第3話(終) 亡き子が帰る

 テレビ画面の向こうで、報道が流れていた。

「駅前からです。昨夜から降り続く雨のために、道路は水没。この雨の影響により、JRは全線運転見合わせている他、高速道路も通行止めになっています。

 発達した雨雲は、午後2時に線状降水帯を発生させ、雨は今夜にかけて今後も西日本・東日本の広い範囲で降り続く可能性があります」

 老婆は、テレビの大雨の特別報道番組を見ていたが、リモコンを手にするとテレビを消した。

 激しい雨音が家屋にいても聞こえる。

 二人の女性は座卓を挟んで向かい合うように座っていた。

 座卓には煎茶と鹿の子餅が置かれている。

 一人は、髪を白くした高齢の女性。

 厚手の木綿の着物を着ていた。

 髪を染めることもなく、年齢による成長と衰えを自然と受け入れていた女性は、飾らない美しさがある。

 もう一人は、20代前半の女性。

 ナチュラルなウエーブをかけた黒髪を一つ結びにし、耳前の後れ毛をしっとりと流し、細面のどこか淋しい顔は朝露に濡れた花のよう。

 レースブラウスにフレアスカートにスリットの入ったロングコートを着た女性。服の色は、ネイビーとブラックの暗色で統一し、昏さがある。

 しかし、神職にあるような神々しさがあった。

 カラスのように。

 黒い羽毛を持つカラスは、その色と姿から死という不吉なイメージがある一方で、スピリチュアル的には縁起物とされ、神様の化身や神の使いとも言われる。神様の中でも特に太陽神の化身とされており、日本においては、天照大神の化身であるという。

 荘厳な滝を見た時に感じる、霊気を伴う涼しさ。

 歴史を感じさせる拝殿にある清々しい空気と厳かな雰囲気。

 夜明け前の静寂に一筋の光が差し、心が浄化される光景。

 声をかけることすらはばかれるような、汚れのない外貌を持った人。

 昏いながらも、神使のように美しい女性だ。

 名前を月夜汀つくよみぎわと言った。

 昭和初期のものと思わしき振り子時計の音が響く。

 時計の長針が文字盤の12を指すと、ウズボン打ちの音が鳴り響く。


 1、2、3、4、5、6、7、8……。


 時計が午後8時を告げていた。

「私、ずっと待っていたのです」

 高齢の女は、汀に独白する。押し込めていた苦しい気持ちを、懺悔をするように。

「機会は、あったんです。何度も。

 でも、私の身勝手で家族を巻き込む訳にはいきませんでした。義両親は、亡くなる時に言っていました。もうあの子が迷ってこないように引き止めるからと」

 高齢の女性は、泣くのを我慢するように鼻をすすって口を押さえる。

「それからも、続いたのですね。日花さん」

 汀は、言わんとすることを察した。

 高齢の女・日花和子は無言で頷き、数秒を経て口を開く。

「……はい。お盆の頃、決まって大雨が降ると、泉太は帰って来たんです」

 和子は訴えかけた。

「4年前に主人も病気でなくなりましたが、あの子は来ました。義両親と主人は、泉太に会えなかったのかも知れません。あの子は、家に帰りたくて家族に会いたくて来ているのに」

 和子は黒くなった窓の外を見た。

 叩きつける雨の音が、大きくなっている。

 和子は、汀をみた。

「お盆の四日間は先祖の魂が、あの世から帰って来るというのは聞いていましたが、あの子が家に来る時は、お盆の決まってこんな大雨です。

 なぜ、雨の日なのでしょう」

 和子の疑問に、汀は答える。

「雨の夜には人魂や幽霊が現れやすいという伝承があります。雨の日は陰陽五行思想では陰の日に。そんな雨の日には、幽霊など霊的なものの力が強まると。雨の日は太陽が雲で隠されるため、太陽神である天照大神の力が弱まり、陰のものの力が大きくなるんです。雨の日は霊魂が彷徨うので、墓参りは行かない方がよいとも。

