第17話 潮騒

「最初から、千冬と、似ていない‥‥?」

「ええ、ちっとも」


 理解できない言葉の意味を手繰るように幻神は復唱する。


「俺はちゃんと、千冬のカタチを取れていないのか?」

「いえ、そうじゃなくて、中身の話です」 


 中身? と幻神が大業に驚く。そんなに意外な話だろうか。誰がどう見たって全然似ていないと思うのだけど。


「そんなこと、今までの贄には一度も言われたことはない」


 困惑し、小首を傾げる幻神を見て明里は眉をひそめた。


「‥‥あの、もしかしてそれって、危うくなったら幻術をかけていませんでしたか?」


 む、と幻神は押し黙る。身に覚えはあるらしい。明里はため息をついた。やっぱり、そうか。


「あなたは


 幻神は硬直した。頭のてっぺんからつま先までものの見事に、固まった。


「外見は、それはそっくりです。何度も見間違えて動揺はしました。でも、それだけです。言うこと成すこと全然違くて、あなたがまるきり千冬に見えたのは、幻術をかけられたあのときだけです」


 あんまりな明里の発言に怒ることすらできず、幻神はただ目を白黒させていた。明里からすれば、別になんでもない、ずっとそばで感じていたこと。


 だいたい死人が生きて帰ってきた時点で当人と見ろというのも無理がある。


「顔が似ているだけなら、それは双子が別人であるのと一緒です。血の繋がりがある分、まだそちらのが近しいかもしれません」


 散々千冬として見ないことを責められた気がしたが、落ち着いて考えてみれば、ずいぶん理不尽な話だと思う。 


 神様を呼び寄せたのが、仮に明里の声だったとしても、こうまで中身が違っては。


「あなたは、本当にただの別人です。それなのに、あなたを千冬として見るのは、失礼ではないですか?」

「‥‥そういうお前も俺の顔を見たがらなかったじゃないか」

「それは、」


 明里はぎゅ、と膝を抱く手に力を込めた。未だに整理がついているか分からない事実。知りたくもなかった気持ち。


「‥‥神様が私の幻想をカタチにしてしまった事実が見たくなかったんです。あなた本人のことじゃありません。どう考えても、中身が別の人が私の理想の千冬を演じているなんて見ていられなかったんです」


 ごめんなさい、と明里は謝る。 

 幻神はそんな謝罪はどうでもよかった。明里の言葉は明確に写し身を、器を破壊する言霊だったが、なにか、もっと別の、幻神の核に当たる何かを、確実に粉砕した。


「本人? 自我? 俺にそんなものがあると?」


 言うなればそれは、自己がないと信じ込んでいる、幻神のただの思い込み。そして、“誰でもない誰か”に成り代わるためには絶対に必要な自己暗示。明里はなんの悪気もなく、幻神の在り方を解こうとしていた。


 だって、さっき神様自身が口にした台詞だって。


「あなたが言ったんじゃないですか。腹が立ったって。矜持があるって。そんなの自我がなければありえないことです」 


 今、こうして向かい合って話しているのは紛れもなく、幻神本人の言葉であろうに。


「私が今話しているのは、あなた以外の誰なんですか」


 千冬ではない。千冬ではないのだ。


 きっと、明里だけでなく、清治も巫女も、村人すら皆分かっている。当たり前すぎて、誰も尋ねたりしないだけで。


「──‥‥そんなこと、考えたこともなかった」


 なのに、神様だけが、分かっていなかった。自分が誰かなんて至極簡単な問いすら持ちあわせていなかった。それに気がついて明里は目を丸くする。


(このヒト、本当はものすごく、抜けているのでは‥‥)


 目を見開いて、水面を見つめるその姿すら、ちっとも千冬と似通っていない。他人を慮る千冬の心根の在り方はむしろ清治のほうが似ているくらいだった。


 そして、いろいろ合点もいく。神様は人の心が分からない。自分の心すら気づいていないなら、当たり前だ。人の心が分からないから、人の心を操る術も、また分からないのだ。だから、外側だけをまるごと真似してみるとか、強制的に幻術で催眠をかけるとか突飛なことをする。


