何がD2だ、何が自粛だ、クソッタレが——「takt op.Destiny」の直接的表現

 コロナ禍の中、アニメはいかにして演奏を表象したのか——そうした関心を「Vivy -Fluorite Eye's Song-」から抱いた私は、翌週には今冬に放送されたアニメ「takt op.Destiny」を見ていた。物語の舞台は先の「Vivy」とも遠からず近からずの、2047年。空から到来した黒い隕石「黒夜隕鉄」から生み出された異形の怪物「D2」が、大地と人々を蹂躙し始めていた。D2は人の奏でる旋律に惹かれ、やがて音楽そのものが禁忌とされるなか、音楽を力とする少女達――ムジカートたちがその対抗策として注目されていた。彼女達は、人類史に残る偉大な歌劇、楽曲の楽譜(スコア)を身に宿している存在である。D2との抗争によって荒廃したアメリカにて、音楽を渇望する主人公のタクトは、D2の殲滅を望むムジカート『運命』とともに、ニューヨークを目指す旅を始める——。


 皮肉な形で演奏を表象していたと思われる「Vivy」と比較し、こちらは非常に分かりやすく音楽を規制している。音楽を演奏することによってD2が出現し、大きな被害を与えていくことを危惧し、人々は音楽を奏でることなく、さらに音楽は禁止にまでされている。そうした状況は最早いうまでもなく、2021年の音楽、なかでも演奏そのものに対する皮肉だ。特に物語の中盤の第6話、ニューオーリンズを舞台にした話ではそれが最も表出している。MADHOUSEとMAPPAという作画で注目された会社のタッグで作成された本作は、D2との戦闘を通したダイナミックなアクションシーンが注目の一つでもあった。にも関わらず、第6話ではD2とのダイナミックな戦闘シーンは見られない。戦闘アクションものにおける中休みのように挿入された本話ではしかし、得体の知れない「敵」に対する憎悪と、それに対する人々の苦悩が描かれる。物語中では音楽を規制され、講演ができなくなったライブハウスが登場するが、そこで語られるオーナーの言葉は「なんでこんな世界になったかね。何がD2だ、何が自粛だ、クソッタレが。」である。言わずもがな、ここの「D2」を「コロナ」に変えるだけで、完全な社会風刺に様変わりする。この発言が、クラシックがあくまでも中心にある本作品で、あえてジャズの聖地たるニューオーリンズでされているの点も、大きな意図を感じざるを得ない。自由な演奏を行えるジャズの聖地において、音楽はなお規制されているのだ。


 本話では最後に主人公のタクトが「ラプソティー・イン・ブルー」を演奏して締めくくられる。しかしながら、それは少なからずD2の出現というリスクを背負ってのものであることは言うまでもないだろう。漠然としてはっきりしない「不安」と付き合って音楽を奏でなければならない状況は、今日のライブハウスの様相と完全に一致しているのではないだろうか。

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