第32話「恐怖」
怖ぇな。
うん、怖ぇ。
あえてガサガサと音を鳴らしつつ、山道を歩く。
匂いの強い所をたどるよう進んでいくと、日本一の樹海に首を括りに行くかのような絶望感を感じてしまう。
坊っちゃんは、この感覚をあの歳で、自分から引き受けた訳だ。
全くもって、馬鹿としか言いようがない。こんな事を進んでやるなんて、人間として……否、生物としてどこかが欠落しているに決まってる。
現に、俺は今すぐにでもアイツらを捨てて逃げたい気持ちでいっぱいだ。
「……グルルル……」
唸り声が、だんだんと明確に聞こえるようになってきた。
もう、ここは奴のテリトリーだ。
見つかったが最後、体力の限界まで
……今なら、まだ引き返せるんだよなぁ。
坊っちゃんとスケを見捨てて、残念だったと報告して……屋敷は無理でも、群れに戻って余生を生きる。
いや、今なら、ナディアの所に厄介になるという選択肢だってある。
……そう、俺は選べる立場なんだ。
「……フスッ」
「……グルぅ……」
お相手を視認する。
なるほど、くま子よりも数段でけぇ。大人の
野生故のゴワついた、針金みたいな体毛。
うっすら纏った脂肪の鎧に、全身これ筋肉。相対しただけでしょんべん漏れそうな威圧感は、苛立ちと空腹によりもはや殺気の域にまで達している。
うん、無理だ。
これはどうこう出来る相手じゃない。
何度も言ってるが、俺は人間が何割か入ってるだけの
異世界転生チートなんざ持ち合わせてないし、心強い鑑定スキルも無ければ正義のヒーローが持ち合わせる熱血魂も搭載していない。
こんな奴を相手にするような選択肢は最初から存在しないのだ。
今からでも坊っちゃん達に合流するか、囮にするかして、コソコソ逃げ出した方が良いに決まってる。
決まってるのだ。
「フシャァァァァアア!!」
だから、こうして赤毛熊に威嚇している俺もまた、どっかぶっ壊れてるんだろう。
仕方ないわな。命がいらないって訳じゃないのに、こんな馬鹿やらかすんだ。救いようがねぇ。
けど、ここでこうしないといけなかったんだ。自分でも納得できないが、そうなのだ。
なるほど、自殺志願者ってこういう精神状態なんだな。
「グルォォォォォォォ!!」
「フシッ! フシャアア!!」
やっこさんがこっちに狙いを定めたことを確認して、俺は坊っちゃん達とは真逆の方向に走り出す。
坊っちゃんはスケに起こされた後、赤毛熊がいないことを確認して逃げてくれる事だろう。
スケと意思疎通ができない坊っちゃんには、俺がここにいるなんてわからないはず。つまり、坊っちゃんが俺を助けに来て二次災害が発生……なんて事は起こらない。
だから、後は俺がこいつを引きつけてれば良いわけだ。
『おらっ、こっちこいよ化物!』
「ゴァァァアア!!」
一応奴も魔物だ。くま子みたいに意志の疎通もできるはずだが、こっちから言葉をかけても吠えるばかりでしかない。
こりゃあ、完全に餌としかみてませんわ。
「フスッ! フッ、フッ、フッ」
赤毛熊が通りにくいルートを選び、小刻みに逃げる。
時間を潰してやればいい。それで諦めれば万々歳。そうじゃなくても、どこかで隠れてやり過ごせればいいんだ。
「フスッ」
少しでも視線からはずれよう。そう思っての行動だった。
「グルァ!!」
だがその瞬間……ボン! という音と共に、頭上スレスレの草木が吹き飛び、そこは拓けた空間になった。
「フス?」
ただ、突っ込んできただけだった。
アイツがただ突っ込んだだけで、この有様だ。
あと少しで頭がひき肉になるところだった。
「…………」
あ~……ダメだこれ。
うん、ダメだ。認識してしまった。
「グルルル……グオォゴァァアア!!」
『ひっ、ひぃぃぃいい!?』
怖い! めっちゃ怖い!
死ぬの怖い!
やんなきゃ良かった、カッコつけなきゃ良かった!
やっぱ俺の精神はマトモだったよ! 誰か助けて!
