第37話 最終予選① 苦境

 まだ暑さの残るなか、錠、そしてユキヤもいないまま最終予選は始まった。約三ヵ月に渡る、ワールドカップ出場を懸けた過酷な戦いの幕開けだ。

 最終予選の方式をおさらいしておくと、まず一次予選を突破した十ヶ国がA、Bの二グループに分かれ、ホームアンドアウェイ方式で戦う。一ヶ国あたり全八試合を行う勘定だ。

 各グループでそれぞれ一位になった二ヶ国は、そのままアジア代表としてワールドカップの切符を手にすることになる。さらに各グループ二位同士が第三代表決定戦を行い、勝てば出場権を得ることができる。負けた場合はオセアニア代表オーストラリアとのプレーオフになるが、現在の力関係から見てこれは考えてはいけない。

 とにかく、日本代表はグループBを一位で予選突破、これが使命であった。

 最終予選に入る直前の合宿メンバーに錠の名前はなかった。だが、今回の規定では、各試合の前日までに代表メンバーを登録すればよいことになっている。そのため、選手の調子や相手に合わせてチームを編成することが可能だ。カルロスの決断次第で、第二戦以降の錠の追加召集もありうるわけだ。

 今回は一文字を含む一次予選とほぼ同じメンバーが召集され、友近もひとまず代表に選ばれた。

 ホームで行われた初戦、日本は大観衆の前で幸先の良いスタートを切った。快勝だった。友近は控えとなったが、代わって枡田をフォワードに起用、司令塔に定着した中羽ヒロのゲームメイクで主導権を握り、南澤、高村らが得点を重ねた。得点不足に苦しんでいた日本も、これで中羽を中心とした攻めが確立され、不安は解消されたと思われた。

 だが、これ以降は苦戦が続いていく。依然友近はコンディションが上がらず、戦術的なことから枡田も調子を下げ、チーム全体が停滞していった。

 二戦目は無得点の引き分けに終わり、ホームで行われた三戦目で日本はライバル韓国に逆転負けを喫した。韓国はその後、勢いに乗り、早々とグループBの一位を確定。ワールドカップの出場を決めた。

 日本に残された道はグループBで二位を確保し、グループAの二位との第三代表決定戦に出る、もはやこれしかなかった。

 しかしそんな厳しい状況にもかかわらず、その後も攻撃が空回りし続け、勝ち点を伸ばせない試合が続いた。

 錠はその間も、昼は就職活動、夜はトレーニングに打ち込んでいた。怪我の状態は良好、完治まで間もなくという状況だ。就職が決まるまではそちらを優先と決めていたが、代表の情報はやはり気になる。試合の中継はもちろん、ニュースや日経の紙面には必ず目を通した。

 秋の気配が深まり、いよいよあと二試合というところ、日本はグループBのなかで五チーム中三位と苦境に立たされていた。

 この状況で二位のUAEをホームに迎えることになった。

 負ければそこでフランスへの挑戦は終わりとなる。勝てば勝ち点で並び、引き分けでも最終戦へ望みをつなぐが、その最終戦はアウェイでの韓国戦だ。その前に、なんとしても勝ち点三をここで挙げておきたかった。

 だが、負けなかったものの、日本はまた勝てなかった。またしても得点できずに引き分けとなった。中羽へのマークは厳しく、攻撃陣にもミスが続き、高村も南澤も決定機を外した。さらに終盤に相手に押し込まれ、防戦一方になるのは加瀬ジャパンのときから変わらない課題だ。

 そして、毎度のふがいないプレーにサポーターの怒りがついに爆発した。

 彼らは試合後、競技場の出口を取り囲み、バスに乗り込む選手たちにブーイングを浴びせた。ここまではよくあることだ。だが、一人の男が選手に向かって物を投げつけた。それを引鉄に数人が投げつけた。同時に観衆が怒号を投げつける。物を投げたのはわずか数人だったが、喧騒と相まり、そこにいるすべてが代表に向かって牙をむいたかのようだった。

