第45話 千の影③

「──っ明里!!」


 鋭い悲鳴のような叫び声。

 祟り神が明里に触れる寸前で、ざあ、と辺りが真白い霧に包まれた。


 目と鼻の先まで明里に迫っていた祟り神の左手は空を切り。

 霧が晴れると、明里は千影の胸に抱かれていた。祟り神と距離ができる。千影の顔を見て、金縛りに合っていた身体がようやく呼吸の仕方を思い出した。


蝕神しょくがみ、貴様何のつもりだ、俺の贄に触れるな!」


 怒りに震える千影の右目が金色に点滅する。


 ──蝕神しょくがみ。その名前は聞き覚えがある。

 十二柱のひと柱。十月の神様。魂を喰らう陰の神。村に伝わる昔話の中でも恐ろしい神様として伝えられている。そして、数日前に千影に気をつけろと忠告を受けた祟り神の名前。


「……おっそ、ようやく気づいたのかよ」


 蝕神しょくがみは千影のほうを向き、目を開かせた。眼球がむき出しになった左目が露わになる。


「よう、久々だな、幻神げんしん。ていうか、なにその有様? 道理でオレが入り込んでも気づかないはずだ。神墜ちしてるじゃん。ひでえなあ」

「質問に答えろ、何をしに来た。お前が触れるということが、どういうことか分からぬわけあるまい。俺の土地に、俺の明里に何をしようとした!」

「……へえ? そんな有様になってもまだ贄が大事なんだ。相変わらずの馬鹿だな」


 蝕神は笑みを歪ませたかと思えば。

 腐食した左手を千影と明里に向かってかざした。袖の中から片手に乗る大きさの地蜘蛛じぐもが何匹も湧いて出て、二人めがけて糸を吐く。


 千影がフッと一息する。

 辺りは霧に包まれ、数匹が酩酊状態になる。

 それでもすべての蜘蛛くもが幻惑にかかる前に、ざあっと冬風に吹かれて霧はあっという間に霧散した。

 残りの蜘蛛の糸を千影は直接薙ぎ払った。


「……っは、」


 千影の息は荒く、額を汗が伝い、明里を抱えたまま膝をついた。


「何をしているってこっちの台詞なんだけど。幻術も満足に使えねえじゃん。この程度で息切れしやがって。 ?」


 名を呼ばれて明里は青ざめた。千影の衣を掴み、ぶるぶると震える。口に出されるだけで寒気が止まらない。

 怯える明里を見て、千影の怒りは頂点に達した。


「気安く呼ぶな! 失せろ、けがらわしい蛆虫うじむしが」

「オレを退散させたいなら、さっさと浄化の雨を降らせればいい。血も死も穢れも洗い流す雨を。──ま、そのざまじゃできねえんだろうけど」


 はあ、と蝕神は墓石に寄りかかった。雪のような右足の上に、腐食した左足を組む。


「天界に戻らず人間ごっこしていると聞いて冗談だろと思ってたんだけど……えーまじか。職務放棄かよ、千年続いた儀式を失敗させる気? 言っとくけど暁神あかつきがみからのお達しだからな。天界に住まう十二柱はやすやすとは降りて来られないから、黄泉よみの國に住まうオレが様子を見に来たってわけ」

「……贄の儀式は果たす。期限はまだあるはずだ」


 は~? と蝕神はあきれ果てた。


「あのさあ、なんで人間の贄が神の住まう天界の境界を越えられると思ってる? 神と契り、神の伴侶になり、神の所有物になるからさ。それがお前自身がそんなゴミクズみたいな神性で天界の敷居を跨ぐとか、いくらなんでも不相応じゃないか? あ、もともと神様の上面をかぶっただけの幽鬼ゆうき、神様もどきだっけお前」


