4章 神様と血を流す

第30話 影法師

 秋の夜明け。冴えるような冷気が匂う。日中は爽やかな秋晴れが続いているけれど、朝晩はだいぶ冷え込むようになった。

 ふるり、と明里は身を震わす。隣で眠るぬくもりに無意識にすり寄り──我に返った。


「寒いのか?」


 身を引こうとした瞬間に、腰を捉えられる。


「あ、千影さま、起こして申し訳ありません。だ、大丈夫です」

「手足が冷え切っている。そんなに縮こまって寝るからだ。あまり身体を冷やすなよ」


 そうして冷えた手先を握られて、う、と明里は身をよじった。告白されてからさすがに共寝することに躊躇したのだが「今まで散々、横ですやすや寝ておいて何を今更」と呆れられて反論の言葉をなくした。せめて、なるべく離れていたはずが、誰かのぬくもりは心地よくて、気がつけば暖を取っていたらしい。


「あの、もう村の人に覗かれていないのなら、一緒に寝なくてもよくないですか……?」


 気恥ずかしさのあまりに呟くと、千影は面白くなさそうに手を離した。


「……だったら、俺に譲らなくていいから、せめて寝間を使ってくれ。好きな娘を夜風に当たらせて平気だと思うのか」


 ひぇ、と明里は声にならない悲鳴を上げた。


「べ、別に、千影さまがい、いやとかではないんです。でも、その、なんといえばいいのか、ただ恥ずかしくて」


 泡を食って真っ赤になる明里を見て、千影は顔を緩ます。衣を広げ、明里を包み込んだ。


「明里、可愛い」

「………………千影さま、なにか変なもの食べました?」

「なにも。明里が作ったものしか口にしていない」


 ぐぅ、と唸る。これ以上愛のささやきが続いたら死んでしまうかもしれない。

 以前にもこうして抱きしめられたことは何度かあったが、告白を受けてからは、温度が違った。やたらめったら甘い。声も言葉も。距離感がおかしい。


「そうだ、ご飯、わたし、そろそろ朝餉を作らないと」

「そんなに急ぐこともないだろ。もう少しこうしていてくれ」


 限界である。

 回った腕がちっとも離してくれなくて、明里は涙目になった。


「あ、朝餉がいらないっていうなら、私、従姉妹の家の手伝いに行ってきます!!」






「あのさ、明里ちゃんさ、普通さ、少し間を置かない? いや、いつでも頼れとは言ったけど、来るの早くない? さすがに気まずいでしょ」


 明里を出迎えたふきは口をへの字にさせた。朝日は昇り切り、早朝。村人も起きだして忙しない人の声がする。ふきの反応はもっともであったが、明里はそれどころではなかった。


「千影さまと今、二人きりになるなら、蕗とのほうが、まし」


 ひくり、と蕗は眉をはねあがさせた。


「なんなの! 本当に! いきなり血相変えて明け方来るから、やっぱり幻神さまになにかされたのかと思えば、二人きりが恥ずかしくていられないってなに!? とっくに祝言あげてるじゃない!」

「それは……」

「いい、聞きたくない。詳しい事情は知りたくない。もう懲りた。もうたくさん」


 あーあーと耳を塞ぐ蕗は板敷いたしきの上で転がって煩わしそうにしたが、以前のような、取り繕ったようなお節介さは見せなかった。今のほうが、ずっと自然体の彼女に見える。転がっている蕗を見て「こら、そんなこと言わない」と叔母が窘める。

 

「わたしは明里ちゃんが頼ってくれてうれしいわよ」

「あ、叔母さん、ごめんなさい。私まで朝餉に呼ばれてしまって」


 いいの、いいの、と蕗の母であり、明里の叔母──きくは微笑んだ。蕗によく似た柔和な顔つきで、笑うと目尻の泣きボクロも一緒に下がる。


「久々に来てくれたんだし、ゆっくりしていって。蕗がいろいろ迷惑かけたみたいでごめんなさいね」


 八人分の朝餉にさらに追加された明里の分の朝餉も、嫌な顔せずふるまってくれた。蕗の家は数軒隔てただけの近所ではあるが、明里の家よりずっと大きいどっしりとした造りだった。家の男たちはもう農作業に出ていて、奥の座敷では年寄り二人が静かにうたたねしていた。身重の蕗は囲炉裏のそばで休んでいて、明里は叔母とともに食器の片付けをする。


「私、あとで洗濯に行ってきますね」

「そんな気にしなくていいけど……でも、思ったより元気そうだし、お願いしようかな」


 叔母は目を細めて、明里を見つめた。


「幻神さまの贄になってからも、全然相談してくれないし、明里ちゃん、以前はずっと顔色悪くて心配だったのよ。でも、村長とか長者さまの手前、余計なこと言えなかったから、こうして明里ちゃんから頼ってくれると安心するわね」


 叔母の気遣いを聞き、明里は少し後ろめたく感じたが、その言葉は純粋に嬉しかった。


「その分じゃ、幻神さまとの仲も大丈夫そうね、よかった」

「……なんで、そんなことお母さんに分かるのよ。影で何してるかなんて、分からないじゃない」


 蕗は不満げに叔母を見る。あら、と叔母は笑った。


「明里ちゃんがうちに頼ること、幻神さまは許してくれてるんでしょう? 明里ちゃんにはちゃんと逃げ場があるってことじゃない。だったら、手籠めにして言うことを聞かせている、なんて、やっぱり噂なのね」