「フシャア! フシッ!」
坊っちゃん達から引き離す~なんてお題目は吹き飛んでしまった。
もはや自分がどこにいるかなんて理解しないまま、俺はめちゃくちゃに逃げ惑う。
もう一度藪の中。
薙ぎ払われた。
倒木の裏。
踏み砕かれた。
木の上。
揺り落とされた。
「ヒィィ! フヒッ、ヒィィっ!」
痛い。
痛い。
体に生傷が出来ていく。
無様に転び、枝で切り、坂を落ちて石にぶつかり、息も絶え絶えに走るにつれて絶望が増えていく。
あのサバイバルナイフみたいな爪でチョンパされた日にゃあ苦しまずに一瞬なんだろうが、生憎と授業料が命と来たんならおいそれと支払う訳にはいかない。
「グゥルァ!!」
「ヒッ……」
そんな一方的な追いかけっこが、長く続くわけもなく。
俺の半身……尻の辺りに、何かが引っかかった。
その瞬間、視界が大きくブレる。
体が軋む音。一瞬後に、浮遊感。
視界の端に、見たくもない赤色が舞っていた。
「ブベッ……!?」
どこかは知らんが、坂の上に体が落ちたのだろう。
木に全身を打ち付けながら、落ちていく。
こういう時、訳のわからなさが先立って、痛みが付いてこないんだな……。
と、思っていた直後。
「ガッ、ァ……フ、ッ、ッ!? フシャアア!? シャアアアアアア!?」
痛い。痛い。痛い。
どこがとかじゃねぇ。気が狂いそうに全身が痛い!
さっきのはなにか? 爪が引っかかってぶっ飛ばされたんだよな!?
クソッタレが! ひと思いにやれってんだよぉ!!
「ガァァアア!! グルウウゥ……!」
「ヒッ、ヒィ、フヒィィ……!」
思い切り転げ落ちたお蔭で、少しの間だが、アイツは俺を見失っているらしい。
激痛に軋む体をなんとか動かし、俺はまたヤブの中に身を潜める。
馬鹿のいっちょ覚えだが、今の体で隠れられそうな場所はもうここしかなかった。
(嫌だ、あぁクソ、痛ぇ、クソッタレ、血、血、血ぃ止めねぇと死ぬ。馬鹿か馬鹿、ほらみろ死ぬじゃねぇか。馬鹿が死ねっ、あぁクッソ嫌だ! 死にたくねぇ、死にたくねぇ死にたくねぇ死にたくねぇ……!)
ガチガチと体が震える。
その振動で全身が痛い。
痛みに声が漏れそうになり、歯を食いしばる。
それがまた痛くて痛くて。逆に笑えてくるってことはこれ狂ったな俺。
「……グルル……」
あ。
近い。死んだ。
「ガァァァ!」
音は無かった。痛かった。
俺がいた藪は薙ぎ払われ、何回目かの遊覧飛行が強行される。
めっちゃ痛いのに、意識がはっきりしてる。藪がクッションになったなチクショウめ。
せめてもの気絶すら却下ですか……。
「っ、フ……」
体が地面に落ち、四肢が投げ出される。
その感覚はあるんだが、指一本動かせん。
痛いのに悲鳴すら上げられんって相当地獄だな。そのくせ頭は変に冷静だし、もう散々だ。
「フ……フ……」
「グルルルル……!」
もういいじゃん。充分じゃん。
いっぱい俺で遊んだじゃん。もう終わりにしてくれてもいいじゃん。
逃してくれませんかね? ダメですか。そうですか。
あぁチクショウ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
なんでもいいから、誰でもいいから助けてくれ。
この哀れな雑魚兎を助けてくれ。
それとも何か? これは天罰か?
ただの角兎が、何もせずにお貴族様に囲われて、良い目見て甘い汁吸ってぐうたらして。
日がな1日寝て過ごして、仕事してる人間様に申し訳なさしかない生活してたから、天罰下ったってか?
「グルァァァ……!」
俺の眼の前で、赤毛熊が立ち上がる。
腕を持ち上げ、狙いを定めている。
そのゆっくりとした動作は、まるで俺の考えに対して「その通りだ」とでも言っているかのようだ。
「…………」
なんだよ。なんだよ。神様よ。
良いじゃねぇかよ。前世で頑張ったんだからさ……少しくらい報われてもさ。
そんなに悪いことだったのかよ。
良いじゃねぇかよ。
なぁ、オイ。
……雑魚兎が、貴族に飼われててもいいじゃねぇか!?
