第44話 千の影②

 それは死肉であり、汚物であり、害虫の群れ。

 人間なら誰しも忌避きひする存在の塊。


「あなた、なぜ、……う、……おぇっ……」

「あー悪い悪い。人間が直接オレを見たら目が潰れちまうよなーちょっと待ってな!」


 嫌悪感でえづく“巫女”を見て、祟り神は肩をすくめた。

 足元の土がめくれ上がり腐乱した塊を包み込んだ。


「んーさすが幻神げんしんの治める地。オレと相性わりーや。でも、ほら、ちゃんと見目麗しくはなっただろ?」


 土が解かれ、そこには確かに見目麗しい男が立っていた。

 光のない沼のように濁った瞳。おしろいをまぶしたような肌。ニタついた唇には紅すら引かれていた。まるで死化粧のように。

 鈍色にびいろ長襦袢ながじゅばんを引きずらせ、くせ毛は肩口で跳ね上がり、さながら寝起きの遊女のような気だるい色気を纏わせている。


 その男の右半分は、確かに美しかった。

 その男の左半分が、墓土から引きずり出された死肉のようでなければ。

 腐り、ただれ、うじが湧き、ぼとりと肉が落ちては塊になり、祟り神の肉体へと回収されていく。

 死体と生体を割って無理にくっつけたようなおぞましい姿。


 魂を喰らう陰の神。禍いの神。祟り神。

 十二柱がひとり、十月の──。


蝕神しょくがみさま、なぜ、このような場所におられるのですか」


 袖で口元を押さえ、“巫女”は吐き気に耐える。

 それでもかろうじて、祟り神が人型に変化したため、会話することはできた。


「え、オレのこと知ってるの? そんな有名? あんたオレの信者?」

「この地は幻神さまの地です。他の神はやすやすと敷居を越えられないはず、です」


 神とはその土地に根付くもの。その土地の特性が信仰する神を決める。

 農村なら五穀豊穣。都であるなら芸事や商売。災害や疫病が起きやすい地形なら、災厄の神。

 村境を隔てる川や道祖神はそれ自体が結界の役割を持っている。だから、異形や他の神はそう簡単に境界を超えることはできない。

 

「え~だってこの村、神域が血でけがされまくっていてひどいよ? ダメじゃんか、定め事を破ったら。土地の神の力が落ちたら、オレみたいな悪い奴が入りこみやすくなっちまう」


 蝕神しょくがみはニタついた笑みを浮かべた。


「幻神はなにしてるのかなー? 今まで贄の儀式があれば即日納品! するくらいの真面目で優等生な幻神が期限ぎりぎりになってりゃ、様子も見に来るだろ? ご同僚なんだからさ」

「……幻神さまでしたら、ちゃんとご健在です。どうぞお帰りください。あなた様がこの地を踏むだけで穢れが広がります」


 ありゃ、冷たいねと蝕神は肩をすくめた。その動きでボトリと、また腐乱した死肉が落ちた。


「まあそういうなって、挨拶くらいさせてくれよ。さすがに村中まで入り込むのはちょっと難しいと思ってたんだけど、その祠の中、いいもんがあるね。この村の住人だった奴の遺品? 遺灰かな? なんにしろこの土地と関わり深いものなら入り込める。ちょっと借りてくよ」

「……っ! おやめください!」


 ぞろりと蝕神が歩みを進める。それだけで“巫女”は顔をしかめたが、阻むように祠の前に立った。中には明里から預かった千冬の遺灰が隠されている。蝕神は浮ついた笑みを消し、


「どけ、邪魔をするな。オレに触ると身体が病むよ」


 ぶわりと瘴気しょうきを巻き散らかした。吸い込むだけで臓器が悲鳴を上げる。


(いけない。この身体は『私』だけのものではない──)


 ほとんど反射で、“巫女”は流れる川に自ら身を投げた。凍えるように冷たかったが、身体にまとわりついた瘴気はいくぶんか流れ落ちる。しかし川辺に上がったときにはとっくに蝕神は千冬の遺灰を手にしていた。