 蕗も明里も叔母の言葉に、目を瞬かせた。


 そうか、誰かに頼ることは、そういう見方もできるのか。

 思ってもみなかった方法。

 けれど、千影と明里だけで、誰にも頼らず肩ひじ張って生きていくより、ずっと簡単な方法。

 明里は、肩を緩ませて微笑んだ。千影のことを信じてくれるのが、嬉しかった。


「うん、幻神さまは……千影さまはすごく優しいの。ありがとう、叔母さん」

 

 あらあらと、叔母はのんびりと笑い、蕗は「いや、明里ちゃんも充分恥ずかしくない?」と毒づいた。




***



「──やはり、罠だった。朝出て行ったっきり明里が帰って来ない」

「はぁ……」


 清治は適当に千影に相槌を打った。唐突に意味が分からないことを言いだす癖にもいい加減慣れてきたので、話半分に流す。神様のご機嫌取りも清治の仕事の内ではあるが、今は畑の作物が心配である。毎年の事であるが、数か所、作物が掘り起こされていた。


「愚痴は聞いてやるけど、先にここを頼む。毎年猪にやられるんだ」


 千影は無言で、頷いた。秋の稲刈りが落ち着けば大豆の収穫の時期である。秋の作物は猪や鹿などの獣に狙われやすい。千影が足跡を見つけては、村の畑に目くらましをかける。


「簡単なものだが、これで獣には気づかれまい。虫など細かな生き物には効かないから気をつけろよ」

「ああ、充分だ。今年は猪追ししおいしなくて済むなら助かるなあ」


 清治は礼を言い、話を戻した。


「それで、明里となんかあったのか?」


 正直またか? とまでは言わない。先日の夫婦喧嘩の際、明里の怒りを買った若者衆は神様を探しに山狩りまでするところだった。日が落ちきり、火を掲げて、いざ、と覚悟を決めた瞬間に、明里と仲睦まじく、すたすたご帰宅する神様を見て、本気で唖然としたのだ。半目で見つめる清治に気づかず、千影はむす、と不貞腐れていた。


「……明里はいつも、食事を共にしようと言っていた。それなのに、今朝は約束をたがえた」


 呆れてため息が出た。そんなことで不機嫌な神様に。けれど、千影は真面目そうだった。


「約束は簡単にたがえるものではない。約定の重みがなくなる」

「人間はわりとテキトーな理由でたがえたりするの、覚えておくことだな」


 そういうものか? と千影はいまだに不満そうだった。犬も食わない内容で、清治はなんだか笑ってしまう。ただの痴話喧嘩であるなら、それに越したことはない。


「仮初めの祝言を挙げると聞いたときは、正直心配だったけど、うまくいきそうでよかった。そうやって、あんたと明里がうまくやっていこうとしている姿を見るのは、嬉しいよ」


 千影が胡乱げに清治を見る。雰囲気はだいぶ違うけれど、その面差しは仲の良かった友を色濃く継いでいた。


「そうやって、あんたみたいに、千冬も明里と向き合えていたら、よかったのにな」


 どうしてもその姿で二人並ばれると、清治はあの青年のまぼろしを見る。そういう未来もあったのではないかと、夢を見る。


「……清治も明里と同じくらいには、千冬に思い入れがあるのだな。お前が俺を助ける手助けをしたのは、そのためか?」


 “千冬”の写し身が壊れかかって、まず神様に会いに来たのは明里ではなく清治だった。それが村長の命令だったとしても。最初から清治は幻神を気にかけていた。


「そうだよ。俺の勝手な肩入れだ」


 隠しもせずに清治は言う。千影は何とも言えない顔をした。


「きっと俺が誰より千冬の立場を分かっていたから──分かっていたのに、その上で見過ごし続けていたのは一番罪があるんじゃないかってそう思っていた。明里よりも、ずっと」


 あの優しい青年を見殺しにし続けていたんじゃないかと。だから、同じ顔をした神様を放ってはおけなくて、また消える姿を見たくなくて。そんなの、ただの自己満足の罪滅ぼしだけれど。


「だから、俺は勝手にカミサマの味方をしてしまうよ。それもまあ、人間の勝手な都合だから、もらってくれ」

「……不思議だな。名を得てから、今はあまり、千冬に重ねられるのは嬉しくはない」


 “千冬と呼んでくれ”と無邪気に笑っていた以前の神様は、もうそこにはいなくて。くるり、と清治に背を向けた千影はやっぱり拗ねていた。


「けれど、千冬がいなければ、この身はここにはない。その“勝手な都合”とやらも、受け入れよう」


 ご機嫌ななめな神様は、しょんぼりと肩を下げる。


「……俺が千冬に似ているから、お前が俺を気遣ってくれていたのだとしても。清治が善き人間なことくらいは、分かる。その名の通り」


 ぼそりと呟かれた神様の言葉は、清治の耳に残った。──名前。名前か。子供のように拗ねている、よく見知った友人に似ているようで、似ていないその背中に声をかけた。


「──千影ちかげ

 

 ぴくり、と千影は肩を揺らした。

 明里以外は呼ばない。明里以外はきっと、口にすることを許されていない、その名をあえて呼ぶ。秋の日差しに照らされた神様の影が、ほんの一瞬、地に縫い付けられるように色濃くなった気がした。


「いや、千影ちかげサマ? ……なんか気持ち悪いな。やっぱり、呼び捨てでいいか?」


 清治がそういうと、千影はあっさりと、かまわない、と振り返った。

 後ろめたそうな、嬉しそうな──初めて、喧嘩した友人と仲直りしたような、そんな顔をしていた。

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