犬神人の飛翔

如月姫蝶

犬神人の飛翔

 犬神いうたら、おどろおどろしい呪いの産物……

 まあ、大抵のお人は、そないにおもてはるんやろねえ。


 大野おおのは、職場の持ち場が休憩時間へと突入した瞬間、白い仕事着の上に、真っ黄っ黄のダウンジャケットを重ねた。

「ほな、一服、へと行かせてもらいますわ!」

 爽やかな笑顔で、彼は隠語を発したのである。

「大野くん、外、相当、雪積もってるえ?」

 上司たる師長は、眉を顰めずにはいられなかった。

「いやいや、聖火リレーいうんは、絶やしたらアカンやつですから!」

 若き看護師は、黒のゴム長靴で足元を固めると、京都市内にしては分厚い積雪もなんのその、閉鎖病棟の外どころか、病院の敷地外へと向かったのだった。時勢により院内は全面禁煙だからである。

「雪で遭難したら、大人しゅう助けを待ちますわ! この黄色いジャケット、ええ目印でしょ?」

 抜け抜けと言い放って出て行く彼を、先輩たちも結局は見送ったのだった。

「あいつ、大物に化けるかもしれまへんな、大野だけに」

 ニコチン中毒者よりも十才ほど年長の男性看護師が、駄洒落を交えつつ目配せした。大野には、体格や体力に恵まれているという長所もあるのだ。

「お昼ご飯よりも煙草を優先するんは、それこそやと思うけど、大野くんもだいぶん明るうなってきたんは一安心やわ」

 大野とはそれこそ母子ほどの年齢差である師長は、溜息交りにそう評した。

 彼は、端的に言って、世の中を舐めくさっている。しかし、鬱々とした精神状態の者を叱りつけたところで、あまり効果は得られないものだ。

 大野には、以前勤務していた部署で担当患者の死に直面してメンタルの不調をきたし、この閉鎖病棟に異動になったという事情があるのだった。師長は、上司としてとっくりと説諭するためにも、まずは大野に元気になってもらいたいのだった。


 明るいニコチン中毒者は、しかし、昼休みが終わりに近付いても戻らなかったのである。

「ちょっと様子見てきますわ。ほんまに雪道で転んで身動きとれへんようになったんかもしれへん」

 師長にそう申し出た男性看護師には、かつて、夜勤明けの雪道で転倒して腰を痛めた苦い経験があるのだった。

 数分後、彼は、屋外の雪上にて大野らしき人影を発見した。倒れ伏したその人影は、大野のものにそっくりの真っ黄っ黄のジャケットを纏っていたのである。しかし、それは惨たらしく食い荒らされており、流れ出した大量の血液が、雪面を赤く染めていた。

「熊や! また熊が出たんや!」

 看護師は、咄嗟に叫び声を上げて人を呼び集めたのだった。十二月のある日のことだった。


 そこを夜中に歩いたなら、どこからか遠吠えが聞こえてくる。

 野生の獣……などではなく、年老いた人間が、消灯後の暗闇に吠えるのである。

 老人ホーム——ゆかりみやこ。中でも、重度の認知症を患う入所者が集められたフロアでは、それがごく日常的な風景だった。

 巡回中の医師——越智間美奈実おちあいみなみは、スタッフの詰所に立ち寄った。

「お疲れ様です。変わりありませんか?」

 すると、詰所に一人でいた若い男性が、「おー!」と、場違いなほど嬉しげな声を上げた。

「待ってました、越智間先生! 僕、新しく越智間勇作ゆうさくさんの担当になりましたんで、いろいろ教えて欲しいんですわ!

