第31話 日陰

「それで、カミサ‥‥千影、あと一軒、獣除けしてほしい家があるんだけど、いい?」

「かまわないが、畑ではなく民家をか?」

「それが軒先に干してた柿を食いに獣が出ちまったらしくて。……宗吾そうごって奴の家なんだけど、さ」


 清治は窺うように、千影を見た。


 宗吾そうごとは、先日明里を怒らせて「目を潰してやる」と名指しされた若者衆の一人だ。酒盛りや夜這いの手引きを取り仕切っている。夜這いと言っても、大抵は暗黙の了解のもと行われたが、宗吾そうごは相手の娘に対して強引な手も使う、素行の悪さがあった。なにより、千影と明里のねやの覗き見を煽っていた中心人物でもあった。寄合所で「神様の趣向はどういうものか」だとか「明里は普段大人しそうな顔してるのに閨ではすごいらしい」だとか、面白おかしく風潮していた。清治もあまり好ましくは思っていなかったが、村の治安や財産は共同で守るもの。個人の事情で放置するわけにはいかない。


 千影はただ、ああ、とだけ言って頷いた。




「どーも。どーも。幻神さま。獣が家を荒らしやがって本当に参ってました。いやあ本当に助かった」


 宗吾の民家は裏山近くにあり、家の周りには猪や鹿の足跡が確かにしっかりと残されていた。清治と共に千影が出向くと、宗吾は一瞬怯えた様子を見せた。明里に名指しされたのが効いていたのか、しばらく様子を窺っていたが、千影が目くらましをかけたのを見届けて、へらへらとおべっかを使ってくる。


「礼はいい。一か所でも目くらましが破られれば、村全体に及んでしまう。けれど、家の外の残飯は片づけておけよ。これでは、荒らされて当然だろう」


 はあ、すみません、と狐目をさらに細くさせて、宗吾はだらしなく笑う。そんな宗吾の家の中から、もう一人、猫目の気の強そうな娘が出てくる。


「……なんだ、心配してたけど、幻神さま、わりと話が分かるじゃないの。せっかくならウチも見てくれないかしら?」


 宗吾と仲のいい、同じ手合の若い娘であるうめもまた、気安く千影に声をかけた。清治は顔をしかめた。真昼だというのに酒くさい。


「皆、農作業中だというのに、また昼間から飲んでるのかお前ら」

「人聞き悪いこと言うなよ清治、ちょっと喉が渇いただけじゃねえか。なあうめ


 宗吾と梅は、にやにやして、小ばかにしたように清治を笑う。


「清治は真面目だからねえ。幻神さまはどうです? お礼にご馳走しますよ。なんなら、夜にでも。あたしは一人住まいで寂しいので、いつでも来てくださいな」


 男好きな梅は、気安く千影の衣を引く。面白がっているのか、ご機嫌とりなのかは分からないが、千影はあっさりと衣を振り払った。


「有り難いが、これが終わったら明里を迎えに行かねばならない」


 明里の名前を聞き、二人は一瞬静まり返った。


「明里………明里が、どうかしたんで?」


 探るように宗吾が問いかける。明里から告げ口されていないか、気になっていたのだろう。千影は平然と答えた。


「今朝、怒らせて、従姉妹の家に逃げられてしまった。朝から飯抜きにされている」


 ええ? と梅は笑った。


「……かわいそ、神様をほっとくなんて。なんで、そんな怒らせたんです?」

「たいした話ではない。俺が今朝、少し調子に乗って、怒らせただけだ」


 思いのほか簡単に口を割る千影に、二人はだんだん踏み込んでくる。清治は止めるべきか迷ったが、千影は特に気分を害してもいなさそうだった。


「……それって、村のもんが閨を覗いていたことと、関係あります?」

「いいや? 俺は閨を覗かれていたことについては、興味もない」


 その一言で宗吾と梅は大業に息をついた。


「なぁんだ、じゃあやっぱり明里のはったりかあ。覗いていた奴を幻神さまに言いつけてやるなんて、虎の威を借るような真似しやがって」

「神様に見初められたからって調子に乗ってたんだよ。やたら目が怖かったけど、やっぱりただの見間違いだったんだねえ。ああよかった」

 

