第7話 宵星の塚の影祓い(四)

 影祓い達は幾つもの掟に縛られていた。無断でセムの川を越えられない事も掟の一つであり、日中、川へ近づいたテオとセラナがマルセンから折檻されたのもそれが理由であった。


 ネビアではセム川から東は生者の土地、西は死者の眠る土地なのだ。そして死者達の土地に留まり、その彷徨える何かを鎮め、見張るのが影祓い達の生業である。

 それはいわば聖職と呼ばれる類のものであったが、死を直接連想させる彼等の存在を川向こうで暮らす人々は決して快く思ってはいなかった。


 街人はいずれ迎えるであろう自分や自分の身内の死を想像し、影祓い達の業を敬いはしたが、同時に彼等を蔑みや恐れの言葉で遠ざけもした。そもそも影人や影祓いといった言葉がいつから使われるようになり、彼等を常人から分け隔てるようになったのかは定かでないが、その習慣だけは今に根強く残されていた。


 それゆえ死者の土地に暮らす者の中には世間から弾き出された者が少なからずいた。テオは口減らしの為にマルセンの元へ預けられ、セラナは荒野を半生半死で彷徨っていた所を別の塚の影祓いに拾われてここへ連れて来られたのであった。

 影祓いの見習いであるテオはもちろん、そうでないセラナも彼らと共に暮らす以上は影祓いの流儀は守らねばならぬのだ。




「ここまで来れば後は独りで大丈夫だ」背後からアマディオの声がした。暗い夜道の先から轟々と流れる水の音が聞こえる。視線を空に向けると枯れ林の先に街の城壁が浮かび上がって見えた。


 街の西門まではまだ幾らも暗い道程が残されていたが、城壁の麓には篝火が炊かれ、衛士の詰所の前に立ち番が一人出ているのがここからでも確認できた。


「手間かけさせたな、坊主……」アマディオはそういうと懐から銅貨を一枚取り出し、少年の方へ投げてよこした。テオはそれを片手で器用に受け取り、懐へしまい込む。それからしばらくその場でアマディオが去るのを見届け、また元来た道を引き返した。


 アマディオは子供に伴われて戻る姿を街の衛士に見られたくなかったのかも知れない。そんな事を考えながら、少年は彼が初めてこの土地へ連れて来られた日の事を思い返した。


 テオが生まれたのは南西の山岳地帯にある谷間の集落であった。そこは大荒野とは違って清浄な湧き水もあれば草木もまともに育つ土地柄であったのだが、それでも山での暮らしは決して楽なものではなかった。


 険しい地形と急変する天気、奥地に入ればここでは目にする事の無いような妖物達が跋扈する土地。そんな山間を流れる沢にすがるように大家族が幾つか寄り添って暮らしていた。


 テオは四人兄弟の四男で他に五人の姉妹達がいた。彼が生まれた頃には歳の離れた長男と次男は既に猟師として父親と共に家族を支え、ようやく言葉を覚え始めた頃に年上の姉二人は隣の集落へと嫁いで行った。


 生まれつき身体の弱かった三男と末の妹は、恐らくその生涯を生まれた家で暮らすことになるだろうが、テオと残りの妹達は大人に成るまでに自立をするか嫁ぐかの何れかを選ばされるのだ。そしてテオの場合はその時が事の他早く訪れた。


 彼は八歳を迎えた春に自ら山を降りる決意をした。長年続く猟の不振で家族は飢えに苦しんでいたからだ。雪解けを待って、遠縁にあたる老いた行商に連れられ山を降りた。


 その時、テオの他にもう一人同じ境遇の少年が一緒だったが、彼は山の麓にあるレンガ職人の工房へ引き取られ、テオだけが故郷を遠く離れて宵星のマルセンの元に連れて来られた。


 初めてこの塚の景色を目の当たりにした時、何処までも広がる墓標の連なりに驚きと戸惑いを覚えた。そしてマルセン達の暮らす集落に向かう途中、丁度日暮れ時が過ぎた頃、多数の亡霊や影人達が迷い出る様を目の当たりにした。


 テオはこの時初めて里を出たことを深く後悔した。それまで暮らしていた山では亡霊も影人も見た事がなかったからだ。


 だがここへ来た当初こそ夜一人で出歩くなど怖くて出来ないでいたが、それも束の間、影祓いの見習いとして過ごす内に自然と影の事は気にならなくなった。慣れれば慣れるものであるとテオはしみじみ思う。


