1-2 隣の変人

「死んだら煙になれるかもしれませんよ?」



 俺の部屋は角部屋だ。つまり、右隣。今日の朝にベランダで見た彼女が、パジャマ姿のまま、そこには居た。



 ベランダの縁に立ち、目を閉じた状態で。



「何をしてるんだ…?」

「…見れば分かりませんか?」

「…早くそこから降りろ。早まるな」



 彼女は妖艶に、そして悲壮な笑顔を浮かべて話す。


 ハッキリ言って、俺には今から自殺しようとしている様にしか見えない。今の言動、行動からも。7階から頭から落ちれば…考えただけでもゾッとする。



「降りる…あぁ、今降りますよ」



 フッ…



 ちっ!!?





 彼女が言った瞬間、彼女は前方にゆっくりと倒れていく。


 俺はそれに反射的に両手を伸ばし、彼女の左手を強く掴んだ。



「んぎぎぎぎっ!!」



 自分まで落ちそうになる衝撃に、思いっきり力を入れる。

 すると、口から自然に力の入った歯軋り音が鳴り響いた。



 ヤバすぎる!! 何だこの状況!?



「離して下さい」



 彼女の冷たい冷め切った声が、焦っている俺の耳を撫でる。


 だがーー。



「あ、アホか! 離す訳ないだろっ!!」



 俺はそんな声を掻き消すかのように、また叫んだ。


 離したら死ぬ。

 彼女の顔からも死ぬ事を望んでいる様な、そんな意志が見てとれる。




 何があったかはハッキリ言って知らない。彼女が望んでいる事だ。だけど、ここで俺が頷いて手を離したとして、今日の俺は気持ちよく寝れるだろうか?




 罪悪感、警察からの取り調べ。自分の気持ちであったり、この人が何で死んだのかの調査にあたり、暫く俺は騒がしくなるだろう。



「ふんぬぅぅぅっ!!」

「…」



 自分勝手だって分かってる。

 相手の気持ちを考えていない、"お前"って何回も言う俺が、こんな事言うのもなんだがーー



「ぜっっったい! 生きてた方が良い!!」



 言い切ると同時に、俺は勢いよく彼女を引き上げた。


 彼女をベランダの中へと入れると、進はその勢い、緊迫感のある疲れと共に大きく尻餅をついた。



「はぁ〜…腰が砕け散るかと思った…」



 進は腰をトントンと叩きながら、彼女に視線を移す。


 彼女は呆然と虚空を眺めていた。それから数秒し、彼女は目を見開いた。


 そしてーー。



「し、死ななくちゃ…」

「おいおいおいおい!?」



 またベランダの縁に足を掛けた彼女に、俺は抱きついてそれを止める。


 くびれた腰、そして凛とした薔薇のような甘い、爽やかな香りが鼻を刺激する。



 …いや、4回だぞ。正気を保て。



 俺は自分の中の性欲を抑えながら、彼女に叫ぶ。



「おい! 落ち着けって!!」

「離して!!」

「死のうとしてる奴を止めない訳がないだろ!?」

「離してっ!!!」



 彼女は、今までにない懇願するような声で何度も叫んだ。



「だあぁっ!! めんどくせぇっ!!」

「キャッ…!」



 俺はそのまま彼女を持ち上げ、自分のリビングにあるソファへと投げ飛ばした。


 この無駄な言い掛けを続けてもしょうがない。


 このまま放っておけば死んでしまいそうな勢い。


 取り敢えずーー。






「よし。これで良い……うん」

「むぐうぅぅぅぅぅっ!!!!」



 俺は自殺を望む彼女を、近くにあったガムテープで、ソファごとぐるぐる巻きにし、口元にはタオルを巻いた。

 これなら俺が寝ていたとしても自殺する事は出来ないし、俺の眠りを妨げることも無い。



 まぁ…これはこれで新たな問題が出来た気がするが…。



「ふわぁっ…」


 彼女の呻き声が微かに聞こえる中、俺は欠伸を噛み殺し、時計を見上げた。


 2時にもなれば流石に眠いか。


 残業で仕事に残ってたぐらいの時間帯。仕事をせっかく辞めたと言うのに…。


 俺は今日何回目になるか分からない溜息を吐くと、彼女の呻き声が聞こえない様にティッシュを耳に詰め、寝室で眠りに入るのだった。




 ***



「あぁ…よく寝た…」


 そして翌朝、俺は久々に一度も起きる事なく熟睡していた。会社に入ってからは夜中に1回か2回は目を覚ましていたのに。やはり仕事を辞めた解放感からだろうか。




 今世の中には仕事をしている者達が沢山いるという、罪悪感とお得感を感じながら、俺はリビングへと続く扉を開けた。




「…」

「あ…そう言えば放置してたな…」



 ソファには、自殺志願者である彼女が胡乱げな表情で虚空を見つめていた。

 流石に一晩中ぐるぐる巻きにされれば、元気も無くなるか。


 その時の俺は寝過ぎという事もあったのか、鼻が少し詰まっていたんだ。



「ん?」



 スンッ スンッ



 彼女に近づく途中、何か独特な臭いがする。そう思い臭いを辿ると、俺の視線はある所で止まった。




 彼女の股の辺りに、シミが広がっている。




「な、なんへ……」



 タオル越しから、か細く、彼女の声がリビングに響く。よく見ると涙目だ。



「わ、悪い。取り敢えず、風呂入るか…」



 昨日のあの時抑えていた性欲も、これには興奮出来なかった。

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