 江戸時代後期に上田秋成によって著された『雨月物語』は、物語中、怪異が現れる場面の前触れとして、雨や月のある情景が積極的に用いられています。

 雨の日は、異界との距離が近くなる」

 汀は言った。

「そうですか。だから、なんですね」

 女性の答えに、和子は長年の疑問が解け納得したように頷いた。雨の日は、特に夜ともなれば、どこか別世界に異界にでも居るような感覚さえあったことに。

 そんな和子に汀は確認するように言う。

「日花さん。本当によろしいのですか。私なら、この事態を終わらせることができるかも知れません」

 問いかけに和子は、そっと笑んだ。

「良いのですよ。先程も申したように、ずっとこの時を待っていたのです。家族に迷惑をかけることもなく、そうしたかったのです。35年も考え続け出した答えですから。

 このお盆の時期の大雨だけが、めぐり会うことができる唯一の方法でした」

 和子の固い決意に、汀は何も言わなかった。

 降りしきる雨は止むことを知らず、永遠にこの時間が続くと思われていたが、不意に呼び鈴が鳴った。

 家屋の中に静かに染み渡るように。

 和子は、立ち上がった。

 玄関へと走り出す。

 廊下へと出ると、その先に玄関があった。

 中から外を確認できる格子戸は変わらないが、玄関の扉は木製から頑丈な金属製に変わっていた。ガラスも防犯ガラスにし、鍵は昭和に見られたネジ締り錠ではく、シリンダー錠にし、内側からの施錠は計四箇所もある特注のものになっていた。

 あの日以来、義父は外からの侵入をされないよう、老後の貯金を引き出し、玄関に及ばず勝手口、縁側の雨戸、二階の窓に至るまでを取り替えるに至っていた。

 玄関先の照明によって、ガラス越しに小さな人影が見えた。

 誰かは分かっていた。

「泉太」

 和子は人影に呼びかける。

 すると、人影は応えた。

「……お母さん」

 と、そして続ける。

「ただいま。お母さん。……お家に入れてよ」

 人影の呼びかけに和子は、脚を進める。

 恐怖は無い。

 むしろ、喜びと嬉しさが込み上がって来る。

 この時を、そうしたかったことがようやくできるのだ。

 玄関前まで着くと和子は、屋内側のサムターンを次々と解除し、全ての鍵を解いた。


 カシャン


 最後の鍵が外れる音が響く。

 和子は玄関の取っ手に手をかけると、そっと玄関を開いた。

 防犯ガラスによって遮られていた雨音が大きくなると共に、人影が影ではなく実体となって姿を見せる。

 和子の瞳に、その姿が映る。

 子供がいた。

 それは亡くなった6歳当時のままの姿をした、我が子・泉太であった。

 降りしきる大雨のために、川に浸かったように全身ずぶ濡れになっていた。

「待っていたよ。泉太……」

 和子は、息子に手を伸ばすと泉太は玄関内に入り、和子の足元にすがりついた。

「お母さん。会いたかったよ」

 泉太は顔を和子の腹に顔押し付ける。

 そして、母親を見上げた。怨みのない、ただひたすらに愛情を求める純真な子供だ。

 和子は涙を流しながら、その場に膝を折り息子を抱きしめた。雨に濡れた泉太の身体は氷のように冷たく、和子の体温を急速に奪っていったが、和子は泉太を抱きしめる腕を放さなかった。