「ガァァァアアアア!!」
赤毛熊の腕が、振り下ろされる。
俺の煩悩まみれの脳みそを、
神様なんていなかった訳だ。いや、いたとしても、その神様は俺の事が相当嫌いらしい。
正直、漏らした。
あぁ……恥ずかしいやら痛いやら。疲れたわ。
もういいわ……おやすみ。
◆ ◆ ◆
…………………………。
………………。
……。
おや?
ずっと全身痛いんですが!?
いや、こういう時って、終わったら痛みがなくなって解放されるもんなんじゃないのか!? 少なくとも、前死んだ時に痛みの記憶はないぞ!
俺って死後も報われないの!?
……ていうか、おんやぁ?
なんで死んだのに思考してるの?
ていうかこれ、死んでるの?
「…………?」
試しに、目を開けてみる。
すっげぇぼやけてるけど……見える。
えぇ……生きてんのかよ俺……。
「グギャアアアアアア!!」
響き渡る怒号。
俺の側まで飛び散る、赤。
鉄クセェ……なんで血? 俺のじゃない。なに、どうなってんだよ。
少しずつ視界が鮮明になってくる。
俺の目の前にいるのは……赤毛熊じゃない。
「ごめんね、カク。……こんなになるまで、見つけられなくて……本当にゴメン」
……あ~。
カッコ悪ぃ……俺。
「コンステッドと料理長から聞いたよ。僕を助ける為に、囮になったんだって……スケくんが、そう教えてくれたって」
痛みに転げる赤毛熊が見えた。その肉体の、腕から先は……ない。
まるで、何かに切り落とされたかのように、まっさらだ。
「もう少しだけ待っててね。すぐに助けるから……大丈夫だから。カクは、助かるから」
熊の手生産者の下手人は、足を庇うような動きで俺の前に立ち塞がる。
手には長剣を持ち、なじませる様に2~3度振った後……チャキリと、それを構えた。
その脇には、主人を庇う従者のように、
「帰って、皆に謝って、お父様からげんこつ貰って……君に指さされて笑われる。そうじゃなきゃだめなんだ」
だって、と、一拍を置く。
その人物……テルムレイン・フォン・アッセンバッハその人は、赤毛熊が復帰する時間一杯を、俺への言葉かけに費やして、言ってくれた。
一度はアンタを見捨てようと考えた、この薄汚ぇ兎に、言ってくれたんだ。
「だって……君は、僕の家族なんだから!!」
アンタは、間違いなく、俺のヒーローだ。
◆ ◆ ◆
赤毛熊が吠える。
腕の激痛に、憤怒を燃え上がらせて、立ち上がる。
先程まで自分が追っていた兎は、視線の先でボロ雑巾のように転がっている。意識が混濁としているのか、動けないでいる様子。
いたぶり、何度も見逃しながら弱らせ、無様を笑いつつ追い詰めた獲物だった。
腹いせに噛み砕いてやろうとも思うが、今は出来ない相談だ。
「さぁ、赤毛熊。リベンジだよ」
角兎と赤毛熊の間に立っているのは、1人の少年。
最初に自分が追っていた獲物だ。あの小ささで小癪な抵抗を見せ、一度逃がしてしまった獲物。
あの時は足を引きずっていたが、今は痛がる様子はない。一体、何をしたのやら。
「ウゥゥゥゥ……!」
「グルルル……」
その少年の両脇には、大きな狼が2頭。
幻狼。変身能力を持つという、相手にすると厄介な存在だ。
だが、それでも赤毛熊は動じない。
自分こそは森の頂点に君臨する種なのだという自負が、彼をどこまでも大胆にさせていた。
「ゴァァァアアア!!」
激しい憎悪を咆哮と共に叩きつけるが、少年たちは怯まない。
その余裕が、余計に赤毛熊の神経を逆なでする。
腹立たしい。
あの小僧は、自分を相手に逃げ回っていた臆病者であったはずだ。
そこに転がっている角兎のように、小さな敗者にすぎなかったはずだ。
であるのに、なぜ逃げないのか。
なぜ自分が傷ついているのか。
そこまで考えた所で、赤毛熊の理性は、ぶり返した怒りに塗り潰された。
「ガァァァァ!!」
切断された前足を庇いながら、突っ込む。
ただ、思い切りぶつかる。それだけで、目の前にいるチビは破裂する。