 千影はそこで初めて、ぴくりと眉を動かした。


「目?」

「いや、なんかこの前、お二人が喧嘩したときあったじゃないですか。その時、明里を怒らせちまって、なんか蛇みてえな目に見えたんですよ、それが恐ろしくて恐ろしくてたまらんかったんです」


 安堵のあまり、宗吾は口を滑らした。

 あ、と清治は息を呑み、千影はふうん、と頷いた。


「‥‥まあ、俺と夫婦になったのだから、そういうこともあろう。夫婦の結び、直会なおらいの結び。周りの目──己の目、すべてで、神の伴侶であることを受け入れだしている証拠。実に喜ばしい話だ」


 一瞬だけ、獲物を狙うように鎌首をもたげた神様を見て、清治と宗吾、梅はぞわ、と悪寒を走らせたが、千影はゆったりと微笑んだ。


「なに、気にすることはない。実害はない。今朝の仲違いは、閨を覗かれていたとは別の事情だ。それに俺の神気が移ろうと、明里の性根は普通の人間。ごく平凡な大人しい娘だ。あの娘、ちっとも恐ろしくはないだろ?」


 笑みを浮かべ、同意を求める千影に、宗吾は押されつつも頷いた。


「は、はあ」

「明里は臆病な質だから、なにもできやしない」

「‥‥まあ、確かに」


 明里はもともと若者衆の中では、人付き合いが得意なほうではなく、下に見られることも多かった。


 昔は、傍から見れば、千冬について回るしか能のない娘。

 今は、事情を知らないものから見れば、神様に手籠めにされて、言いなりになっている娘。

 そんな明里が少しばかり粋がったところで、簡単に印象は変わらない。

 

 なので、うっかり、宗吾と梅は声を潜めて笑ってしまった。それを見て、千影は一層笑みを深くした。


「──だから、俺が代わりに明里の邪魔になる者は、消してやると言っているのに、それすら願ってくれないんだ」


 へ、と宗吾と梅は間抜けな声を出した。


「俺はあの娘に入れ込んでしまったから、明里を怒らす者、悲しませる者は容赦できそうにないんだよ」


 にこにこと笑いながら、千影は宗吾に距離を詰めた。間合いに、入った。


「けれど、明里は晒し者にされようが、大切な千冬の遺品をないがしろにされようが、頑なに誰が邪魔とは、村を潰せとは、俺に言わなかった。それは“人を傷つけたくない”、“殺したくない”という、とても平凡で、尊い良識が明里にはあるからだ。その当たり前の良識を育んだのはこの村、この共同体。どんなに義理や義務であろうと、あの娘を見下そうと、手を差し伸べた人間はいたということだ」


 そういう経験がなければ、明里はとっとと神様に頼んで村に復讐していたに違いない。そうしないのは、労わられた過去が、優しくされた経験があるからだ。


「だったら、この村もまだ守る価値はある。千冬が明里を見捨てなかった優しさを、明里の人を傷つけたくないという気持ちを、俺も大事にしたい。だから、明里がその心を失くさない限り、俺はお前たち、村の者に、おいそれとは手を出さない」


 神様は、そこで一気に無表情になった。


「……──というのが、神としての矜持ではあるが。ところで、夫として、伴侶として、に気になるな。明里の目がジャの目になったと言ったか? お前たち、明里に何を言って、そこまで怒らせたんだ?」

 

