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ユリは熊本にある実家から出たくて、関東の大学を受けて上京した。
それは彼女が物心がついたくらいからで、口うるさい母親から逃げたかったからだ。
大学を卒業し、一人暮らし(正確にはルームシェア)になって自分の力で生活するようになっても母が口うるさいのは変わらない。
何かあろうがなかろうが電話をしてきて――。
「そんなのどうせろくなこつなか」
と、ユリが決めたことに対して否定的なことばかり口にする。
昔からそうだ。
母親は自分のことを肯定したことがない。
だから地元では友だちらしい友だちができず、大学時代も友人関係で苦労したのだ。
自分が嫌でも上手く断れず、なあなあで話を合わせてしまうところは、すべてあの母親のせいだ。
だからなるべく人と関わらない仕事――フードデリバリーサービスの配達員を選んだ。
「まあ、元々お金よりも自分の時間を大事にしたかったしね……」
そんなことを考え、ユリはシャワーを浴びながら俯いてしまう。
レミとのルームシェアは上手くいったが、合わなければすぐにやめるつもりだった。
彼女とちゃんと話したわけではなかったが、お互いに家庭が上手くいっていないことも察していて、似てるというのもあったのだろう(自分の時間を大事するところもだが)。
だが今のレミは母クレオと向き合い、結末としては母を失くしてしまったが、これまでの母子のわだかまりは消えているように見えた。
それはきっとレミが、長年溜め込んでいた自分の想いを、隠さずに母へ伝えたからこそだとわかる。
自分にもできるだろうか。
母が何を考えて自分に口うるさいのかを、ちゃんと聞けるだろうか。
あのなんでも否定してくる母に向かって、諦めずに自分の気持ちを口にすることができるだろうか。
「ハハハ……。あたし、暗殺組織や化け物なんかよりも、お母さんのほうが怖いんだ……」
シャワールームから出たユリは、待ち合わせ場所にしていた食事エリアへ向かう。
席はかなり埋まっていて人も多かったが、フードコートに先にいたレミのことはすぐに見つけることができた。
それは、根元から金髪が生えている――逆プリン頭の女性など彼女くらいだからだ。
「お待たせ」
「うん。ユリもクッキーどう? チャイもおいしいよ。トルコに来たらやっぱこれを飲まないとね」
チャイとは茶を意味する言葉だ。
狭義にはインド式に甘く煮出したミルクティーを指す。
世界的には、茶葉に香辛料を加えたマサーラー·チャイのことを言い、それは中国語の“茶”に由来しており、ロシア語、ペルシア語、トルコ語でも茶のことを“チャイ”という。
そして、レミが発した言葉でわかるように、トルコはかなりの紅茶消費国である。
少し前なら紅茶消費国といえばアイルランドが有名だったが、今や世界一紅茶を飲む国と言われている。
なんでもトルコ人は一日二十杯も三十杯もチャイを飲むようだ。
まさかそんなと思われるが、トルコのチャイグラスはとても小さくて、容量は大きいものでも100㏄程度、小さ目のチャイグラスは70㏄くらいである。
それくらいの容量ならば、一日二十杯といっても可能な量なのかもしれない。
「やっぱシャワーの後は冷えたチャイだよぉ!」
汗を流し、すっきりした様子でクッキーを頬張るレミ。
トルコでは数年前まではアイスティーも存在しなかった。
チャイを冷たくして飲むなどトルコ人には考えられないことなのだ。
現在ではアイスティーという商品名のドリンクはあるが、それは缶入りの甘ったるいドリンクなので、レストランや喫茶店のメニューにあってもそれはチャイではない。
高級ホテルのラウンジなどでは冷たい紅茶がメニューにあることもある。
こちらはアイスティーとは言わず、ブズル·チャイ(氷入り紅茶)とトルコ語名がついている。
レミが飲んでいるのが、そのブズル·チャイだ。
「そうなんだ。じゃあ、あたしも飲もうかな」
ユリからするとチャイといえばインドのもので、とっても甘いミルクティーのイメージだが、このトルコではストレートティーのことである。
テーブルにあったポットを手に取り、チャイグラスに甘さ控えめのブズル·チャイを入れ、火照った体に流し込む。
差し出されたチョコレート·クッキーを口にする。
たしかに美味しい。
だが、日本にいる母のことを考えていたユリの表情は暗かった。
そんな彼女に気が付いたレミは、心配そうに訊ねる。
「どうかしたの? チャイ、苦手だった?」
「ううん、そんなことないよ。ただ、ねぇ……」
それからユリは、なぜ元気がないのかを話し始めた。
レミから母クレオのことを聞いて、うちの家族はどうなんだろうと思ったこと。
自分も母と和解できるのか考えてしまっていたと、笑みを浮かべながらも沈んだ声で言う。
「レミのお母さんが命を捨てて助けてくれたって聞いて……。なんだかあたしも上手くやらなきゃなぁ、なんて思ったりして……。おかしいよね……。比べるようなことじゃないのに……」
「おかしくなんかない」
「え……?」
レミは驚いているユリの手を取って言う。
「僕がレミの家族の問題に口を出すのは変だけど。そう思うなら、一度きちんと話してみればいいんじゃない」
「レミ……」
「さあ、そろそろ飛行機が出発する時間だよ。帰ろう、日本へ」
「……うんッ!」
それからレミとユリは、残ったクッキーを一気に口にし、まるでリスのように頬に膨らませて搭乗口へと向かった。
「ほら急ぐよ、ユリ! 早く行かないと飛行機が出ちゃう!」
「そんな慌てなくても大丈夫だよ」
笑顔で手を引いてきたレミのことを頼もしく思いながら、ユリは考えていた。
日本に戻ったら母と話してみようと。
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