第8話 呼び水

「贄になれば水の恩恵を。ならなければ水の災厄を」


 そんなことを言われて、すっかり食欲を亡くした明里はうまく米粒を飲み込めなかった。“千冬”は何も言わない。さっさと行けばいいのに、と喉まで出かかった文句も一緒に飲み込む。いつも倍時間をかけてようやく飲み下すと、すくっと“千冬”は立ち上がった。


「うん。よく食べたな」


 まるで子供が苦手な食べ物を完食したように、にっこりと微笑まれた。なにがそんなに嬉しいのか。ちっとも楽しい食事ではないというのに。


「では俺は社に行く。また、夕餉に会おう」


 懲りもせず、“千冬”は次の約束をする。今のところ、反故ほごにされたことは一度もない。だいたい明里には拒否する余地すらない。だから、ご丁寧にわざわざ言葉にしなくてもいいのに、“千冬”は毎回確認した。まるで、それ自体がなにかの儀式のように繰り返した。返事をせず視線を落としていると、最後に頭上から声が落ちてきた。


「直に嵐が来る。気をつけろよ」


 え、と顔を見上げると、もうそこに神様の姿はなかった。びゅう、と一際強い風が明里の身体を吹き抜けて行った。



 明里はとぼとぼ帰路につく。村人には腫れ物扱いされるは、幻神には連れ回るはひどい目にあった。気分が落ち込んでいる上に、真夏の暑さが堪える。日はとうに上がり、じりじりと肌を焼く。引きこもりがちだった身には、強すぎる日差しに目が眩んだ。


 額の汗を拭うと前方から、村の子どもたちの笑い声が聞こえてきた。明里の横を楽しそうに走り抜けていく。茹だるような暑さも、子どもたちには関係ないらしい。明里を見るなり、ひそひそと遠巻きに口を潜める大人たちとは違い、子どもたちは神様の生贄の存在より、かけっこ遊びのほうがよほど価値があるもののようだ。


 けれど、そんな純真無垢な子どもたちも、明里が生贄を拒否したら村とともに沈むのだ。洪水に流された無惨な千冬の遺体が脳内に走った。考えないようにしていたのに、吐き気を催す。好きでも嫌いでもない故郷の村だったが、村人全員の命を重さは明里に背負い切れるものではなかった。


「う、‥‥」


 無理に食べた朝餉を戻しかけて、慌てて明里は胸元を抑える。暑いのに寒気がする。胃の中の食べ物も、いろんな感情も、できることならその場で全部吐き出したかった。うずくまる明里に手を貸す者はいない。気がついている村人もいるはずだが、迂闊に声がかけられないのだろう。そんな村人の打算なぞ気にする余裕もなくて、えづく口元を手で抑える。


 村が潰れるのは嫌だ。人が死ぬところなんて見たくない。けれどそれならば、明里の心はどこに行けばいいのか。最近は千冬の死を悼むことすら間違っているような気にさせられる。千冬の幻が、彼の居場所を奪ったせいだ。村人たちも本来の彼の面影を忘れていく。死ぬ以上の侮辱を受ける千冬が悲しくて悲しくて、明里は胸が傷んだ。明里ですら幻神を受け入れてしまったら、彼は本当に死んでしまう。


(千冬‥‥) 


 とさり。屈んた拍子に、懐に隠していた麻袋が目の前に落ちた。


「‥‥あ‥‥」


 まるで、救いの手に縋るように、明里は握りしめる。感触はあまりに空虚。中身はただの灰。重みはなく、形もない。けれど、不思議と気持ちは落ち着いた。呼吸の仕方を思い出し、動悸が正常に戻っていく。吐き気が治まるまでずっと明里は麻袋を握っていた。


(そうだ。どうして忘れていたんだろう)


 住職に無理を行ってもらってきた、荼毘に付した千冬の亡骸の一部。千冬の遺灰。後生大事に首からは下げていたのに。いつの間にか紐が切れていたようだ。失くさなくて本当に良かった。明里は紐を結び直して、再び首から下げた。安心する。いくら幻が現れようと本物の千冬がいた証はちゃんとここにある。


 なんとか気を取り戻した明里は引きずるように立ち上がった。



「明里、戻りましたか」


 家にたどり着く頃には真昼になっていた。ようやっと帰宅すると巫女が戸口で出迎えた。荷車に運ばれてきた水桶の数を見るに、幻神の命令は巫女まで伝わっていたらしい。どうでもよくて明里は家に入った。


「‥‥顔色が優れませんね。今水を」

「いい。いらないです。少し、休ませてもらえば」


 寝転びかけて、ふと明里は巫女見た。村唯一の巫女。文句も言わず明里の額の汗を拭っている。その献身の理由の意味も今なら分かる。


「巫女さまは、私が贄にならないと村がどうなるか知っているんですよね」


 ぴたり、と巫女の手が止まる。神職に就く者が知らないはずはない。だからこそ、この巫女は明里の世話役になったのだろう。だからこそ、明里は村人から供物を捧げられる存在であるのだろう。


