第7話 瑞穂

 幻神げんしんは毎日同じ時間、同じ道のりで明里の家に通った。村人たちはとっくに明里が幻神のお手つきになったと思ったようだが、その実はなにもなかった。


 ただ、食事を共にするだけ。会話はろくすっぽなく、明里に作らせた村からの捧げ物をぺろりと平らげて、さっさと社に帰っていく。世話役の巫女も今は村の祭事で忙しい。そうなれば当然、明里と幻神の二人きりになるのだが、身構えるのも馬鹿らしくなるほど幻神にはその気はないように思えた。食事を作るのは面倒だったが、それさえこなしてしまえば、万事うまく行っていると思い込んだ村長は余計な口出しをしてこない。それに気づいてからは、明里は粛々と幻神の食事を作り続けた。





(‥‥しまった。水がない)


 今朝も、日の出とともに現れる“千冬”のためにしぶしぶ起き出して、朝餉の支度をしようと台所に立った。


 水瓶が空になっているのを見て、明里はため息ついた。二人分の食事は骨が折れる。調理するにも水がいる。


(かといって、あのヒトに頼むのも冗談じゃないし) 


 村の中を自由に歩き回っているらしい神様なら、井戸水を汲んできてもらうくらいわけないだろう。が、頭を下げて頼むくらいなら、自分で行ってきたほうがマシだ。明里は悩むのをやめて、水桶を持つ。早朝の農作業中の村人には見つかるだろうが、致し方ない。明里の都合も、気持ちも考えず、神様はやってきてしまうのだから。


(涼しい‥‥)


 日中は茹だるくらい蒸し暑いけれど、早朝の空気は涼やかだった。夏の朝は早い。山の端はすでに明るい。木々は青々しく、朝露に濡れた夏草がきらきらと輝いている。引きこもったときは梅雨真っ盛りであったが、季節はとうに盛夏を迎えていた。


(なんだか寝ていたら、季節が変わっていたみたい)


 久々の瑞々しい空気を吸い込んで、少し足取りが軽くなる。朝鳥の鳴き声、肌を撫でる風。新鮮な酸素が気持ちがいい。


 しかし、浮ついた気持ちも村共有の井戸までたどり着いたら、瞬く間に霧散してしまった。早朝といえど、生活用水を使用する井戸の前には何人かの村の女たちがいた。井戸端会議をしていた村娘たちが、明里を見た途端、ぎょっと距離を取る。無論、明里が幻神の贄に選ばれたのは村中に知れ渡っている。前は会えば挨拶くらいは交わす仲だった。それが今はまるで腫れ物のような扱い。分かっていたこととはいえ、げんなりと明里は肩を下げた。何人か水を汲んでいたが、当然のように譲られた。その特別扱いが悲しい。さっさと済ませて帰ろう。気を持ち直して、釣瓶に力を込める。


──なんだ、元気そうね。

──贄になるって言っても玉の輿みたいなものだしね。

──いいご身分だと思ったけど、水汲みくらいは自分でするんだ。


 ああ、いやだな。やっぱり村の中をうろつくんじゃなかった。都のお姫様でも、村一番の長者の娘でもなく、なんの取り柄もないただの小娘が贄に選ばれたことに対する、羨望、僻み、同情に見せかけた蔑み。狭い村の中で突然生まれた異物に対する反応は予想通りだった。理解はできても、気持ちがいいものじゃない。早く立ち去りたいのに、鈍っていた身体は重い。苦労して釣瓶を引き上げて水を汲む明里を見てくすくすと笑い声があがる。


──ある意味よかったんじゃない? 大好きな“千冬”が戻ってきたんだから。


 ばしゃん、と娘たちの足元に泥が跳ねた。何が起きたか分からず、女たちは唖然と明里に視線を向けた。手に持っていたはずの桶がない。投げつけられたのだと気がついて、娘たちがぎくりと強張る。


「な、なに」


 無言のまま水で跳ねた泥も気にせずに、近寄ってくる。まさか反抗されるとは露ほど思っていなかった娘たちは動けない。明里は村娘の中でも臆病で人見知りする質だった。だから、公然と下に見ることができた。──だから、明里の中の千冬に対する激情を知る者も少なかった。


「──私のことは、いいけど」


 何を言われても今の状況は村におんぶにだっこのお荷物だ。だから自分が蔑まれるのはかまわない。けれど。彼を揶揄するのだけは。彼の死の笑う者だけは誰であろうと。


「千冬を馬鹿にしたら、許さない」


 なんの躊躇もなく、明里は手を振りかぶった。引っぱたかれることを察した村娘は思わず身をすくめる。けれど、明里の平手は娘の頬を叩くことはなく、その場は静まり返ったままだった。


