第16話 融解

 最初にその姿を見たとき、泣いているのかと思った。今にも消えてしまいそうな、そんな背中だった。 


※※※


「よかった。ほとんど痣にもなっていないですよ」


 社務所の中。巫女が明里の身体に塗りつけた薬草を取り替える。傷はかすり傷程度でほぼ完治していた。棚機たなばたの夜、川に落ちたときは呼吸ができないほど身体を打ち付けてきたのに、不思議と明里は翌日には起き上がることができていた。


「幻神さまは明里との食事の際に、ご自身の生気を分けておいででした。だから、ほんの少し、水に耐性があったのでしょう」

「‥‥そう、ですか」


 明里は目が覚めてから、いろいろなことを聞いた。川から助け出されたあとのこと。村の様子こと。そして神様と共に食事をとる意味。


「神は土地に根付くものですから、この地に恩恵をもたらすには、まず贄である明里をくさびにして結びつかねばなりません。贄というのは土地と神を繫ぐ大切な存在です」


 幻神が明里と食事したがったのもそのためだという。この土地で育まれた食物を食べ、血肉にし、人間と繫がる。より近しく、より間近な存在になる。そうして幻神はどんどんこの村と結びついていった。


「ただ、千冬の遺灰だけは本当に嫌がっておいででした。明里は千冬の死に引っ張られていましたし、贄に死臭が纏わりついていたのは困ったのでしょうね。おかげで、明里にはあまり手出しできなかったようですが」

「死の不浄が神様にとって毒だからですか?」

「それもありますが‥‥死を嫌うというのは逆に言えば」


 巫女は口元だけを緩ませた。散々口止めされていたと聞いたが、もう隠す必要もないと今日の巫女は饒舌だった。


「それだけ、生きとし生けるものを愛していらっしゃるということです。だから自ら死に寄る明里のことを許せなかったのでしょう」


 ああ、それならば。なんとなく分かる気がする。死者に対する異様な拒絶。稲穂を前にして表情。熱にうなされる明里を心配していたあの手。垣間見えた本質は確かにあった。


「結局は、神様だってことなんですね」


 当たり前の事実をようやく受け止めた気になった。だって、あの神様はあれだけ儀式を拒絶した明里さえ、助けてしまったのだから。


 胸の内は不思議とすっきりしていた。ずっと蟠っていた感情を、神様に、千冬の顔をした彼に洗いざらいぶちまけたからだろうか。あのとき幻神はただ黙って明里の懺悔を聞いていた。どうしょうもない、神様にはまったく関係のない話をただ、聞いてくれていた。


(今、なにしているんだろう)