 もし同じ力が人間にあれば、人間のほうがもっと容易く他者の心を操れるだろうに。明里のようなただの小娘に手こずるなんてこと、きっとない。

 

(‥‥なんて、不器用)


 あれだけ激しく怒れる自我がありながら、他人に成り代わるなんてきっと難しい。本当に自己がない人は、あんなに怒ったりしない。怒るのはその矜持がこの神様にとって本当に大事なものだったからだ。ろくに会話せず、目を合わせず、それをないがしろにした明里が酷い目にあったのも道理であろう。


 そうして思い出す。同じ姿をした彼を。千冬は声を荒らげたことなど一度もなかった。きっとたくさん諦めて、達観してしまった彼はただ優しい人だった。それが今は悲しい。


(怒ってくれたら、よかったのに)


 手前勝手な我儘を思う。怒ってくれたら、叱ってくれたら、明里は自分の押しつけにもっと早く気がついただろうか。なにも現実は変わらなくとも、千冬の気持ちを殺し続けることは止められただろうか。


 今一度暗く落ち込みかけた明里に「ああ、そうか」と、幻神が思いついたように言った。


「お前、千冬が自由になることを望んでいただろう」


 膝に頭を埋めていた明里は、その言葉に視線をあげた。


「だから、俺も自由にふるまえた。なんというか、うん。こんなに伸び伸びと自由に動けたのは初めてだった。この写し身は、居心地が良かった」


 自分の感情を探るように、幻神は呟く。驚いたのは、今度は明里のほうだった。


「自由に‥‥?」

「千冬になににも縛られず、捕らわれず、笑っていて欲しかったのだろう? それは写し身にも反映されるものだ」


 村の圧力とか、義務感とか、そういう縛りから自由になって。その上で自分を好きになって欲しかったのだろうか。それこそ都合のいい幻想にしか聞こえない。


「そう、でしょうか。単に罪悪感から、そう願ったのかもしれません。今にはして思えば、私は純粋に千冬を好きになったかも、分かりません。好きになったほうが、村にも自分にも都合が良かったから、依存したのかもしれません」


 神様には関係のない愚痴を思わず吐いてしまった。は? と幻神は怪訝な顔をした。


「真実、おまえは千冬を愛していたよ。執着とか依存とかそういう細かな差違は俺には分からないが、根は確実に恋情だ」

「‥‥なんでそんなこと言い切れるんですか」

「お前こそ何を言っている。俺が来た理由を忘れたのか」


 ぐすり、と鼻を鳴らして、滲んだ涙を拭い、明里は幻神を見た。幻神は本当に意味が分からないという顔をしていた。


だぞ。だから、俺は贄の想い人の姿になる。と、いうか想い人以外にはなれないんだよ」


 お前には逆効果だったようだが、と幻神は苦々しく付け加えた。


「誰かを望む声が、本当に誰でもいいなら、別に親兄弟でも友人でもかまわないからな。俺がこの姿でおまえの前に現れたのが、なにより、お前が千冬を愛していた証拠だ」


 幻神の言葉は慰めや嘲けりは一切なく、明里に届いた。淡々と事実だけを述べるこの神様をよく知っていたから素直に信じることができた。


 ほんの少しだけ、明里の心は楽になった。始まりは、神様の言う通りきっと恋だった。千冬に見放されたら終わりだという焦りから依存や執着に変わっていったのかもしれなくても。あの優しい彼が確かに明里は好きだったのだ。


「‥‥ありがとうございます。それなら、少しは救われます」

「救い? 俺はなにも力を使っていない。礼を言われる筋合いはない」


 いや──神様の超常的な力なんかじゃなくて、あなたの言葉で救われたのだが。


 全然伝わらなくて。相変わらず、意思疎通は難しくて。

 明里はほんの少しだけ、可笑しくなってしまった。


「あなたのこと、分かるようで、やっぱりよく分かりません」


 恐ろしいのか、もろいのか。冷たいのか、優しいのか。


「あなたのこと、ちゃんと知りたい、です」


 ずっと言うか言わないか迷っていた言葉が自然に出ていた。


「だから、どうしたら、あなたが消えないですみますか?」

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