「お待ちください、蝕神さま、だめ、返して……!」

「じゃあ、ちょっと借りてくよ。悪いようにはしないからさー」

 

 けたけたと笑う異形は、再び地の底に埋もれて消えた。


***


 十二月三十日。

 小晦日こつごもり。大晦日の前日。

 村人は年越しの準備に追われ、社も大祓おおはらえの支度にとりかかっていたが、そこに巫女の姿はなかった。


「巫女さま、まだ具合がよくないのですか」


 年の瀬は鬼遣おにやらいやはらえなど一年の穢れや罪を浄化するための儀式が続く。

 千影だけでなく、明里も連日湯殿で身を清めていたが、巫女の姿が見えないので宮司に何度も訊ねた。


「どうにも質の悪い風邪にかかったようで。幸い命に別状はないのですが、大事をとって寄合所に移動させました。あの子に身寄りはいないもので」


 三日ほど前、村の見回りに出た際に、巫女は足を滑らせ川に落ちたと聞いた。運よく近くの住人に発見されてからずっと体調が悪いらしい。明里も千影も見舞いに行ったが、高熱でうなされていて会話にはならなかった。

 病も不浄のひとつ。千影が不浄に近づくことを宮司が憂い、そばにも寄せ付けないようにしていたため、状態はよく分からない。明里は心配そうに目を伏せた。


「そんなに心配されなくとも、大丈夫です。薬師の乙木オトギさんにも看てもらっていますし、ニ、三日で落ち着くとのことでした。明里も今日は早くお帰りなさい。雲行きが怪しい。雪が降りそうです」


 早朝から冬空を覆いだした雪雲はどんよりと重く、昼過ぎだというのに辺りは薄暗かった。

 宮司は境内の鳥居の下まで明里を見送りにくると「幻神さまは?」と訊ねる。


清治せいじにしきに会いに行ってくると。年明けに天界に向かうことは公言していないから顔を見ておきたいって」


 二人が年明けに村を去ることは、仮初めの夫婦の経緯を知っている村の年役としやく、清治、巫女しか知らない。にしきふきはなにか察しているふうでもあったが、なにも言わなかった。宮司は微笑み、


「それがいいでしょう。本来ならば、贄を娶れば恩恵の雨を降らせることが習わしですが、幻神さまにその余力はない。静かに村を去るべきです。あとのことは長老さまがうまく取り計らってくれるとのこと。あの方なら神の恩恵をでっちあげて近隣の集落に広めるなど容易い……いえ、口が滑りました」


 こほん、と宮司は咳払いし、明里も苦笑した。


「お二人でどうぞお幸せに。寂しくはなりますが」


 宮司は風呂敷に包まれたつき餅と御神酒おみきを明里に手渡した。


「今夜にでもお二人で召し上がってください。年役たちからです。大ごとにはできない分、簡素ですが許してください」

「いいえ、そんな、ありがとうございます。皆さんにもお礼をお伝えください。巫女さまのことも、どうかよろしくお願いします」


 明里は頭を下げた。宮司は村中に戻る明里に手を振り続けた。

 半年前、幻神がこの地に訪れたときは、神様だけではなく、村の年役たちも何か得体の知れない圧力としか感じられなかったが、今はちゃんと、顔を見て会話することができる。それが嬉しかった。



 明日の夜。

 明里は千影と契りを交わして、天界に旅たつ。十二柱の住まう天界に招かれる。

 住み慣れた地を離れる寂しさも切なさも不安もあったが、千影とようやく本当の意味で一緒になれる。その喜びが一番胸を占めていた。

 心残りがあるとするならば、世話になった巫女に挨拶できていないこと、そして。


「……千冬」


 家に帰る前に、寺の裏手。人目の付きにくい埋葬地に明里は足を踏み入れた。


 ここに訪れたのは、千影と仮初めの祝言を挙げるよりも前、夏の終わりの頃。

 あのときは、千冬への気持ちを整理するための墓参りだったが、今はただ穏やかに向き合うことができた。

 墓参りといっても、村に個々の墓という概念はない。盛り上がった土の上に、大きな石が置かれているだけの、塚とも墓とも言えぬ場所。年越しの喧騒とは無縁の静けさだった。枯草に覆われて、て風が通り抜けていく。


