撮り鉄と倫理の問題

 話を現代に戻そう。今や「オタク」という言葉が内包した「奇異さ」はそれほど注目されることもなく、それ自体が一文化として、肯定的印象とともに社会に溶け込んでいった。かつて中学生のころ、両親に悟られないようにこっそり深夜二時放送の「輪るピングドラム」を見ていたのだが、今だったらそんなことはしないだろう。昔は深夜アニメも奇異なものとして見られていたはずが、今では『鬼滅の刃』が深夜9時台に参入してくる。当時のオタク文化の心臓部であったアニメはかつて2ちゃんねるでこっそり共有し合っていたはずなのに、今では誰もがTwitter上でアニメの感想が滝のように流れている(その反面、かつての「悪い場所」の拠点であった秋葉原はかつての勢いを失っているように思えるのだが、どうだろうか)。


 鉄道趣味はそうしたかつてのオタク文化の紛れもない一面であった。だが、アニメのそれとは大きく異なり、いまだに世間から冷たい目を向けられている。いわゆる「撮り鉄」が社会問題となったのは2020年ごろだったろうが、写真を撮影しそのクオリティをSNS上で共有する、そうした欲望に支配されるあまり、倫理性を無視して器物損壊や暴言、あるいは住居侵入などを繰り返しているというニュースを、ここ最近でもよく耳にする。そうした「撮り鉄」の横暴に対し、同じ「撮り鉄」が「あんなのは撮り鉄ではない」とSNS上で意見するという様相を、類似する事件が発生するたびに繰り返している。観念上で集団を切り離す以上に内部変化が起きない状態を前に、とうとう鉄道会社の側から撮影スポットの立ち入り禁止化や、駅員の配備増加といった管理制御の手法を取り出したというのが、昨今の「撮り鉄」をめぐる状況だろう。


 2000年代から始まるオタク文化の一部として、「電車男」を支える人物としても表象された鉄道オタク。彼らは変容したオタク文化そのものを前にして、いまだに反倫理的な体制を敷き続けている。それはある意味で古き良きオタクを表現しているのかもしれないが、しかし現代の価値観との間にもはや無視できない摩擦熱を生み出しているのは紛れもない事実だろう。摩擦による熱がやがて火を生み、激しく炎上した事例はもはや枚挙にいとまがない。そんな現状を見ながら、鉄道が好きな——あるいは好きだった——私は、この擦り切れるような状況をただ見ているだけだった。

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