 そして今ではこうして影達の中を臆せず一人で歩いているのだ。もちろん彼は影祓いとしては半人前以下であり、頭領であるマルセンや塚の仲間達から学ぶべき事は沢山あったが、それでも今の彼は影という存在に対して全くの無知ではなかった。


 かつての己がそうであったように、アマディオが影人達を恐れるのは影について無知であるからだ。マルセンは影や影人とは命の流れの理にまつわるものだと最初に教えた。


 彼はまた影達が時に生者を惑わせ取り込もうとする事を認めて、だが彼等の本質は悪鬼怨霊の類では無く、むしろ生者の過度の感情の揺らぎが影人の興味を引き付けるのだと言い、ゆえにその存在を無暗に恐れる事を禁じた。


 テオがここで暮らし始めて最初の一月、影祓いとしての初めの修練は影に相対して動じぬ心を得る為のものであった。


 じきテオは影や影人の在り様をみて瞬時に彼等が嘆いているのか、または昂っているのかを感じ取れるようになり、その影響から己の心を遠ざける術を学んだ。

 そして影達の、人の心に忍び込もうとするその言葉を締め出すための呪い文句(まじないもんく)と所作を学び、ようやっと影祓いの見習いとして認められたのだ。


「四年と少しか……」テオは呟いた。それは彼がマルセンの元で暮らした月日であった。そっと左の掌を開いて見ると、そこには丸に十字の痣のような紋様が施されていた。


 それは日中、マルセンが衛士の一人に示した印と同じであり、テオが宵星の塚人の身内であるという証であった。テオは拳をそっと閉じると、手にしたランプの灯りを前に掲げて枯れ林の道を荒野へ向けて歩き続けた。


 林を抜けると、テオは宵星の集落へは向かわずに、今日埋葬したばかりの女の墓がある場所へと向かった。今頃はセラナもそこにいるはずだ。親方のマルセンは川堺で遊んでいた二人に罰として今日埋葬された者の墓を監視するよう言いつけた。


 テオにはそれが見習いとしての自分の責務と心得ていたが、セラナには少々気の毒な事に思えた。もっとも最初に増水した川を見ると言い出したのはセラナであったのだが。




 ランプの灯りを頼りに暗い墓所の中を進むと、遠くにチラチラと燃える焚火の灯りが見えた。普段はあまり使われていない物置小屋のある辺りだ。そこはこの辺り一帯を見渡せる小高い丘の上にあり、影祓い達が夜の見回りの折によく火をたく場所でもあった。


「テオ、おそい……」セラナの押し殺した声が不機嫌そうにテオを出迎えた。隣ではマイラが木串に刺した丸芋を焼いていた。


 テオが潅木の間を縫って小屋の前に出ると、セラナが焼けた芋を放って遣した。テオは焦げ目の付いた丸芋を袖の上で転がしながら、セラナの隣に腰を下ろした。


「芋はまだあるから後は自分で焼いてちょうだい」マイラがぼそりと言った。彼女はまだ若い娘であったが、宵星の塚へ来て十年以上経つテオの姉弟子である。


 普段は寡黙であまり愛想の良い娘ではなかったが、テオやセラナの面倒はそれなりに見てくれていた。そのマイラが今ここに居るのは夜間の墓所の見張りが本来彼女の役回りだからである。

 テオとセラナは親方の言い付けに背いた罰としてマイラの傍で夜通し墓の様子を見張る羽目になったのだ。


 では何を朝まで見張るかというと、例えば今日埋葬されたばかりのマリエラと呼ばれた女の亡霊が――ちょうど娼館の地下室でそうなったように――彼女の墓から這い出てくるか、或いは数日経っても現れない事を見届けるために見張るのである。


 仮に今日か明日の晩に女の亡霊が出たとして、その事自体はこの荒野でそう珍しい事ではなかった。大抵は己の墓標の傍に立ち尽くすか、街のある方を眺めながらやがて影と同化して靄となって消えて行く。


 だが時には錯乱気味に騒ぎたてる亡霊もいた。生きた人間が癇癪を起こすように、あるいは悲哀に暮れてひねてしまうように。そういった亡霊は声ならぬ声で叫びながら夜の墓所を彷徨い続けるのであった。


 亡霊達の感情の起伏は生者のそれよりもはるかに他の影達を動揺させる。そして一度動揺が影や影人達の間に拡がってしまえば、それを治める事は影祓い達にも容易ならざる事であり、この広大な墓所が平穏を保てるのは影祓い達がそうならぬよう日々見守り続けているからこそと言えた。

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