網羅されたばかりか、直径200~500mサイズのものも大部分が検出されたはずである。


 ガイアの位置測定精度は、月面に立つ人の爪が識別できるほどであった。設計上の寿命は5年であったが8年にわたり稼働し続け、10億をこえる天体の位置・色の測定を200回近くも繰り返すことができた。2021年に刊行されたカタログデータは実に5万GBにのぼった。2036年には後継機にあたるガイア2が打ち上げられ現在稼働中。地球接近小惑星については直径100mサイズのものまで網羅しつつある。



 11月19日正午前、ターニャたち二人は、BTAドームに隣接するヴィジターセンター二階の資料室にいた。追跡用小惑星リストをチェックしながら、残る滞在期間中のプランを練っていた。食堂から香ばしい匂いがしてきたので、ティムはコンピューター画面に映った観測計画表と星図からようやく顔をあげた。食事にしないか、と言おうと思ったのだが、彼女が先に口を開いた。


 「番号が9つ飛んでるんだけど。ほら」

 画面を指した彼女の指の先には撮像参照番号という欄があり、確かに途中で9コマ分が省かれていた。


 「フレアノイズで使い物にならなかったんじゃないかな」


 「じゃあ、これ、チェックね」

ターニャはブリゥッセル太陽情報データセンターの画面を出した。


 「この日もなし、この日も...なし。 「静穏」ばかりね」


 「わかった。一応メールで確認要請しとこう。そしたら食事だ」


 明け方から降り始めていた雪も昼過ぎにはやんでいた。食事が終わってしばらくすると、二人は1m望遠鏡のある直径4mドームとその周辺の除雪作業にかかった。職員たちはメインドーム周辺の除雪作業を午前中から行っている。ドームそのものにはあまり雪は積もらないが、スリット部分には雪がこびりつく。安全索を腰のベルトにつけてからスリットへ昇る梯子を上がる。


 「夜は晴れそうなのに...」

 オレンジ色のヘルメットをとりながら、ティムが残念そうに言うと、思い出したようにターニャが応じた。


 「満月のおかげでゆっくり休めるわ」



 木々も雪のために背景にとけこみ、真っ白な世界にただBTAの施設が孤立して存在しているかのようだった。その夜、風も止み、満月の妖しげな光が周囲を支配していた。こんな夜に「アルマス」(雪男の一種)が出るという話をカルポフ台長から聞いた。横で聞いていたスタッフのひとりが「また始まった」というような苦笑いをしていたが、22年もここに勤務しているカルポフ台長は巨大な足跡を見たことがあるという。そのときの写真も見せてくれたが、巧妙に作った画像かもしれなかった。



 今夜は観測の予定がない。昼の作業のせいか、夕食後、早々とベッドに向かうものが多かった。


 スタッフのアンドレイは、ティムとターニャにBTA用の新しい観測装置を説明していた。 視野内にとらえられたすべての天体のスペクトルを短時間に記録してしまうというものだ。


 地上の主要天文台では、通常、遠隔地にある天文台にわざわざ出向くことはなく、研究室や教育施設からテレオペレーションというプログラムを呼び出して、遠隔操作をしながら観測が行えるようになっている。操作は極めて簡単であり、細かい作業やトラブルがあれば現地のオペレーターが対応する。それでも若い研究者は、現地に出向いて、オペレーターたちと共同で観測を行うことを好む。 現場の状況やオペレーターの仕事を理解しておくことの重要性を教え込まれているからだ。


 アンドレイは髭をつまみながらひとくさり説明を終えると、BTAのドームに二人を連れて行った。 ポケットから小さなディスクをとり出し壁際の再生機に入れた。 先週まで滞在していたシコレフ博士からのプレゼントだそうだ。


 アンドレイはドームのスリットを開けるボタンを押し、室内灯を消した。 静かにひらくスリットの向こうに星空が広がっていく。 差込む月明かりが巨大望遠鏡を照らし出した。不思議に寒さをあまり感じなかった。


「来週には君らも下山だ。当分ここにはこられないだろうから、これを聴かせたいと思ってね」


 三人は、ドームの奥の方からデッキチェアを運んできて、望遠鏡の下に横になった。 観測中はドーム内気流を安定させるため、熱源である人間はドーム内にはいない。隣接したオペレーション室から観測の操作を行う。


 今夜は観測予定がないため、温度制御された防寒スーツのままドーム内に入った。じっと立っていると、顔を暖かい空気が昇っていくのがわかる。 おうし座にある満月が眩しいが、澄んだ空にオリオン座をはじめ、多くの星々が十分確認できた。