 まず、先生は……勇作さんの娘さん? それともお孫さん?」

 看護師の大野の物言いに、女医は眉を顰めた。入所者の家族構成なぞ、カルテを見れば一目瞭然のはずだ。

「カルテに記載してある通りですよ」

「ええ!? そんな意地悪いけず言わんといてください。カルテを読むより先生から教えてもろたほうが時間と労力の節約になるおもて、お待ちしてたんやから!」

 大野は、無邪気な笑顔で、身も蓋もないことを言う。

「あなたのズボラのために、私の時間を割けと言わはるの? 私は、入所者の親族としてではなく、当直医の仕事でここにいるわけで、巡回の途中なんですけど」

 美奈実は正論を口にした。

 彼女はそもそも、北都ほくとホスピタルという精神科病院の当直医である。同院に隣接して経営母体も同じである紫の洛の巡回も行うが、夜間巡回中の医師には緊急事態を除いて依頼を行うべからず——という初歩的なオリエンテーションを、大野は、未だ受けそびれているか、受けても頭に入っていないかのどちらかであるらしい。

「そんなん、お医者さんは給料高いんですから、べつにええでしょ?」

 大野は、笑顔を崩すことなく放言した。この期に及んでなお、自身を人懐っこい好青年だと誤認しているらしかった。

 アカンわ。ワヤの極みやわ——美奈実は、内心、独りごちた。ただし、看護師に対して本格的に意見したい場合には、その上司である師長を通すことがルールかつマナーであるため、巡回中の今、言い募るのは諦めることにした。

「勇作さんと私は、同姓ではあるけれども、遠戚です。勇作さんは、認知症が進行してはるから、言葉を発すること自体が稀でしょうけど、時折り慶子けいこさんという女性を思い出して号泣することがあるため、寄り添ってあげてください。慶子さんは勇作さんの従姉にあたる方で、若くして殺害されたと聞き及んでいます。

 あとはカルテに目を通して……」

「え、殺害!? 事件やないですか! 僕、サスペンスが大好物なんですよ!」

 美奈実は話を切り上げようとしたが、大野は食い付いた。それも、入所者に寄り添うためというより、好奇心を丸出しにしてである。

 だが、その時、美奈実の業務用のPHSが鳴動した。

 北都ホスピタルの入院患者が急に発熱したため、診てほしいという連絡だった。

 大野は漸く美奈実を解放したが、聞こえよがしに舌打ちしたのである。十月のある夜のことだった。


 越智間家は、四国の片田舎で、江戸時代を通じて村の庄屋を代々務め上げた家系である。

 そして、犬神持ちの家系でもあった。

 四国の片田舎のその村には、有力な農家が複数存在した。よって、庄屋の役目も回り持ちとなりかねなかったが、越智間家は庄屋であり続けようと画策した。

 そこで、犬神持ちとなったのである。

 昔話に登場する犬神は、大抵、呪わしい生贄の儀式によって、犬が変化した魔物である。

 しかし時として、他所者の家系や病人が多く出る家系のことを、警戒の意味を込めて犬神持ちと呼ぶこともある。

 そして、越智間家が存在した界隈では、「犬神さん」と呼ばれ尊重されるのは、実は、産婆の女性たちだったのだ。

 その昔、出産時に落命する女性は珍しくなかった。ゆえに、人と比較して安産である犬が、民間信仰において安産の守護者として祀られたのである。令和の現代に至るまで、いわゆる「いぬの日」に安産祈願を行う風習が残るほどである。

 そして、現場で出産を手助けする産婆もまた、犬神として敬われたのである。

 越智間家は、常に一族の誰かを産婆に仕立てることによって、村人の信頼を勝ち得て、庄屋であり続けたのだった。

 越智間家はそれ相応の繁栄を享受したが、時代が下り、第二次世界大戦後のいわゆる農地改革をきっかけに没落した。

 以降、一族は京都や大阪へと移住して、商人や医療従事者として生きることとなった。

 美奈実はもちろん、勇作も京都生まれであり、勇作の従姉である慶子が何者かに殺害されたのも、京都の湖沼においてであったという。


「犯人の男は! 黄色い服を着とったんや!」

 かつて勇作は、悔しげに落涙しながら、診察室のテーブルに拳を打ち付けた。

 美奈実が開業した、おちあいメンタルクリニックには、「物忘れ外来」が存在する。加齢のせいにはしきれない物忘れを経験した人々が、認知症かどうかの診断を求めて受診するのだ。