 心底軽蔑して、蝕神は見下した。


「そっくりそのまま返すよ。“穢らわしい神もどきが”」


 千影は一瞬押し黙った。


「……なればこそ、年明けの再生の夜に儀式は果たす。元日であるなら神気は戻る。お前の出る幕ではない」

「ずいぶんまどろっこしい真似してるなあ。まあ確かにそれなら贄を連れて行くことくらいはできるか。誰の入れ知恵なんだか」


 蝕神は地蜘蛛じぐもを撫でさすり、肩をすくめた。


「……水の信仰とは、水を神性視して、水を大事にすること。その考えを広めること。だから神様は血にも死にも触れてはいけない。穢れにまみれてはいけない。信仰の象徴、ご神体であるお前が穢れまみれじゃ、なんの説得力もないからな。そんくらい分かっているものと思ってたんだけどなあ」

「……」

「どうせ贄の願いを考えなしに聞いたんだろ? 無垢と愚かは紙一重。暁神あかつきがみはお前を無垢だと言っていたけど、オレからしたらお前はただの阿呆だよ」


 「あ、でも暁神あかつきがみがオレを遣わした理由は分かったぞ」と気づいたように蝕神は笑った。


「すっげえムカつくけど、オレは優しーから、お前を助けてやるよ。年明けの再生の夜を待つ必要もない。つまりはお前の神性が戻ればいいってことだろう? じゃあ簡単だ。お前が内包してしまった血や死の穢れを──『千影ちかげ』をオレが喰ってやるよ」


 千影は目を見開いて、身体中を強張らせた。


「分かるよ。その『名前』がお前を地に縛っているんだろ。穢れにまみれたその名前を喰っちまえば、元通りの清らかな水、幻ってわけだ」

「蝕神……待て」

「千年かけて培ってきた自我も、そこの大事なアカリちゃんのことも分かんなくなるだろうけど、次の儀式からまた一から『自分』とやらを育て直せばいいさ。そんで、また実体なまえを得そうになったらそのたびに喰ってやるよ。そうすれば永遠にまぼろしで居られる。どう? いい案だろ?」


 明里は千影の手が震えていることに気づいた。抱きしめる両腕は守るというより、まるで明里に縋りついているようだった。──怯えている。その事実に明里は目を見開いた。


「そうと決まれば、さっさとお仕事しなくちゃな!」


 蝕神が再び大量の地蜘蛛じぐもを発生させる。

 先ほどの数倍の蜘蛛の糸が二人に迫る。よけ切れない。払い切れない。

 千影はとっさに明里を突き飛ばした。はじけ飛んだ明里を見向きもせずに、蜘蛛の糸はあっという間に千影を羽交い絞めにした。


「千影さまっ……!」


 うめきながら明里が顔を上げると、千影は蜘蛛の糸ごと蝕神に引き寄せられて、眼前に顔を押し付けられていた。


「そうやって最後まで贄をかばう。本当にばーか」


 腐食した左手が千影の首に掴みかかる。うじの湧いた指が千影の肌に食い込んだ。


 れた。さわった。

 さわった。

 

「……ぁっぐ、!」


 その瞬間、千影のヒビ割れた傷跡から血が噴き出した。明里が絶望の声を上げる。

 千影がもがけばもがくほど、蜘蛛の糸は余計に纏わりついた。

 

「あ、ごめんごめーん。血出た。痛い? わるーい血を流させるだけだって。ちょっと辛抱してねー。ちょっと頭がぐちゃぐちゃになるだろうけど大丈夫。血を流しきればまたお前は──」


 蝕神は心底楽しそうにニタリと笑った。


「誰でもない誰か、『まぼろし』に戻れるよ」


 千影は悲鳴を上げた。

 蜘蛛の糸に捕らわれた哀れな虫のように、無意味な抵抗を繰り返した。


「いやだ、」


 流れる血をうじが喰らう。穢れを喰らう。記憶を喰らう。自我を喰らう。虫食いのように蝕む。


「いやだ、いやだ、やめてくれ」


 金色の右目が青に失せる。光を失う。

 いつの間にか、降り積もっていた真白い雪の上に、鮮血が飛び散った。


「もう誰かになるのは嫌だ、もう誰かの代わりは嫌だ!」


 追い詰められた千影の懇願。いつも許し、優しく受け入れていた神様の本音。


「……っ待って、待ってください……! 私が、私のせいで、千影さまは力を失ってしまったんです! 謝りますから、罰なら受けますから! 『千影さま』を消さないで、お願い。あと一日、一日だけ待ってください! そうしたら、村人にも十ニ柱の神様たちにとっても全部上手くいくから! そんなことする必要ありません !」


