第38話 最終予選② 挽回

 韓国での練習初日、錠はグラウンドに出ると、若手たちが行う準備や整備を率先して行った。

 練習はこれまでのように別メニューとなったが、アップは皆と同時に行った。そばで見ていた一文字は、錠の体の線が以前に比べてはるかに太くなっているのに気付いた。ボールコントロールもやわらかく、確実に上達していた。それでも錠が全体練習には組み込まれなかったのは、カルロスに戦術上の思惑があったからでもある。

 錠は、やはり別メニューの一文字、そしてユキヤの近くに身を置きながら、ピッチの脇で代表選手たちのプレーを真摯な目で見守った。

 どの選手も今の自分よりも格段にうまい。なかでも抜きん出ているのが、やはり中羽だ。錠自身、本格的にトレーニングに取り組んだからこそわかることでもあった。

 この遠征で、錠はまたも中羽と同じ部屋になった。相変わらず会話はない。だが、以前とは違う目で彼を見ていた。

 中羽はたいていチェアに座り、ヘッドホンをしている。手にしているものから語学の勉強だとわかる。時々口からもらすイントネーションもそれを示唆していた。かと思えば、ときには何も持たず床に座り、静かに目を閉じてじっと動かない。おそらくなにかのイメージトレーニングだろう。それらの作業は、錠がいようといまいと、おかまいなしに行われた。

 ソウルに着いた日、中羽はホテルから枡田に連絡を入れていた。フル代表では同じポジションを争わされたが、彼らは五輪代表の同士でもある。挫折を知らないはずの男は、そうやって経験値を上げていくのだろう。

 部屋とピッチとにかかわらず、錠は中羽の立ち振る舞いをさりげなくも興味深くうかがった。

 グループリーグ最後の一戦、がけっぷちの日本はユキヤの登場も考えられた。しかし、当日の朝の調子はいま一つらしい。この大事な一戦もユキヤ抜きで戦うことになった。

 試合は、やわらかな日差しのなかで始まった。日本は勝つより他にない。ユキヤも友近も枡田もいない日本のフォーメーションは高村のワントップだ。

 開始からフルスロットルの日本が序盤は優位に立った。だが、チャンスは作るも簡単にゴールは決まらない。次第に攻めあぐね、さらには押されはじめていく。

 そんな状況でのことだった。前半三十分、攻撃陣が一瞬のきらめきを見せた。中羽の相手の隙を突くパスから高村のポストプレー、そこから抜け出した南澤のゴールで日本の先制点がうまれた。理想的な形での得点だ。

 ここから日本は勢いに乗りたかったが、相手は韓国だ。簡単な相手ではない。その後、試合はこう着状態に入った。

 錠は今までとは異なるスタンスで試合に臨んでいた。同じくユキヤもベンチからチームを見守っていたが、錠はその姿に心を引きつけられた。

「服馬、ナイスチャレンジだ。木田、今のカバーはよかったぞ」

 ユキヤはさかんに声を出して選手たちを鼓舞した。そして試合から決して目をそらさない。

「あのディフェンダーはよくボールウォッチャーになる。今のセンタリング、ボールしか見てなかったぞ」

 相手を見極めることにも余念がなかった。錠は改めてユキヤのサッカーに対する情熱を感じとった。

 試合はその後、両者相譲らず、前半は一対〇。日本のリードで終えた。

 ハーフタイム、錠はピッチに出てボールに触れながら、過去の己を省みた。

 俺、全然なっちゃいなかったな。

 錠は出番をイメージしながら、敵地の風と芝の感触を確かめた。

 試合は後半に突入。韓国は怒とうの攻めをしかけてきた。いつものように後半は後手にまわる日本。それでも日本は一丸となってゴールを守った。

 終了間際、ここまで押されっぱなしの日本だが、逆襲のなかでファウルをもらった。小原がスライディングで奪ったボールをクリアし、南澤が拾って果敢に前に出たところで足を刈られた。倒された南澤が小さく拳を握る。