 遠戚にあたる勇作は、妻に先立たれ、子供たちは海外で生活しているからと、独りで受診したのである。そして検査の結果、初期の認知症であると診断されたのだ。

「犯人のことを忘れてしまうんが悔しいんや……」

 勇作は、肩を震わせながら、美奈実にそう吐露したのである。

 なんでも、勇作にとっての慶子は、従姉であり初恋の人でもあったらしい。

 未だ年齢が一桁だったある日、勇作は、慶子が人目を忍ぶように出歩くのを見掛けて、ついつい跡をつけたのだという。慶子は、勇作の見知らぬ男と、水辺で逢引きしたのである。

 背の高い夏草の陰に隠れた勇作の耳に、最初は楽しげな笑い声が、しかし最後には女の悲鳴が突き刺さった。

 恐る恐る現場へと進み出た勇作は、水に沈められた慶子を発見した。一緒にいたはずの黄色い服の男は、既に姿を消していたのである。

 この殺人事件は、結局のところ迷宮入りした。勇作は、犯人について証言したし、自信作の似顔絵まで差し出したのだが、子供過ぎるからと相手にされず、ついに時効が成立したのだった。

 勇作は、自分が犯人を覚えてさえいれば、いつか鉄槌を下す機会もあるかもしれぬと生きてきたのだ。しかし、その記憶が消え去ろうとしている。

「美奈実ちゃん……あんた、を譲り受けてへんか?」

 彼女は、勇作が自分を訪ねた本当の理由を知ったのだった。


 犬神とは産婆のことである——それは越智間家にとっての事実だが、建前でもある。実は、「犬神の数珠」なる水晶製の数珠が、家宝として先祖代々伝えられているのだ。

 そもそもは越智間の本家の当主が代々受け継いでいたはずが、いつしか、一族の医療従事者へと押し付けられるようになったらしい。美奈実は、結婚を機に越智間姓を捨てた助産師から、医師国家試験に合格した祝いと称して、それを押し付けられていた。

 美奈実には結婚歴は無い。しかし、婚約した経験なら一度ある。

 相手は医学部の同期で、美奈実は、学生結婚を考えるほど熱くなったのだ。しかし、彼は結局、借り物のフェラーリの助手席に別の若い女を乗せて事故死するような男だったのである。

 加えて、その母親は、「犬神を使つこて息子を殺したんやろ!」と、美奈実を面罵するような女だったのである。どうやら越智間家について探偵にでも調査させて、通俗的かつオカルティックな解釈に飛び付いたらしい。

 しかし、考えてもみてほしい。犬神の数珠を美奈実が受け継いだのは、医師の資格を得た後のことであり、彼が事故死した医学生時代ではないのだから、完全なる濡衣である。「数珠に宿る犬神に願えば、害するも益するも自在なり。但し対価を要すなり」などという言い伝えを、そもそも真に受けてすらいない美奈実であるが……

 美奈実には男を見る目が無かった。そして男の母親は、いつまでたっても息子の死をありのまま受け入れることができぬままに拗らせて、開業を翌日に控えた美奈実のクリニックに放火するという暴挙に及んだのである。不幸中の幸いにして、人的被害は皆無だったが、開業の予定は大幅に遅れてしまった。

 そして、「息子の仇!」と喚き散らした放火犯について、弁護士は常套手段である「心神耗弱」を主張したが却下されて、彼女は無事に刑務所送りとなった次第である。

 まさに、ざまあみさらせ、臭い飯のぶぶ漬けでも、たぁんと召し上がっておくれやすぅ、である。

 勇作の認知症は、診断から半年ほどで急激に悪化した。そして、開業後も週に一度、北都ホスピタルに勤務していた美奈実の伝手で、紫の洛に入所する運びとなったのだ。

 その時、勇作の手荷物には、古めかしい水晶製の数珠が含まれていた。


 北都ホスピタルは、京都市北部の緑豊かな山際に存在する。山からは当然、大量のスギ花粉や、猿の群れやら、時として熊まで出現する。それは、同院に隣接する紫の洛でも同様だった。