今までの獲物のように地面に転がったそいつを見下ろして、自分こそが強者なのだと咆哮するつもりでいた。
だが、
「ごぁぅ!?」
ご自慢の体当たりは、不発。
逆に、自分が地面に転がる結果となる。
「はぁあ!」
その瞬間に、一閃。
少年が振るった一撃により、赤毛熊の無事な前足。その肩の腱が、あっけなく切り払われた。
「ギャアアアアアア!?」
前足が使い物にならなくなった。
激痛と混乱により唾液を飛ばす赤毛熊。即座に立ち上がり、めちゃくちゃに手先の無くなった腕を振り回す。
「ガウ!」
「ウゥゥ……!」
そんな無軌道な攻撃も、2匹の幻狼により牽制され、不発となった。
どうやらこの幻狼は、自分たちは攻撃に徹さず、少年の護衛を最優先にしているらしい。
それ故に、鬱陶しくて仕方が無かった。
『にゃっはっは、愚鈍な奴じゃ。化け猫に化かされて転ぶなんざぁ、森の覇者が聞いて呆れるわい』
ふと、頭の中に声が響く。心底馬鹿にしたような猫撫で声だ。
『でもまぁ、うちの旦那様も頑張ったじゃないか。コイツを相手にここまで時間を稼いだんだからねぇ』
今度は別の声。底の知れない、人を喰ったような声色。
「ガァ! グォォ!」
赤毛熊が周囲を見渡すと、そこには妖精と、悪魔がいた。
見た目はネコと兎だが、その本質を今は隠そうともしていない。
少年と狼がいる前方から、その左右を挟むように、そいつらはいる。
明らかな異質。先程までは、気配すら感じなかったというのに……まるで突然現れたかのようだ。
「ギルネコさん、ナディアさんっ」
『遅くなってすまんの。人間たちに森の散策を手配しとったんじゃ』
『けどまぁ……先に見つけちまったけどねぇ。まさか、旦那の気配を辿った結果アンタに会えるとは思わなかったよ。明らかに何かから逃げてたからねぇ』
軽口を叩いていた二匹だが……赤毛熊から視線は離さない。
その小さな体からは、濃厚な殺意が見て取れた。
『まぁ、話は置いておくとして……』
『今は、お礼参りといこうじゃぁないかい』
ゾワっと、背筋に悪寒が走る。
先程赤毛熊が体勢を崩したのは、コイツらが悪戯を仕掛けてきたからだと確信できていた。
だが、何をされたのかまではわからない。それだけで、この2匹を相手にするのは危険だと判断できた。
「グルル……!」
ここにきて、赤毛熊は逃走を選択する。
敗色が濃ければ逃げる。自然においてはもっとも重要な事だ。
しかし、それは許されない。
強い振動と共に、赤毛熊の後ろの木が揺れた。
メキメキと音を立て、退路を塞ぐ邪魔なハードルと化す。
『カクくんをいじめたのはぁ、おじちゃんかぁ~!』
その木の根本にいたのは、自分よりも一回り小さな赤毛熊であった。
ふんすふんすと鼻息荒く正面を睨み、爪をガシガシと重ねて威嚇している。
『許さないぞー! やっつけちゃうんだからね!』
『ひっひひ、さぁ、どこへ逃げる? 赤毛熊』
『こっちに来なよぉ、アタシャか弱い兎だよ?』
囲まれた。
圧倒的優位から一転、危機的状況に落とされた。
どうしてこうなった?
彼はわからない。
その原因が、目の前で転がっている角兎だなんて、気づくはずもない。
「狩りに失敗し、逃げる……そうなった赤毛熊は、復讐心を積もらせる。頭がいいからね……そうして、その復讐心から様々な命をを乱獲するようになる」
少年が、言葉を紡ぐ。
この少年もまた、一度は逃げれたにも関わらず、角兎1匹を助けるために戻った愚か者だ。
そうさせる力が、魅力が……絆が、その角兎にはある。
それこそが、彼が唯一持つ、チートなのである。
「その前に、ここで君を仕留めないといけない。勝手な都合かもしれないけど……僕らも、生きる為なんだ」
少年が、剣を向ける。
赤毛熊がそれに圧され、一歩下がった。
「終わりだよ。赤毛熊」
四面楚歌。
人間、魔物、妖精、悪魔、同族。
あらゆる種から拒絶され、残忍な狩人は恐怖した。
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