「なんだ、明里。水をぶちまけたのか」


 場違いな呑気な声の主が明里の腕を捕まえていたからだ。ひょいと急に現れた千冬の幻が不思議そうに見下ろしていた。唐突な登場に、明里だけでなく、その場の女たち皆、小さく悲鳴をあげた。


「ちふ──幻神さま!」


 大袈裟に畏まる周囲の中、腕を捕らえられた明里だけが、キッと“千冬”を睨んだ。


「離してください」

「そう言うな。せっかく寝蔵から出てきたんだ。付き合え」


 抗議の声を上げる間もなく、ひょいっと明里は肩に担がれて、呆気にとられる。


「ちょ、ちょっと! な、なにを」


 慌てる明里の声に耳を貸さず、その場の女衆に向かって、“千冬”は取りなすように声をかけた。


「悪いが、汲み水を明里の家まで届けてくれぬか。この通り非力な小娘だ。届けた者にはあとで村長に言って礼をさせるから」


 勝手なことを、と顔を赤らめて怒る。そうだ。村人に陰口を叩かれるのも、予定にない量の水を汲む羽目になったのもこのヒトのせいだった。


「これでも俺の大事な贄だ。あまりいじめてくれるなよ」


 にっこりと“千冬”が微笑むと、村娘たちはぽっと頬を染めて顔を見合わせた。その反応で明里はようやく理解する。確かに千冬は面倒見がよく、村人から慕われてはいた。だが、こんな軽薄な笑顔を見せたことはなかった。つまり、蔑みや侮蔑ではなく、嫉妬されていたわけだ。


(──やっぱり、このヒトのせいじゃない)


 “千冬”は明里を担いだまま、用は済んだとばかりにさっさとその場を後にした。


「お、降ろしてください! 歩けます!」

「お前、おとなしく見えて気性が荒いよな。やっぱり人を引っ叩くのが好きなのか?」


 かあ、と明里が赤くなる。どこから見ていたのやら、羞恥と怒りで煮えそうだった。けらけらと“千冬”はおかしそうに笑う。贄を担いだ神様がすたすたと闊歩しているのを見て、起き出してきた村人が唖然と眺めている。明里は顔から火が出るかと思った。


「その気性の荒さがあれば、村人の目なんぞ気にならんだろう。この俺を殴るくらいだ。村娘など、敵にもならんな」


 上機嫌な神様はどんなに暴れようともちっとも離してくれない。明里は抵抗する気をなくした。だいたいこの神様に敵ったことなど一度もない。


「‥‥誰のせいだと。幻滅したのなら、贄にしないでください」

「いや実に俺好みだ。偶然にしてはよい贄を選んだ」


 ぎょっとして、明里は思わず“千冬”を見る。前を向く横顔は千冬そのままだが、笑みが張り付いた瞳には感情の色は読めない。どう反応していいか分からず硬直していると、ふと腕から開放された。ふわりと地に足がつく。


「ほら、ついた」 


 そこは村が一望できる社の高台。棚田が幾重にも村の下方に続き、さあ、と瑞々しい稲穂が風に揺れている。村の水田が見渡せる場所だった。


 明里は思わず息を呑む。田植えの時期はとうに済み、稲穂はすでに種籾を含んでいた。あまり稲作に従事していない明里の目から見ても分かる。今年は豊作の年だ。風に揺れる稲穂はまるで白波のようで確かに美しい光景だった。


「よい雨が降ったからな。今年は豊かな年になる」


 棚田を見下ろしていた“千冬”は目を細めた。


「水はすべての土壌となる。稲穂を育て、土を潤す。普段は凪いでいるが、嵐や海風が吹くときは激流を見せる。──お前そっくりだ」


 それは褒めているのか。嵐の激流に例えられて好みだと言われて、喜ぶ娘がいるだろうか。眉をひそめる明里に、“千冬”は嬉しそうに微笑んだ。


「そういえば、今朝は朝餉がまだだろう。清治から握り飯を持たされた。一緒に食べよう」


 誰がそんなこと、と思ったが、清治からもらったと言う握り飯はきっちり明里の分まで用意してあった。ならば、おそらく、清治は自分の朝食を抜いたのだろう。生前から千冬と仲がよく、今は村を取りまとめている清治のことは明里もよく知っている。明里を揶揄する村人もいれば、気を遣ってくれる人も確かにいるのだ。その気持ちを無下にはしたくなかった。


 しぶしぶ、明里はクスノキの下に腰を下ろす。当然のように横に座る“千冬”は遠慮なく、握り飯に食いついた。味わってないように見えてこの神様は、食べることが好きだ。それくらいは分かる。