 宗吾と梅は、青ざめて何も言わない。

 いい機会か、と清治は口を挟んだ。


「神様がねちっこそうで大変そう、とか。夜の具合がそんなにいいのか、とか、閨でうまくご奉仕できなかったのか、とか? 下世話なこと言ってたよな」

「せ、清治!」


 宗吾が慌てた。清治はため息をついた。


「少し調子に乗りすぎだぞ。いい機会だから改めろよ。神様の妻だから、とかじゃなくてさ、普通に失礼だぞ」


 清治もまた、じろりと二人を睨んだ。


「……そうやって見下せる相手はとことん馬鹿にしやがって。千冬にも、そうやって負い目につけこんで、やらせる必要のない畑仕事をさせていただろ」


 反論を失くして宗吾は神様を見た。千影は優しく微笑んだ。千冬と同じその笑みに宗吾が一瞬、気を抜いた瞬間──千影はぐいっと、胸ぐらを掴み。


「ふざけるなよ」


 大きく拳を振りかぶり、ばこ、と思いっきり、宗吾を殴り飛ばした。


 ぐえ、と潰れた蛙のような声を出して吹っ飛んだ宗吾を見て、梅はひ、と怯え、さすがの清治もぽかんとした。


「い、いま、手出しはしないって。言ったじゃない!」


 梅が金切り声をあげる。千影は肩を回しながら、「そのつもりだったんだがなあ」と呟いた。


「俺も最初は、同じ土地から生まれ出るものは大差ないと思っていたのだが、ずいぶん複雑で、個体差があるらしいと、最近分かった。であるなら、俺が個々を贔屓していい理由にもなる。贄の明里、友の清治、ふき──は、俺的には微妙であるが、まあよい許す。明里の親族であるし、一応あの娘は面と向かって謝ったからな」


 千影は、目を回している宗吾の襟を再び掴み上げた。


「だが、困ったことに、贔屓する者ができたなら、そうできない者も同時に生まれてしまった」


 噛みしめるように、千影は「宗吾、梅」と名前を口に出した。二人は肩を跳ね上げさせた。


「俺の器の元になった千冬を侮り、贄の明里を見下す者たちを俺が許す理由は? そんな連中を贔屓する理由なんてあるか?」


 ジャの目になった神様は、宗吾の額に自らの額がくっつくほど、眼前で睨みつけた。


「俺はまだ人の世にも、人の機微きびにも不慣れでな。よければ教えてくれないか。こちらがなにもしていないのに、こちらを軽んじてくる者の気持ちを。どうしたら、そういう人間を許すことができるのかを」


 ひい、と宗吾と梅は悲鳴を上げ、清治はあちゃーと額を抑えた。


「……一応、止めるけど千影。あんまり、やりすぎるなよ。村まで滅ぼさないでくれな」

「無論、手加減している。災厄は起こさない。神力も使っていない。ひと一人分の力に調整している」


 なら、まあいいか、と清治は肩をすくめた。それならばまあ、売られた喧嘩を千影が買っただけに過ぎない。煽ったのは清治でもあるし、機嫌の悪い神様にできれば触りたくはないので。

 清治は脇で震えている梅に、こっそり声をかけた。


「梅も、これ以上怒りを買いたくないなら、さっさと明里を呼んできたほうが身のためだぞ?」


***



「やっと終わった。結構、時間かかっちゃった」


 ふう、と明里は川で洗った洗濯物を絞り、樽に入れる。

 従姉妹の家の八人分なので量が多かったが、家事は嫌いではないし、なにも考えず作業に没頭できたのはよかった。集中していたおかげで気持ちも落ち着いた。朝餉も作らず出てきてしまったけれど、千影はなにか食べたのだろうか。洗濯物を干したら、一度様子を見に帰ろうかと、明里は腰をあげると。


「い、いた! 明里、ちょっと来て!」


 梅が勢いよく明里の肩に掴みかかってきた。


「な、なに? 梅、私今洗濯物が」

「そんなのどうでもいいから! 幻神さまをどうにかして!」


 ぎくり、と明里は肩を震わせる。まさか、村の年役がまた千影に手を出したのだろうか。不安になる明里をよそに、梅は叫んだ。


「あんたの旦那、あんたを馬鹿にしたからって宗吾をボコりまくってるんだよ! あたしも殺されちゃう!」

「…………へ?」


 いったいなにがあったら、そうなるのか?

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