 明里が泣き叫び、蝕神がぞろりと目を向けた。「うるせえな」と吐き捨てる。怖気が走り、それだけで身体が動かなくなる。


「オレが『千影』を喰う必要? あーはいはい、必要ね、ないねない。ないけどさあ、に必要とか不必要とか、ご大層な理由がいると思う?」

「……え?」

「気に入らないから、目障りだから、で充分じゃない? 台無しにするのなんてさあ」

「──は?」

「オレ、こいつ嫌いなんだよ。神のくせに人間なんかの玩具、慰み者になりやがって。自分でそういう贄ばっかり選んでおいて不幸面してるの。ムカつくじゃん。自己犠牲にひたってんじゃねえよ」


 千影の傷から血が流れ続ける。あんなに必死に癒した傷が。たくさんの人の手を借りて、塞いだ傷が。


「んー? なかなか自我が消えないな。土地の贄が繋いでいるのか。またやっかいな贄を選んだなあ」


 蝕神は締め上げる左手に力を込める。腐食した肉が落ち、左手の骨が露わになる。


「お前、昔っから趣味が悪かったもんなあ。面倒な贄ばかり選んでさ。贄なんて娶ったら用済みなんだから、さっさと捨て置けばいいものを。最後の最後まで後生大事に抱え込んでさー」

 

 「人間だって合わない伴侶は“離縁”できるんだぜ」と蝕神はけたけた笑った。


「お前が離してやらないから、贄もお前も消耗して、誰にとっても無意味のはた迷惑。そういうの偽善って言うんだぜ知ってる? あ、偽りのお前にはぴったりだったか? それとも馬鹿だから分からない?」


 そのとき、明里はそれまで感じていた怖気や吐き気をいっさい感じなくなった。


 何を言っているのか、理解できない。

 ──嫌がらせ。そんなことのためにここまで、できるのか。


 まだ、村の人間は。

 打算にしろ思惑にしろ、村のため、家のため、共同体のため、そういう目的があって。

 明里や千影をつまはじきにしたり、利用しようとしていた。


 嫌がらせなんて、する暇がないからだ。

 生きていくだけで必死な人々はそんなことに裂く時間は一秒だってない。

 だから、村の人間とは譲歩することも、妥協することも、話し合うこともできた。

 そこには理由があるから、落としどころを見つけ出すこともできる。助け合うこともできる。


 けれど、なんだ、この神様は。

 ただの嫌がらせのためだけに、二人の事情も知らないで、どんな思いで千影が傷を負ったかも知らないで、千影を助けるためにどれほどの労力があったかも知らないで。

 突然湧いて出てきた第三者が、すべて台無しにする。気に入らないとか、目障りだとか、そんなくだらない理由で踏みにじる。


 そんなものは、神様とは言わない。人間とも言わない。

 そんなものは、ただの──おぞましい化け物だ。


 蝕神の愉快そうな笑い声だけが響く。

 痛めつけて、虐げて、ただ楽しんでいる。そういう声。


「──さわるな」


 怒声がした。自分の口から出ている声とは思わなかった。


「さわるな、さわるな、さわるな触るな触るな触るな触るな触るな触るな触るな」


 宮司からもらった御神酒おみきの入った瓶子へいし

 転がっていたその酒器を掴み、明里は躊躇なく蝕神に振り下ろした。

 バキン、と瓶子は砕け散り、御神酒を浴びた蝕神の左腕は削ぎ落ちた。

 千影の身体が力なく地に倒れる。

 蝕神がわずかに眉をひそめたのが分かった。


「千影さまに触るなっ……! 千影さまに言ったこと、全部取り消せ!!」


 砕けた陶器の破片を握りしめ、血がしたたる。

 痛みも寒気も怖気も感じない。

 一刻も早く、この化け物を排除しなくては。


「──出ていけ!! この疫病神!!」

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