 何故か一緒に食事を取りたがるのかまでは謎だったが。

 ぱくぱくと大口で食べる様はまるで蛇を思わせた。毎回作った分だけ綺麗に平らげる神様の胃袋は底なしのようだった。


 久々の外出の気安さのせいか、恥ずかしいところを見られたせいか、居た堪れなくなって、明里はつい、今まで頑なに閉じていた口を開いてしまった。


「‥‥贄って、本当に伴侶なんですか? うまいこといって、そうやって私を食べる気じゃないですよね?」


 “千冬”は、怪訝そうな顔をした。いつもの得体の知れない笑顔ではない珍しい表情だった。


「お前、人肉を食べたいと思うのか? さすがの俺も引くぞ」

「違いますよ!」 


 思わず声を荒げる。


「じゃあなんで贄がいるんですか。捧げ物なら神饌しんせんでもいいじゃないですか。婚姻だって神様同士ですれば面倒もないし。わざわざ人間の贄を捧げる必要が分かりません!」


 むかむかして、ずっと思っていた疑問をなげかけた。儀式に対する疑問など直接進言するのは不敬だと教えられていたが、こちらは勝手に贄にされた身だ。少しくらいの疑問には答えて欲しい。


「なんだそんなこと」


 “千冬”はあっけらかんと言った。


「神饌は食事、贄は信仰そのものだからだよ」


 ぱくりと最後の握り飯を平らげて、“千冬”は社を見上げた。水神を祀る大きな鳥居。水害の届かない、地盤の硬い高台にある。村の中で最も盤石な場所。人々に信仰され、大切にされている社は大抵、そういう場所にある。


「俺たち神は人々に覚えていてもらわねば、廃れてしまう。ある意味死だな。実際にそうして消えた神もいる。だから、周期的に人間を娶るのも、そうやって人々と繋がるためだ」

「‥‥もし、贄を娶れなかったらどうするんです?」


 贄を捧げた恩恵があるなら、贄を得られなかった代償はあるはずだ。明里が幻神を拒否し続けた先の答え。聞きたくなかったが、聞かずにおれなかった。


「村が潰れるだけだ」


 明里は息を呑む。予想はしていた。でもやっぱり聞くんじゃなかった。脅すわけでも威圧的に言うのではなく、ただ平然というからなおさら寒気がした。


「‥‥なんでそんな」

「正直、どちらでもいいんだ」


 “千冬”はまた村を見渡した。村を潰すと言った口で、懸命に稲作に励む村人の姿をどう思ってみているのか。


「贄を渡せば恩恵を得られる。強い感謝の念が生まれて、信仰は続く。そして、渡さないなら災厄が起きる。恐怖からは畏怖の念が生まれる。恩恵も災厄もどちらも同じ神の在り方だ。どちらにしても強く人々の心に刻まれればそれでいいんだ」

「‥‥それじゃまるきり祟り神です」


 明里は食欲をなくしてしまった。だから、なのか。だから、こんな悠長に下界に留まっているのか。だから、明里を無理やり伴侶にしないのか。苦々しくなって己の立場を思い知った。


「‥‥幻神さまは、私が贄とか伴侶とか結局はどうでもいいんですね」

「んん? 俺は村を潰したことなんてないぞ。今まで贄の儀式が滞りなかったおかげだが‥‥俺は死の不浄が大嫌いだからな」


 心底嫌そうに眉をひそめている。張り付いた笑顔を作るのも忘れるほど、嫌悪を露わにしていた。それがなんだか意外に見えた。


「川も土も浄化するのにどれほどの歳月がかかるか。村一つ分の不浄など、目にするのも穢らわしい。やるとしたら蝕神しょくがみか、戦神いくさがみあたりか。戦神は性質上、戦果を上げねばならんし、蝕神の贄の村は‥‥まあ滅ぼしたほうがよい村が多いからなあ」


 そのときの神様は妙に饒舌で、印象に残った。


「俺はこの美しい稲穂がだめになるのは好かない。村人の無益な死もだ。それは明里、お前も同じだろう?」

「それは、確かにそうですが‥‥」


 暗に伴侶になれ、と仄めかされた言葉に明里は視線をそらした。だからと言って、はいそうですかと頷けるわけもなく。それに未だに明里は千冬の姿を奪われたことは許していない。例えこの神様に悪意がなかったとしても。幻が千冬の姿を象るかぎり、千冬のことを忘れられはしない。どんなに結果が見えていても、どんなに明里が受け入れたほうが都合が良くても。気持ちがついていかない。


 無言に戻ってしまった明里を見て、“千冬”は困ったように笑った。


「どうしたら、お前は俺を受け入れられるんだ」

(そんなの、私が聞きたい)


 ただ、嫌味な村人も優しい村人も死んだら等しく哀しく。

 風に揺れる美しい稲穂が無惨に潰れるのは胸が痛い。


 なにもかも噛み合わないけれど、その一点だけは、初めて神様と同意できた。

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