 会いたかった。

 愛しかった。

 恋しかった。

 72歳になった和子と、6歳のままの姿でいた泉太との、その姿は祖母と孫程に歳が離れていたが、紛れもない親子の再会であった。

「お母さんも。ずっと、ずっと泉太に会いたかったよ。ごめんね、35年もの間ずっとお家に入れてあげられなくて」

 和子は声を震わせ泉太の顔に頬を押し付け、とめどなく涙を流していた。泉太が死んだ時、枯れるほど涙を流した筈なのに、まだ涙は枯れていなかった。

「お母さん。哀しいの?」

 泉太は、泣き続ける母親を心配する。

「違うよ。嬉しいの。泉太と会えて嬉しいの」

 和子は二度と会えない、話せない、触れられないと思っていた子を離すまいと、抱擁を続けていた。

 そんな二人の傍らに、汀が立っていた。

「月夜さん。お願いします」

 和子は息子を抱きしめたまま、声を震わせて願った。

 汀は沈黙を以って答えると、右手の指を全て伸ばし、人差し指の一節だけを直角に折った。


 【苦手の印】

 この人差し指の一節だけを折ることは難しく、素人が行えば中指まで曲がってしまう。しかし、印契が正しく作れなければ呪術としての効果はないと言われている。

 汀は苦手の印を泉太に向けると、秘言を唱える。

「此の手は我が手にあらず 常世に居坐す久斯の神少彦名命の苦手なり 苦手を以て咒へば如何なる災も消へずといふことなし……」

 これは医療の神・少彦名神が伝えた秘術・苦手の法であった。

 少彦名神はこの苦手の法をもって軽い病はもちろんのこと難治とされる病を癒し、この法をもって悪しき獣、害をなす虫を祓除し、あるいは滅尽したという。


 和子の腕の中で泉太が、淡雪のように消えていくのが分かった。それでも和子は最後の瞬間まで子を抱きしめようとし続けた。

 ――そして、泉太は消えた。

 和子は子の名を呼びながら、腕が空を切ることになっても自らの肩を抱き続けていた。

 涙を雨のように溢しながら。

「お子さんの願いが叶った段階で、送りました。呪いが血縁に広がることはありません」

 嗚咽を漏らす和子に、汀は言葉をかけ続けた。

「ですが、日花さん。あの子を直接、家に迎え入れた以上、これで貴方はもう……」

「はい。覚悟の上です。

 ただ、私を連れて行っても、あの子は残った姉の所まで行くかも知れません。知子は結婚し子供もいます。男の子です。孫は、今年小学生になりました。

 泉太は小学生になる前に亡くなっただけに、その姿を見ることができて満足しています。

 欲を言えば、その子が成人し結婚するまで見守りたかったのですが、いつまでも泉太を一人にさせておくのは不憫で仕方がなかったんです」

 和子は両手の指先を使い目頭を押さえていた。

「もう。あの子を一人にはさせません。ありがとうございました」

 和子は汀に深々と頭を下げていた。

 外では、夜の静寂しじまに雨がいつまでも降り続いていた。


 【亡き子が帰る】

 そんな伝承が滋賀県のある地域にある。

 その年に死んでしまった子供が帰ってくると言われるもので、お盆の時期に、大雨が降ると、その雨に乗って幼くして死んでしまった子が、冥界から帰って来るのだ。

 死んだ子供は、家の玄関の前までやってくるが、この時、決して戸を開けて中に招き入れてはならない。死んだ子供を招き入れてしまうと、一家全員が一ヶ月以内に死んでしまう為だ。

 死んだ子供は、親や兄弟が恋しいがために、生者を自分の住む世界に連れて行こうとする。

 どんなに恋しくても、どんなに会いたくても、家の外で子供の「ただいま」の声が聞こえても、家族は耐え、親は我が子が家の前から去るのをじっと待つしかないという。


 月夜汀は、風の便りに和子のその後を聞いた。

 あの日から丁度、一ヶ月目に日花和子は亡くなった。

 布団に横になったままの状況から、就寝中に亡くなったと思われるが苦しんだ形跡はなかった。

 生前と変わらぬ和子の姿と表情は、喜びに満ちた笑顔であったという……。

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めぐり雨 kou @ms06fz0080

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