「明里、やはり水を飲まないと。身体が参ってしまいます」


 巫女は運んできたばかりの水桶から水を汲んだ柄杓を渡す。嫌な顔をした明里に、観念したようにため息をついた。


「‥‥私と宮司はもちろん。あと村長や長老も知っています。わらべ歌になるほど十二柱の贄の儀式は続いているのですから」


 ならば、村の年役たちの焦りは相当であろう。それにも関わらず、明里がある程度自由にさせられているのはなんのためか。


「幻神さまが諌めているの?」

「それもあります。でも本当は、」


 巫女は言葉を濁した。歯切れ悪く、明里から視線をそらした。


「‥‥無理強いして明里が、千冬の後を追うことを怖れているからです。明里が身投げすれば、恩恵を得るどころではありません。村は破滅します」


 明里は乾いた笑みが上がった。なるほど、明里のことをよく分かっている。


「幻神さまが、明里の元に通っているなら村長や長老さまは問題ないと思っているでしょう。ですが、それも時間の問題です。明里、幻神さまとまだ何もないのですよね?」


 明里は黙って苦笑した。神様は明里が贄になろうが、村が潰れようがどちらでもいいと仰せだ。そう伝えたらどんな顔をするやら。


「明里の気持ちが落ち着くまで待つと年役たちと話していましたが、そろそろ限界です」


 巫女はぴしりと姿勢を正した。今まで耳を閉じ、見ないふりをしてきた懇願を直接聞くはめになった。


「酷なこととは分かっております。村のためにどうか、受け入れてください。明里の気が済むなら、私を煮るなり焼くなりして頂いてかまいません」


 ああ、人身御供だ。なにが玉の輿なものか。神様の伴侶は確かに生贄にちがいない。床につくほど頭を下げた巫女を見て、自身がもう人の立場ですらないのがようやく分かった。


「‥‥もういいです。巫女さま。だいたい予想はついていましたし、言いにくいことを教えてくれてありがとう」


 明里になにかあればおそらく災厄の前に巫女の首が飛ぶ。巫女もまた、苦しい立場を押し付けられた存在だ。逆に冷えた頭が余計なところまで気がついてしまって、明里は苦笑した。人のことを気にする余裕があるはずもないのに。


「巫女さま、私はどうしたらいいのですか」

「明里‥‥」


 巫女は年端も行かぬ娘を痛ましそうに見つめた。なにか言いかけて、努めて事務的に告げた。


「‥‥明後日、棚機たなばたの祭事があります。村長はその日に明里を輿入れさせるつもりです」


 ああなるほど、だから巫女も神主も今年は忙しなく準備に追われているわけか。少し考えればあっさりと分かる裏側。公ではないにしろ当然村人の中にも勘づく者がいて当たり前だ。わざわざ水汲みに出向く明里の姿はさぞかし滑稽に見えたに違いない。腫れ物扱いではなく、腫れ物そのものなのだから。


──明里は、外に出ないから様子が分からないのか?


 いつか聞いた神様の言葉はその通りだったというわけだ。


「今日は、棚機で神様に祈る棚機津女たなつめの役を受けて頂きたくお願いに参りました」


 毎年、秋の豊穣を祈願する祭事。水辺の主屋で村の娘が一人選ばれて神に祈る儀式。大抵は巫女や長者の娘が形式的に承るので、あまり気にしてはいなかったが。


「棚機津女って、神さまに奉納する衣を織るのでしょう? あと数日じゃ間に合いませんよ」

「お気になさらず、すべてこちらで準備は整えてあります」


──ああそう。そういうこと。泣き伏し言うことを聞かない小娘の了承なぞ取る必要もない。まったく、用意のいいことだ。全部決まっているとは。本当に、明里はただの子供で何も分かっていなかった。なにもかも諦めた心地になっていよいよ身体を寝所に投げ出した。


「明里、本当に申し訳ありません」


 怒る気力も嘆く気力もなく、もうなにも聞きたくなかった。なにも考えなくてもすべて決まっているなら、何もかも無駄なことだ。明里は無意識に懐の麻袋を握りしめる。もうすべてから耳を塞いでしまおう。そのほうが楽だ。そう思ったとき、それまで畏まってばかりの巫女が、おずおずと尋ねた。


「‥‥ところで、明里。幻神さまとは、まだ一緒に食事は続けているのですか」

「? そうですけど。勝手にいらっしゃるので」

「そう、ですか‥‥」


 なにか言いたげな巫女はけれどもまた言葉を飲み込んでしまった。まるで自分にできることはもうないと言うように。


「‥‥せめて、あと二日、棚機まではその麻袋を外さないほうがいいわ」


 いつの間に千冬の遺灰を隠し持っていることを知られていたのか。明里は目を見開いたが、世話役をしていた彼女なら気がついていても不思議ではない。


 ただ、巫女のいつもの形式的な口調ではなく、同じ年頃の娘が哀れむような忠告だけが耳に残った。

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