 勇作はその夜、産声を上げていた。産声のごとく激しく泣いていたのだ。

 ベッドに仰向けとなり、血走った両眼をカッと見開き、虚空を睨んで泣いていた。

 ベッドの側には、看護師の大野が腕組みして立ち、さらにその隣りには、大野以上に若い女性の介護士が立ち、頬を押さえて涙ぐんでいた。

「越智間さん、蹴ったらアカンでしょう」

 大野は、しかつめらしく言った。勇作は、介護士が定時の排泄介助を行おうとしたところ、彼女の顔を強かに蹴り上げたのだ。新人の介護士は、おろおろと先輩格の山野に泣きついたというわけだ。

「顔、腫れてるさかい、冷やしといで。越智間さんの介助は、今回は僕がやっとくわ」

 大野は、優しげに言って、介護士をその場から遠ざけた。

 介護士なんて、排泄介助のために雇われてるようなもんやろに——そんな本音は、おくびにも出さなかった。

 大野は、介護士に優しげに接しこそすれ、興味を持つことは無い。なぜなら、介護士は看護師よりも低賃金だからである。

 大野は、ラテックスの手袋を嵌めながら、室内を見回した。

 勇作は、入所して以来ずっと小綺麗な個室を使っている。今や寝たきり同然でありながら、車椅子に座って日光浴するためのベランダまで付いているような部屋である。

 まったく、死に損ないのジジイに、こないに金を掛けるくらいやったら、わこうて体力も愛嬌もある男と結婚して、ラクさせてくれてもええやんけ。こっちは、高収入の女でさえあれば、他の全てに目を瞑るつもりでいてやってんのに、あの女、歯牙にも掛けよらへん……

 大野の中で、越智間姓の二人に対する負の感情が綯交ぜとなり、しばらくぶりに私的制裁を加えてやろうという悪意として結晶した。

 大野は、勇作のオムツを剥ぎ取ったのである。


 介護士は、洗面所でじゃぶじゃぶと顔を洗った。

 こんなことではいけない。生活が懸かっているのだ。一日も早く一人前にならなければ。

 鏡を見ながら、気合いを入れるべく頬を叩く……ことは思い止まった。蹴られた場所は、まだまだ痛いし熱い。

 それでも、大野がまだ越智間氏の居室にいるようなら、先輩の仕事ぶりから学ばせてもらおうと、彼女がそちらに足を向けた時だった。

 彼女は耳を疑った。何かが爆発したような音が聞こえたからである。


「なんもしてへん……僕はまだ、なんもしてへんだんやで?」

 介護士は越智間の居室へと踏み込んで、大野の呆けた顔を見下ろすことになった。彼は、腰を抜かしたように、床にへたり込んでいたのである。

 越智間の姿は消えていた。寝たきり同然の高齢者が、ベッドから忽然と姿を消していたのである。

 夜風が、介護士の頬を撫でた。ベランダに出るためのガラス窓が、まさに爆発したように粉砕されていた。そして、数多のガラス片は、室内ではなく、ベランダに散乱していたのだ。

「人生、詰んでもうた……こんなん、なんぼなんでも、結婚してもらえへんやん……」

 大野は、介護士にとっては意味不明の泣き言を垂れ流す。

 新人介護士は、おろおろとしながらも、大野よりもさらに上位の人間に報告しなければと駆け出したのである。


「レッド ホット カーニバル!」

「イエロー イェイ イェイ マスタード!」

 戦隊ヒーローたちが、技をぶつけ合う。もとい、彼らに成り切った子供たちがだ。

 夕食後の腹ごなしとばかりに、レインポンチョにヘッドライトまで装着して、雨がそぼ降る公園でのごっこ遊びに夢中な我が子たちに、酒井さかいは、暗澹たる気持ちになった。

 酒井には、午前零時というタイムリミットが存在する。とはいえ、彼女は、シンデレラであろうはずもなく、シングルマザーであり、北都ホスピタルの看護師である。次の勤務が、午前零時にスタートするのだ。

 夕食後、二人の子供たちの我儘に、こうして暫し付き合ってやり、帰宅後入浴させて、確実に入眠させるために、睡眠薬を混入したジュースを与える——それが、出勤するまでの彼女のスケジュールだ。