 天然のプラネタリウムの下、ホットチョコレートの香りとガリーナ・ゴルチャコワの荘厳な歌声が流れた。




 夜半過ぎには、もう起きているものが誰もいなかった。



 ビジターセンター1階のゲストルームに宿泊していたターニャは、聞き慣れないような音に目を覚ました。


 反射的にそばに置いてあったメガネを着けた。生まれつき視力を失っていたターニャは4歳のとき、 ドウベル・ヴィジョンという人工視力装置着用のための手術を受けていた。アメリカのビル・ドウベルが20世紀末に開発したこの装置はいまや飛躍的進化を遂げている。メガネに組み込まれた撮像装置からの信号は、感覚器用に画像処理されたのち、耳の後ろの皮膚直下にある小型アンテナから脳内の視皮質に埋め込まれた微細電極集合体に電気信号を流す。映像信号が直接脳に送られているのである。ハーバード大学医学部のモーリー・トンプソンらは、2014年にドウベル過程の逆、つまり脳から映像情報を取り出す実験にも成功した。


 2016年6月、地中海に浮かぶ豪華客船「ヨーロピアンスター」で開かれた世界首脳会議のさなかに発生した爆発事故では、昏睡状態に陥った犠牲者の「最後に見た情景」が遺族の了解のもと、ハーバードチームによる逆ドウベル過程の装置で蘇った。以後、犯人逮捕の有力な武器として、また、心理治療の分野でも多大な貢献を果たしている技術である。




 周囲の積雪に音が吸い取られ、枝からときおり雪が落ちる音以外、静寂そのもののはずだったが、何か聞こえたような気がした。


 ターニャはベッドから起きて、スニーカーを履きガウンをまとって窓辺に向かった。茶色の分厚いカーテンをめくると、東の空が明るくなってきたのがわかった。まだ月かりが周囲を照らしていた。


 もう一度メガネをはずして耳をすませた。


 聞いたこともない音が微かにしている。いや、聞いたことはあるのだが、場違いな感じのする音だった。どの方向から来るのかわからなかった。メガネをかけ直すと、思い切ってターニャは二重窓を少し開けてみた。突き刺すような冷気が、音もなく忍びよりたちまち部屋中を満たしていった。今後ははっきりと音が聞こえた。


 音が聞こえるのは...


 ターニャの視覚が動く光点をとらえるまでに時間はかからなかった。人工衛星だろうか。メガネを操作し、視点方向の部分拡大を行った。航空機らしきシルエットがかすかに浮かび上がった。


 長細い機体が相似形を保ったまま、次第に大きくなっていくのがわかった。彼女の意識が急速に覚醒し、ひとつの可能性を予測し始めていた。窓辺から急いで離れると、廊下に出たターニャは、各部屋のドアを叩きながら大声で叫んだ。


 「ティム! みんな、起きて! 飛行機がこっちに来る!! いそいで外へでて! はやく!」


 屋内にいてもエンジン音がはっきりと聞き取れるようになってきた。

建物の正面のとびらは、今夜は観測者がいなかったせいか鍵がかけられていた。ターニャはそばにあった大きめな窓をなんとか開けて、身を乗り出した。


 「どうしたんだ。何だこの音は」廊下の奥で誰かの声がした。


 「飛行機がこっちに向かってくるんです! はやく外へでて!」

  その声はエンジン音にかき消された。


 外に出たターニャがエンジン音のするほうを振り返ると、すでに機体が大きく迫ってきていた。


 大きさを比較するものがないため、どれくらいの距離に機体があるのか判断できず、機体を右手に見ながら、それとは直角の方向にのびていた車道へ懸命にかけだした。


 後ろのほうから人の声が聞こえたようだったが、振り返っている余裕はなかった。凍り付いた路面に、何度も転びそうになりながらも懸命に走った。


 やがて機体は視界の後ろに吸い込まれていき、急に辺りが明るく照らされ、激しい爆発音と同時に地響きが足元から伝わってきた。


 ターニャの体は猛烈な風圧で吹き飛ばされ、雪の積もった大きな木の近くに落下した。


 火炎の巻き起こす風の音と、木々や燃料が焼ける匂い。しばらくじっと動かなかった彼女は骨が折れていないことを確かめるように手足をゆっくりと動かした。


 なんとか気を取り直すと、ガウンの上からペンダントのスイッチを押した。4メートルほど先から発信音が聞こえてきた。そこまで這うようにして移動するとメガネを装着した。メガネは機能していなかった。


 炎の放射熱から顔をそむけるようにして立ち上がった。


 彼女にはわからなかったが、背後にあったのは原形をとどめないほど破壊された観測所だった。除雪車両は40m以上も離れたところに転がっており、巨大なドームは半分がかろうじて形を残していた。自分がいま何をすべきか見当もつかなかった。助かったのは自分だけだろうか。大声で名前を呼ぶが、誰の返事もなかった。


 絶望感に襲われそうになったとき、ターニャは「別の音」に気づいた。


 探照灯を点けたまま、ヘリコプターがゆっくり接近してきた。


 「救助隊だろうか」


 よろめきそうになりながらも、音のほうに向かって両手を振った。


 彼女が見ることのできなかった探照灯の照らし出した観測所跡は、とても生存者がいるとは思えない状況だった。


 ついにヘリコプターの探照灯がターニャをとらえた。


 ふいに意識が遠のくのを感じたターニャはもはや立っていることができず、地の底に引き込まれるような目眩に襲われ、その場に倒れてしまった。


 「失われたコーカサスの巨人」の文字がニュースに現れたのは、それから2時間以上たってからだった。





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