 選手たちは逃げるようにバスに乗り、追いかけるように罵声が飛び交った。

 最後尾にいた南澤が叫ぶ。

「てめえら、なんだと思ってんだ!」

 それを夜のニュースで見た錠は、拳を震わせた。

「まだだろう。そうだろ、ゲン……」

 翌日、錠は昨夜の余韻に焦がされ続ける体をスーツで覆い、部屋を出ようとしていた。

 そこへ電話のベルが鳴った。すぐに受話器を取る錠。しばしの会話のあと、思わず声を弾ませた。

 火照った顔で錠は受話器を置いた。すぐにでも連絡を入れたい相手は勤務中だ。その顔を思い浮かべながら、目頭を押さえる。

 一息ついて、錠は再び受話器を手にした。その日の訪問先にわびたあと、さらに一本の電話を入れた。

「就職、決まった……」

「おお、そうか。よかったなあ」

「うん」

「よかった、よかった」

 カルロスは自分のことのように喜んだ。そして錠の気持ちをくんでこう言った。

「待ってたよ」

「ああ――」

 翌日、ソウルでの韓国戦のメンバーが発表された。そこには流本錠、その名があった。そして、あの水浦行矢の名も。

〝ユキヤ復帰〟

〝帰ってきたエース〟

〝完全復活〟

 ユキヤはまだ万全ではなかったが、紙面はそう騒ぎたてた。それとは対照的に、

〝不可解! ジョーもついでに〟

〝エースとジョーカーならぬババ、同時復帰〟

〝おかげでスターはじきだされる〟

 など、多くの記事は依然として錠には手厳しかった。

「まあ気にするな」

 決戦に旅立つ直前のトレーニングで、カルロスは錠を笑って慰めた。

「いや、全然。それよりユキヤさんと俺が一緒って」

「何も不思議じゃないよ」

「おっさんもいるし、なんかさ」

 今回、初めて三人が同時にメンバーに名を連ねることとなった。

「それぞれに特長がある。それを活かしてほしいんだ。だから錠も必要なのさ」

 自分の役割はわかっている。起用はカルロスに任せるしかない。自分はそのときのために準備をするだけだ。

「それより友近は」

 友近は調子が戻らず、ここまで出番もなかった。攻撃陣二人の復帰で今回の遠征メンバーから枡田とともに外れた格好だ。

「テツさんと相談した。そして僕の監督としての結論だ。わかってくれると思うけど」

「……ああ」

「それだけ僕らが錠に期待してるってことだ。テツさんは前に言ってた。ユキヤが戻ったとき、錠がチーム戦術で機能するなら自分の代表の座を譲ってもいいって」

「代表の座を? そんな……」

 錠は何度か首を横に振った

「今、日本のおかれた状況はあのときに似ている。もうあとがない」

 カルロスは前回大会のドーハを振り返った。 

「テツさんに最終戦を託された僕たちはその思いをつなげなかった。今度はどんなことがあっても、僕らはあの日のテツさんに応えなきゃならない」

 カルロスの目は熱くうるんでいた。錠はその思いを継ぐように、口をきつく結んでうなずいた。


 敵地へ向け出発の日がきた。今度の戦いはまさに崖っぷちの戦いだ。この韓国戦、負ければ言わずもがな、引き分けでもその時点でフランス行きは消えるのだ。さらに、勝ったうえでUAEの次戦の結果を待たねばならない。

 韓国のソウルでグループ二位を決めれば、日本代表はそのまま第三代表決定戦の地、マレーシアのジョホールバルへ向かう。アジア予選が終わるまでは日本には戻ってこないということになる。

 出発の朝、支度を終えた錠は玄関に腰を下ろした。念入りに靴ひもを結んだあと、顔を上げて前を見据えた。

 この戦いはあの日、あの向こうへ出たことから始まった。竹内が誘ってくれて、加瀬が拾ってくれた。

 錠は立ち上がり、さらに彼方へ目を移した。

 テレビで見たあのフリーキックの衝撃に、思わずボールを手に取った日。忌まわしい記憶の象徴として部屋の隅に追いやっていたあのボールを抱え込み、夜に飛び出していった。

 すべてはあのときから、いやもっと前から始まっていたのかもしれない。そう思った。

 錠は荷物を背負い、振り返らずにノブを握った。

 そしてドアを開け、舞い込んでくる風に逆らうように踏み出した。

 通りに出るとちょうど通勤通学の時間帯だった。車の量に比べ、人の往来はそれほどでもない。

「ジョー!」

 黄色いランドセルが、マンションの前で錠を見るなり声を上げた。あの子だ。通行人が振り向きながらも先を急ぐ。

「ジョー、いってらっしゃい」

 錠は苦笑いのあと、しゃがんで黄色い帽子に手を触れた。

「おう」

 白い歯を見せてその目に応える。

 子供のくせにわかっている。この子を裏切っちゃいけないと錠は思った。

 空港では、盛大に見送られるユキヤや中羽らに比べ、錠は冷ややかな目で見られていた。選手たちは大勢の記者に囲まれてそれぞれ取材を受けていたが、錠はひとり離れて背を向けていた。