 ぎしり、と障子の外の縁側が軋んだ。


「明里、少しいいか」


 幻神を探しに出ていた清治がちょうど帰ってきたところだった。




「消えてしまうって、え? 幻神さまが?」


 あらましの説明をして、悩みながら清治は腕組みした。宮司や村長は折よく不在だったので、巫女と明里と清治は気にせず話し合う。


「まだ、村長には話していない。五月蝿そうだからな。それに先に明里には言っといたほうがいいかと思って。どうする?」

「どうするって‥‥」


 明里は巫女と顔を見合わせた。


「村のことを考えるなら、このまま放っておくのが一番なんだけどな。あの調子じゃたぶん災厄は起こさないと思うぞ」


 やけにはっきり言い切る清治に、明里は首を傾げた。


「どうして?」

「どうして、て。おまえ」


 清治は一瞬、まじまじと明里を見つめたあと、ため息をついた。


「振られて傷心してるんだろ」


 ぎょっと明里は肩を揺らして、声を小さくする。


「そういう話じゃないでしょ‥‥」

「そうかあ? そういう風にしか見えなかったけどなあ」


 いったいなんの話をしてきたのか。明里がじろりと睨むと清治は苦笑した。


「千冬とお前のことを話してきたんだよ」

「‥‥」

「ごめんな、明里。事情は話しちまったぞ」


 清治は千冬と仲良かった。仲が良かったのだ。千冬に依存する明里を快く思っていなかったのもなんとなく分かっていた。それを表面に出すような人間でもないことも。 


「‥‥ううん、ありがとう。世話かけてごめんなさい」 

「いや、俺も口を出して悪い。だから、あとは明里に任せるよ」


 それで、わざわざ人目を忍んで教えに来てくれたのか。どこまでも律儀な、どこまでも人を思いやる、その人柄は千冬ともどこか似通っていた。


「巫女さま、くりやを使わせていただいてもいいですか?」


 巫女はきょとんと目を見開く。


「会いに行かれるのですか? 大丈夫でしょうか?」

「分からない‥‥ですけど。このまま一人で消えられるのはなんか‥‥」


 清治があえて茶化すように笑った。


「だよなあ。あいつずるいよなあ。千冬の顔してんだもん。なんか目覚め悪くて」


 その言葉に明里は目を瞬かせたあと、緩く首を振った。


「ううん、あのヒトは──‥‥」

 








 神様が明里を連れてくるようにと思し召しだ、と適当に嘘を付けば、年役たちはなにも疑問に思わず、明里を社から開放した。渓流の流れに沿い、清治は道案内する。


「そろそろだな。水の音がするだろ? まだいるならそこだ。俺はこの辺にいるから、なにかあれば呼べよ」

「うん、ありがとう」


 清治に礼を言い、明里は一人で足を進める。木々の生い茂る合間。水が反射してきらきらと光っているのが見えて今更動悸がしてきた。せっかく決めた覚悟が鈍りだす。


 本当にこのまま会いに行っていいものか。また怒らせやしないか。


 明里の心根がそんな簡単に変わるわけもなく、すぐに後悔は押し寄せてきた。今でもあの金色の目を思い出すだけで鳥肌が立つ。それでも、もう見ないふりは、もう目をそらすのは嫌だった。


 開けた場所に出た途端、陽射しが照りつけた。幻神はすぐに見つかった。


「──幻神、さま」


 その背中があまりに小さく見えて、なんだか今にも溶けて消えてしまいそうで、明里はそれまで悩んでいた様々な葛藤を一瞬忘れてしまった。


「──‥‥」


 ゆっくりと振り返った幻神の輪郭は夏の陽射しに霞んでいた。その目は胡乱げで、焦点があっていない。胸に焦燥を感じて、もう一度名前を呼んだ。


「幻神さま。あの、近くに行ってもよろしいですか」

「‥‥あかり?」


 数度瞬きを繰り返して、ようやく幻神の瞳に光が戻る。じっと木陰に隠れている明里を見据えたかと思えば、次の瞬間には幻神はふわりと衣を翻して明里の目の前に降り立った。


 突然、間合いに入られて明里はぎくりと身体を強張らせる。社での出来事も、川での出来事も鮮明に記憶に残っている。恐ろしさも後ろめたさも未だに喉元まで張り付いたままだった。


「‥‥怯えるなら、来なければよいものを」


 そんな明里を見て、幻神のほうが視線をそらした。


「心配せずとも、術を破られては、俺の幻術はもうお前には効かん。業腹だが」


 思ったよりもはっきりと拗ねた声音だった。感情が見えたことに内心少しだけ安堵する。


「俺の顔を見たくないのだろう? 無理をするな」


 明里が顔をあげる。幻神はもう笑顔を貼り付けてはいなかった。けれど、無表情なその顔は偽物の笑顔よりよほど自然に見える。


「‥‥いえ、それはあなたにとても失礼なことだって分かりましたから」


 明里は深呼吸して、目を合わせた。初めて、ちゃんとその顔を見た。幻神の瞳は戸惑いに揺れていた。後ろめたさも恐ろしさも全部飲み込んで、ぐっと手に持ってきた風呂敷を差し出す。


「あの、ご飯作ってきました。一緒に食べませんか」


 幻神はしばらく窺うように悩んだあと、こくりと頷いた。


 清流のほとりで並んで食べる。久しぶりの二人の食事だった。清治は酒も飲まなかったと大袈裟に驚いていたが、米をいつものように口に運んでくれて明里はほっと息をついていた。無言の食事はいつもと変わらなかったが、二人の間に流れる空気は以前とは違った。どう違うかと言われても明里にもよく分からなかったけれど。