 職場も、そして、この公園も、三人で暮らすアパートから徒歩圏内なのはありがたかった。

「レッツ パーティぃいっ!?」

 赤いポンチョを纏った下の子が、笑顔だが目の死んだパンダ像から転落したのは、ちょうど酒井が、虚な目元を揉み解していた時だった。

「あっくん……またやったんかいな」

 僅か一メートル足らずの転落である。そして、雨に濡れたパンダ像の上でポーズを決めるべく立ち上がって足を滑らせたというのは、本日早くも二回目だった。

 しかし今回は、地面の水溜りに顔を突っ込んだせいか、泣き出してしまった保育園児だった。

「もう、あっくん、泣くんは、ちゃんと顔を上げてからにしよし! ゴポゴポいうてんで、地上で溺れ死なんといてや? ほんまにもう、どこ打ったん、ママに見してみ?」

 酒井は、保護者として看護師として、男児に歩み寄り、その体をチェックした。

 そこへ、上の子も寄って来たのである。

「ママぁ……」

 女児は、まだ睡眠薬を飲ませていないのに、とろりとした声で呼ぶ。

「さっちゃんまで、どうかしたん?」

 酒井は、眉間の皺を深めながら、黄色いポンチョの娘を見遣る。

 何かが、おかしい……

 娘は、片足を大きく引き摺りながら、母親の元に倒れ込んだ。

 その額のヘッドライトのせいでわかりにくかったが、顔色が悪い。

 そして、抱き止めた酒井の掌には、雨水とは明らかに粘度も温度も異なる液体が、べっとりと付着したのである。

 酒井は見た、聞いた。

 公園の一角で、何者かの巨躯が、ゆっくりと二本足で立ち上がるや、けたたましく咆哮したのである。


鹿角かつのさん、助けて!

 熊や! 熊や! さもなきゃ犬神人いぬじにんや!

 娘が襲われてもうてん! 助けてください!」

 公園を突っ切ったその先には、猟師である鹿角の家がある。彼は、熊狩りに対応した猟犬を二十頭以上も飼育しており、この山麓の集落では一目置かれた存在なのである。

 酒井が、門扉のインターホンへと必死に訴えると、ワイン色のガウンを纏った男が、猟銃を手にして現れたのだった。

「犬どもが、えろう騒ぎよる。確かに、獣が出たようやな」

 鹿角の妻は、酒井母子を素早く門内へと迎え入れ、救急車を要請したのだった。


犬神人いぬじにんて、ご存知ですか?

 私のように長年、猟師をやっとりますと、とてもこの世のものとは思えん何かと、お山ん中で出会でくわすこともあるんです。犬神人いうんも、そういう存在で……

 その昔、人間は、狼を社会の鎖に繋いで、犬へと変えました。けれど、時として犬は、主たる人間に取り憑いて、主ごと自然に……お山という異界に帰るんですわ。それは、罪深い人間にとって、報いやとも、救いやとも言われてます。

 あの夜、私が撃ってしもたんも、もしかしたら犬神人やったんやないかと……」

 鹿角は想起する。

 大きな獣が二本足で立ち上がったその姿は、雲や霧のようにどこか曖昧であり、暗がりの中で朧月のごとく燐光を放っていたのだ。

「撃つことを躊躇ためろうたらられるんはこっちやからと、引鉄を引きましたけど、今思えば、あれはまさに……」

 鹿角は、そこまで言い募ったところで、同伴した妻に咎められた。謝罪するはずが言い訳がましいのではないかしらと。

 鹿角は、二度ほど頷いて、越智間に——越智間美奈実に、改めて深々と頭を下げたのだった。

「えろうすんませんでした。勇作さんのお命をうぼうてしもて」


 十一月になったばかりのある夜、紫の洛の一室で、寝たきり同然だった高齢者が、突如として体の自由を取り戻した。彼は、居合わせた若くマッチョな看護師を振り切って、わざわざ窓ガラスを割ってベランダへと飛び出した。そして、建物の二階であるそこから飛び降りて、姿を消したのである。