「よう、錠。なんか締まった顔になったな。少しは大人になったかよ」

 岡屋は相変わらずだった。

「まあな」

 錠も無愛想は相変わらずだが、攻撃的ではなかった。

「ほれ」

 岡屋が何か差し出した。代表グッズの一つ、ユニフォーム姿のマスコット人形だ。錠はけげんな顔で岡屋を見たが、岡屋のキャリーバッグに同じものがぶら下がっているのが目に入った。

「ヒロも付けてる」

 振り返った先に、記者に囲まれる中羽のうしろ姿。傍らのキャリーバッグには同様のグッズが付けられていた。グッズの背中に何やらアルファベットが見える。

 錠は岡屋から人形を受け取り、裏返した。そこには〝TOMO〟と刺繍がされていた。

「ヒロや俺はもう一つ、枡田のもある」

 錠も同じように付けるべきか思案するうちに、岡屋は立ち去った。「ジョー」

 再び声をかけられ顔を向けると、後方から近づく三人組。それはゲン、そしてカトとミタだった。錠は軽く目を伏せたが、カトとミタの頭や腕に巻かれた白いものに再び目をとめた。

 何か言われる前にと、ゲンが口を開いた。

「まあ、ちょっといろいろあってね。ただ、こいつらも無意味に暴れたわけじゃあないぜ」

 その言葉に続けて、カトとミタがまくしたてる。

「俺らが代表を守るって言ったろ」

「代表を冒とくするやつらは許さねえんだよ」

「今こそ応援しなきゃ、サポーターだなんて言えるわけがない。愛がなきゃ、代表に文句言う権利なんてないさ。そうだろ」

 彼らの口調はいつものようにいきりたっていたが、錠は状況を察した。

「なるほどね」

「枡田はいないけど、俺は日本を応援する」

「俺たちは枡田を誇りに思ってる」

 枡田のユニフォームをまとい、カトとミタは彼への思いを表した。

 思い返せば、枡田はユキヤ不在の日本を支えねばという重責を背負って孤軍奮闘していたのではないだろうか。独りよがりなプレーも多くあったが、決して利己的な人間ではなかった。錠はそう思った。かたくなな自分に最初に声をかけてくれたのも枡田だった。

「今も枡田やトモは代表の一員だ」

 テンションの高いカトたちの前に、ゲンが一歩踏み出した。

「あれからはっきりわかった。なんで応援するのか、なんで代表が勝ったらうれしいのか」

 半身の状態で聞いていた錠は向き直った。

「俺たちもニッポンの一員だからだ」

 ゲンの言葉に、カトとミタがそのままのテンションで続ける。

「俺たちは俺たちのやれることをする。できないことは任せた」

「今度は頼むぞ。特訓の成果見せてくれ」

 口々に思いをぶつけ、カトとミタはその場を離れていった。

 錠は、他の選手のところへ向かうそのうしろ姿を黙って見送った。

「ジョー、言いにくいんだけど」

 一人残ったゲンが、頭を軽くかきながら口ごもった。

「あのさ、錠と言い合ってから、あいつらも俺もいろんなこと考えて、改めて気付かされたよ」

「ん?」

「俺たち、試合で応援の指揮をとるだろ。正直言って、大勢のサポーターを動かしてると偉くなったような錯覚に陥ることもあるんだ。代表に対しても初めはさ、声かけて振り向いてもらっただけ

でうれしかった。それだけで。でも俺たちみんな、あのころの思いを忘れてたのかもしれない」

 錠の口元がふと緩む。

「お前らだけじゃないさ」

 二人の視線をつなぐ空気は明らかに以前とは異なっていた。

「でも、お前ら大丈夫か? また相手ともめたり……」

「なあに、怒りも愛情の裏返しさ。連中も俺たちと同じサポーターだ。分かりあえるさ」

 ゲンは照れ笑いを浮かべながら言った。

「俺たちはサポーターの代表として全力をつくす。向こうで会おう」

 向こうで――。

 やがて日本代表チームは、一つの思いを抱いて飛び立った。

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