 季節の移ろいも人の気も知らず、変わらずそこに在るだけの死者の埋葬地。


ふきに聞いたよ。私のこと、頼んでくれてたんだね。結婚して別れたあと、私が独りぼっちになることまで心配するなんて、あなたらしい。そんなに私とやっていく自信なかった? そんなに私のこと、好きになれそうもなかったのかな」


 明里は苦笑して、しゃがみこんだ。供え花の菊をかざす。

 千冬の好きなものは、やはり思いつかなかった。


「……分かってる。そうじゃないよね。千冬はずっとそうして起きうる問題を潰して回っていたんだよね。村の人の間にいざこざが生まれないように。少しでもつまはじきにされないように。だから、私のことも拒絶できなかったんだよね」


 誰にも気づかれず、誰にも褒められず。

 自分ができることを必死にしていた。


「千冬だっていっぱいいっぱいだったのにね」


 神様でもあやかしでもないただの人間である彼は、自分の目の届く範囲を守るだけで手一杯だった。

 ただそれだけのことだ。


「千冬のこと見つけてあげられなくてごめんなさい。‥‥私のこと、見つけてくれてありがとう」


 両親を亡くし、従姉妹家族に馴染めず、帰る場所が分からなくなっていた明里にただひとり、声をかけてくれた人。今でもその優しい笑顔は明里の胸の内に大事にしまわれている。

 明里は微笑んだ。鼻の頭が赤らんで痛くなったけれど。


「千冬に心配されないように、頑張ってやっていくよ。大好きだったよ。それだけは本当」


 ぐすり、と鼻をすすり、涙をぬぐい、明里は立ち上がった。

 微かな白い雪が頬を撫でた。


「雪降ってきちゃった……千影さまが心配するから帰るね。ごめんね、遺灰。私の手から、返せたらよかったんだけど、どこにあるのか分からなくて、」

「──遺灰ってこれのこと?」


 唐突に、墓土から声がした。

 え、と明里が目を見開く。ずるり、と土が盛り上がり、姿を現した祟り神がニタリと明里に影を落とした。


「あ、まじだ! この墓土と同じ匂いじゃん。おかげで出てこれた。運がいいなあオレは」


 明里の手から宮司からもらった風呂敷が滑り落ちる。瓶子へいしに入った御神酒がごとんと音をたて、祝いの餅が真っ黒に黒ずんでいく。


「しかもあんた、めちゃめちゃ幻神の匂いがするわ。あんたが幻神の贄? 名前はなんていうの? お嬢さん」


 ボトボトと──なにかが、明里の頬に堕ちた。蠢く虫。それがなにか気づいて、明里は悲鳴を上げた。

 数匹のうじを払い落とし、明里は腰を抜かして、目の前の腐食した神様を見た。

 目が痛い。鼻が曲がる。耳鳴りがする。


「水は穢れを洗い流すもの。逆に不浄は水を穢すもの。だから蝕神オレと幻神は相性が悪くてさーなかなか村中に入り込めなかったんだよ。異界に通じる村境、遺灰からこの埋葬地。そしてあんた。点を繋いでいってようやく幻神にたどり着いた。、清らかで居心地わりーや」


 祟り神の左手がゾロリと明里に伸びた。うじだらけの鬱血うっけつした死肉の塊。悪寒が走る。胃液が上がる。触れてはいけない。本能が危ないと叫ぶ。

 

「──腐らせたのは、お前だな。土地の贄」


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