 報告を受けた管理職たちが、とんでもない事態に困惑しながらも、まずは老人ホームの敷地内を捜索しようかなどと相談していたところ、老人ホームに程近い公園で、一発の銃声が轟いたのだった。

 地元の名士である猟師は、熊だと思ってそれを撃ったという。しかしその正体は、紫の洛に入所していた男性だったというわけだ。

 ただし、瀕死の重傷を負った女児の体には、大型の獣のものと見られる歯型が残されていた。そこで、現場に熊は出現したが、猟師が到着する前に逃走して、偶然にも無断外出していた老人が誤射され死亡に至ったものと推定されたのである。

 鹿角は、過失致死の罪に問われたが、執行猶予付きの判決が下されたことと、もはや猟師の仕事からは引退することを報告すべく、美奈実の元を訪れたのだった。


 勇作の死後、その遺品として、犬神の数珠は、美奈実の手元へと戻ってきた。

 数珠は、一般的に、百八個の珠により構成されるものである。しかし、美奈実が初めてその数珠を手にした時点で、水晶珠の数は八十個を切っていた。そして、勇作の遺品として手にしたそれを数えてみたところ、水晶珠は、さらに一個減っていたのである。

 

 十二月に入ってから、あの大野看護師が死亡したことに、美奈実は驚愕した。

 彼女は、何食わぬ顔で、北都ホスピタルでのアルバイトを続けていたため、噂話として様々な情報を耳にすることになった。

 熊の餌が不足した年には、冬眠し損ねてうろつく熊が、いるにはいる。しかし、あからさまに「食い殺された」大野の遺体の周辺の雪上には、熊らしき足跡など存在しなかったのだという。

 大野が黄色いダウンジャケットを着込んでいたという話を、美奈実は聞き逃せなかった。十一月に「熊に襲われた」酒井看護師の娘も、黄色のレインポンチョを着用していたという話だった。


「犯人の男は! 黄色い服を着とったんや!」


 勇作の慟哭は、今も鼓膜に突き刺さったままである。

 犬神の数珠の力など、そもそも信じていなかった美奈実だが、勇作がそれに縋り、しかし認知症ゆえなのか、黄色い衣服の生者たちに災いをもたらす存在に変化してしまったのではないか、死後もさながら怨霊のごとく……そんなおよそ非科学的な推理を、胸中に秘めるようになったのである。


 復讐のためにおそらくは体や命まで差し出して犬神と同一化するなんて、私にはとても真似できひんことやと、美奈実は思った。しかし、いずれっくきクリニック放火犯が出所したならば、どうにか彼女が黄色い服を着て北都ホスピタルの界隈を訪れるよう仕向けるかもしれない。美奈実は、己れの狡さを自覚しながら、数珠を仕舞い込んだのだった。

 

 後日、鹿角の訪問を受け、犬神人というものについて話を聞いて、美奈実は、久しぶりに犬神の数珠を引出しから取り出して眺めたのだった。

 彼女は、クリニックに放火されるという憂目に遭って以来、ただがむしゃらに働いて生きてきた。誹謗中傷を跳ね返すためにも、他の生き方を選べなかったのだ。

 思えば、明るい陽光や吹き渡る風を、最後に愛でたのはいつのことだったろう。

 犬神人というのは、古い京言葉で、下級の神職を意味するものだとばかり思っていたが、鹿角によれば、いわゆる人狼に似た、あるいはそれ以上の存在であるらしい。


 ふと、美奈実の脳裏に、雲の上に出て眺めたオリオン座の記憶が蘇った。

 目にも鮮やかな闇の中、厳かに連なる光たち……

 それは、もう何年も前に国際線の飛行機の窓から覗き見て、心奪われた光景だった。


 もし、犬神人なるものが、山中の異界に留まらず、雲上の星の世界までひとっ飛びできるほどの存在であるならば、案外、人間を辞めて犬神人と化すのも悪くはないかもしれない。

 美奈実がそんな空想の翼を広げて微笑した時、手元で、凛として涼しい鈴の音が鳴り響いた気がした。

 数珠の水晶珠の一つが飛散したのだった。

 

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