 ベンチもここぞと動いた。選手交代。カルロスは守備固めではなく、攻撃の切り札を投入した。錠だ。

 この試合に勝つことは最低条件だが、UAEとの得失点差を考えて一点でも多く取っておきたい状況だ。

「決めてこい、錠」

 ユキヤに声をかけられた錠は、それを背で受け止め、戦地に赴く。

 日本が自陣からなんとか蹴り出して得たフリーキックだ。ゴールまでの距離は結構あった。

 錠はボールを膝元にセットしてゴールのほうを見た。過去二度のフリーキックとは状況が異なる。四十メートル近くはあろうか。

 だが、キッカーとしての錠もまた違っていた。

 バックスタンドの向こう、肌寒い韓国の空に白い雲が流れゆく。錠はその先に思いを運んだ。

 暑い夏だった。錠のこれまでで一番暑かったに違いない。

 前に向かおうとする者たちの熱が、角ばった氷の塊を溶かしていった。恐れていたはずのその熱は、今では大事なエネルギーだ。

 錠は立ち上がり、ピッチを見渡した。皆の顔がはっきり見える。ファウルをもぎ取った南澤が手を叩いてチームを鼓舞する。体を張ってこのボールを相手から奪った小原は、ポジショニングを確認しながら、外れかけたすねあてを取り去ってピッチの外に放った。

 色味を変えはじめた芝の上、錠は一歩一歩、測るように五歩下がる。

 錠は目の前の丸いモノトーンにいくつもの色を重ね見た。自分がここに立つずっと前から、ひと蹴りひと蹴りつながれてきたもの。それを感じ取った。

 まずは吹き飛ばす。目の前の壁を。そして俺の汚名を――。

 それが、自分をこの場に導いてくれた者の名誉を挽回し、苦しむ友の思いをつなぐことにもなる。

 錠はゴールに向かって助走を開始した。

 直接決めるのは無理だと誰もが思った。きっとどこかへパスするのだと敵は考えた。

 しかし、錠の右足から放たれた虹は、大きく強く弧を描き、空を切り裂きながらゴールに吸い込まれていった。

 終了間際の二点目だ。

「どうだっ!」

 錠は胸のエンブレムを破れんばかりにつかんだ。

「う、嘘だろ、あんな遠くから」

 トレーニングの成果が出た。以前よりパワーがついたぶん、スピード、距離が飛躍的に伸びた。

 ピッチ上で手荒いもてなしを受け、素直に身を任せる錠。ベンチでも全員が立ち上がって歓喜の声を投げつけた。スタンドの一部からはジョーコールだ。

 試合再会後も、カルロスは錠をピッチに残した。錠は相手の想定を上回る走力で前線でのディフェンスに貢献し、もう一度チャンスが来るのを待った。

 その後 フリーキックの機会は訪れなかったものの、リードを保ったままタイムアップ。二対〇で宿敵を下し、第三代表決定戦へ望みをつないだ。

 あとはUAE対カザフスタンの結果次第だ。勝ち点三を取った日本は二位のUAEと勝ち点で並んだ。しかし得失点差、総得点で下回る。この結果、決定戦に進むにはUAEが二点差で負けるしかない。依然厳しい状況だ。

 その夜、日本の選手たちはホテルでその結果を待った。ロビーでは中堅選手たちが集まり、UAE対カザフスタンの中継を見ていた。

「なんか嫌だな、他のチームより先に日程終わるのも」

「気象の関係で向こうの試合がずれたんだからしょうがないさ」

「それにしても、UAEが不調のカザフスタンに負けるとは思えんな」

 そこへ通りかかったユキヤが彼らの肩を叩く。

「弱気なこと言うな。コンディションは整えておけよ」

「あ、はい」

 いつもの笑顔を見せ、ユキヤは去った。

「さすがユキヤさんだな」

 そのときだ。テレビが歪んだ音を鳴らした。

 ゴール! 

 カザフスタンが点を取った。日本の選手たちが歓声を上げる。

「よーし、あと一点」

 その後、UAEが反撃に出て攻め立てたが、日本代表が食い入るように見守るなか、逆にカザフスタンが追加点を挙げた。そして、そのままタイムアップを迎えた。

 日本選手は皆、声を上げて躍り上がった。

「よっしゃあ!」

 他の場所で見ていた南澤や小原らドーハ組も集まってきた。

「得失点差一点リードで、なんとか第三代表決定戦か」

「ああ。あの時の俺のゴールが効いたんだ」

「いや、俺の一点だろ」

「お前、それ一次予選だろ」

 皆、輪になって子供のようにはしゃいだ。どのゴールも大事なことはわかっている。それでも今はそうやって笑い合った。

「じゃ、一番最後に決めたのは誰だっけ。それが決勝点だろ」

「あ、あいつ」

「虹か」

 森波と服馬はそう言って顔を見合わせた。

「ああ、そうだ」

「虹だ、虹。あっはっはっは」

 選手たちは手を叩いて大笑いした。

「おい、決定戦に出るぐらいで浮かれてたら虹に馬鹿にされるぞ」

 そう言う南澤の顔も無邪気そのものだった。

 結局、もう一点取りにいったレインボーのあのゴールが効いた形となった。

 部屋で結果を聞いた錠は、すぐに次の試合をイメージしはじめた。

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