これからの鉄道趣味へ

 2021年の10月28日、私は写真家グループであるSTUDIOSIXによる展覧会「コロナ禍を越えて 普通を究めた美 『Life in Seasonal Delight——光の二十四節気』」を訪れていた。京都写真美術館にて開催された本展覧会を私は事前に知っていたわけではなく、たまたま京都の岡崎公園周辺を散策していた時に発見したのだった。複数人の写真家によるそれぞれの個性的な作品が展示されるなか、ただ鉄道写真のみが展示されたコーナーが私にはとても印象的に残っていた。写真家、長谷川大貴によって撮影された写真たちだった。


 彼には、私が小学生のころに経験した鉄道オタクのある種の呪縛のようなものは、どのように感じられるのだろう。2003年生まれであるらしい彼の生まれ年は、丁度私が「電車男」から感じた強烈なオタクの奇異さと、その中にまぎれもなく鉄道も入り込んでいたことを知った時期と重なっている。そこから時代も変わり、鉄道も世代交代が進み続ける。彼が撮影した写真に写る鉄道たち、それらは私の記憶の中の鉄道と大きく違っていた。私の知っている201系はスカイブルーに塗られ、阪神8000系は旧塗装で——。話すとキリがないが、いわゆる撮り鉄が撮影し、SNS上で大量に公開されていく写真たちをスマホの画面で見るのとは比べものにならない迫力を、プリントアウトされ額装された写真たちは私に見せてくれる。スマホネイティブ世代にあたるだろう彼は、鉄道趣味に対する社会的イメージが悪化する時代をおそらく見てきただろう。そう考えると、私の子ども時代よりもはるかに、鉄道写真を撮ることが難しくなっている気もする。


 だからこそ、私は彼の写真に意識を奪われたのだ。紛れもないスマホネイティブ世代な彼がこうして鉄道写真を一つの美学的な構造の中に取り入れている――「美術館」の展示となる——ことは、鉄道写真そのものが半狂乱的な「撮り鉄」の世界から脱出し、新しい鉄道趣味の可能性も開いてくれるのではないだろうか。撮り鉄はいまだ、世間からすれば誹謗中傷の恰好の的だ。どれだけ撮り鉄内部で対立が形成されようとも、それが外部に納得してもらえない以上は、外部から見て自浄作用は発生していると見なされない。ではどうしたらよいか。彼が撮影する鉄道写真は、いつの間にか私が抑圧してしまい閉じ込めてしまった「鉄道」というもの、世間が大きく変化してしまったなかでも依然として反倫理的な様相を深める趣味の世界をもつ2010年代以後の「鉄道」というものに対し、新しい観点を提供する可能性を内包しているのではないだろうか。それは、これまでの鉄道写真と「撮り鉄」に決別をするための、新しい世代による声明である。

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