「‥‥あの、清治から聞きました。消えてしまうって本当ですか?」


 先程の霞みそうな背中が気にかかり、早口で聞いた。幻神はため息をついた。


「本当に愚かな」

「え?」

「それは災厄を起こせば免れる。お前、わざわざ自分から来て、俺に殺されるとは思わなかったのか」

「え」 


 明里はぽかんとして、幻神を見つめた。確かに恐ろしくなかったわけではないが。


「それは、なんか全然考えてませんでした」


 ものすごく幻神が微妙な顔をする。笑顔を貼り付けなくなったせいか、表情の機微は今のほうがむしろ分かりやすかった。


「いえ、あの、ばかにしているとか、軽く見ているわけではなくてですね」


 明里は慌てて言った。


 だって、それは矛盾している。

 それならすぐに村ごと明里を潰せばいいだけだ。こんなにぎりぎりになってまで、災厄を先延ばしにしている時点で、どんな理由にせよ災厄を起こしたくないと神様自身が証明をしてしまっている。──だいたい。


「私を殺したいなら、あのまま川で放置していれば死んでいました」


 いくら加護があろうと、それは変わらないだろう。だというのに、幻神は明里を助けてしまった。千冬の演技をするのも忘れて、必死に助けてくれた。あれが偽りとは思えない。


 千冬は明里を労る言葉はたくさんかけてくれていたが、その実はいつも明里を避けていた。言葉より行動がそのヒトの本質だとするなら、この神様の本質はきっとそういうものだ。

 明里はまっすぐに幻神を見た。


「ずっとお礼が言えなくて、ごめんなさい。助けていただいて、ありがとうございました」


 頭を下げる。口に出してようやく腑に落ちる。村のこととか、災厄とか考えなければならないことはたくさんあるけれど、ただお礼を言いたかった。その前に神様ひとりで消えるなんて、嫌だったのだ。


 幻神は返事をしなかった。長い沈黙が流れたあとようやく口を開いた声はなにを言えばいいか分からない様子だった。


「‥‥‥‥社に遺灰は持ち込むなよ。それだけは看過できない。俺というより、神としての根本的な禁忌だ」

「はい‥‥」 


 それでも、遺灰を捨てろとは言わないのか。


「わ、わたしも、」 


 だんだん間に耐えられなくなって、明里は上擦りながら言葉を紡ぐ。お礼も言いたかったが、文句もちゃんと言いたかったのを思い出した。


「離れでのことは許していません。だからおあいこです」


 村長たちと示し合わせて、待ち構えていたこと。 

 幻術で千冬だと思い込まされたこと。

 ‥‥勝手に口づけされたこと。

 言いたいことは山ほどあるが後ろめたさで上手く言えなかった。


 赤くなったり青くなったりする明里を見て、ふ、と幻神はほんの少しだけ表情を緩ませた。


「そうだな。俺もあんなに矜持を粉々にされるのは、もう御免だ」


 矜持? と明里は顔を上げて尋ねる。なんでだろうなあ、と幻神は独り言のように呟いた。


「正直に言えば、あんなに怒ったのは初めてだった。腹を立てるだなんて無駄なことだからな。さっさと災厄でお前ごと潰してしまえばよかったのに。だから今、器を壊されかかっているのかな」


 幻神は手のひらを見ながら、こぼれゆく自身を他人事のように眺めていた。


「お前が俺を無視して、遺灰にばかり縋るから」


 その声は棚機の夜のように怒気を孕んだものではなかった。けれどあの晩よりも、はるかに静かで痛ましいものだった。


「俺は数百年、幾度も贄の望む形代をとってきた。乞われなければ──恋われなければ、俺に存在価値はない。お前のような小娘に“俺”を否定され続けるのは耐え難かった」


 明里はなんだか苦しくなる。神様の事情に明里は巻き込まれたのではなく、明里の事情に神様を巻き込んでしまったのだ。それがはっきりして、何も言えなくなる。


 でも、ただひとつだけ、どうしても腑に落ちないことがある。


「‥‥悪いのは気持ちの整理をつけていなかった私です。あなたは悪くありません。でも、あなたを千冬として見ることは、あなたにも失礼だと思うんです」


 幻神は目を見開いた。何を言われているか分からないという顔をしていた。明里は幻神が数百年かけても誰にも言われたことのなかった、分かりきった事実をあっさりと口にした。


「だって、あなたは最初から、千冬と全然似ていませんでしたよ」

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