第13話 錠、その過去とレインボー

 ある日、錠はたまたま回したチャンネルで自分が特集されているのを見た。オマーンラウンドの

ときの様子をVTRで流し、コメントを加えるだけの番組は結構お目にかかるが、ここではレインボーキャノンの解説がなされていた。

「軸足をボールのすぐ横に踏み込むのが基本なんですが、彼の場合はかなり前に踏み込んでいます」

 解説者は元代表選手だ。

「これによって蹴り足はボールを体のかなり後方でとらえることになるわけです。このメリットは、インパクトの時間が長くなるという点です。インパクトの時間が長いとそれだけ威力が増します。そしてインパクトの瞬間、足首は伸ばさず、曲げたまま蹴ってますね。これは回転をかけるときに有効な蹴り方です。この二点によって、強烈な回転のシュートが打てるわけです。これがレインボーキャノンです」

 それを聞いて錠は鼻で笑った。

「へっ、惜しいけどちょっと甘いな。それにあれの名は〝レインボーキャノン――虹をみたかい〟だっての」

 同じ日、他の番組でも錠の特集があった。

〝虹をかける男の正体、ついに明らかに〟と題されたそのコーナーは、不詳とされていた出身地や高校も調べられていて、地元の知人のコメントも入っていた。

 テレビを前に、錠は思わず身を乗りだした。

 インタビューに応じた中学のクラスメートは、当時の錠についてあまり印象はなかったとコメントした。錠もその相手との交流の記憶はほとんどなかったが、そもそもクラスに友達などいないに等しかった。別にぞんざいな扱いを受けていたわけでもない。自ら周囲とは距離を置いていた。

「こっちこそ、お前らに興味なんてないっての」

 高校時代のサッカー部の監督はこう語った。

「そうですねえ、素質はあって期待もしてたんですけど、まあ事情があったんでしょう、途中で退部しまして」

 錠は、監督からは相手にもされていなかった。覚えているのが不思議なくらいだ。期待していたというのは社交辞令にしか聞こえなかった。

「こいつら勝手にテレビに出てんじゃねえよ」

 以降、特に気になる話題は出てこず、番組を見終わった錠はひとり胸をなでおろした。が、彼らのコメントは、いやおうなしに過去の記憶を運んできた。

 高校時代、錠は一年で部活を辞めたあと、やりたいことも特になく、ただ家と学校を往復するだけの日々を送った。姉はすでに東京暮らしで家におらず、母の帰りはいつも遅い。帰宅後はほとんど一人だった。テレビと、姉が出ていったあとに買ってもらったゲーム機だけが家族のようなものだった。

 母は朝も早く、錠が起きたときにはもう出かけていることが多かった。朝食と弁当は用意してあったが、いつも豪勢な見栄えのするものだった。それもそのはず、それらはほぼ全て、旅館の余りものが使われていた。夕飯はいつも下校時にコンビニで買って帰った。

 母が働きはじめた小学校時代、錠は母が仕事から帰るとすぐにちょっかいを出して甘えていたが、そのたびに姉にひどく怒られた。

 物心ついたときから母は穏やかな人で、幼少期は特に可愛がられた記憶があるが、仕事に出るようになってからというもの、月日を重ねるごとにどこか自分を見る目が冷たくなっていくと感じていた。

 寂しさがよぎるたびに、母や自分たちを捨てて出ていったアノヒトのせいだと怒りをおぼえた。

 思春期に近づくにつれ、次第に錠のほうから母と距離をとるようになった。母が仕事から戻っても、自室にこもったきり、顔を出すこともなかった。

 やがて高二の冬になり、進路を決めねばならなくなった。特に進みたい道はなかったが、東京へ出て一人暮しをしてみたいという思いはあった。

 当時から働くことなど想像もできなかったので、最も無難な選択は進学だ。経済的にどうかとも思ったが、姉が専門学校に通うために上京しているのだから、自分が許されないはずはない。姉がいることで困ることはないし、母も安心だろう、そう思った。

 どうせ家でもいっつも一人だし、食うのも弁当だしな……。

 むしろ自分がいないほうが気楽だろう、そう思い込んだ。

 進学の思いを告げたのは、学校での三者面談の席だった。

 三年生になると、さすがの錠もとりあえず机に向かうようになった。だが、なかなか身が入らない。ただ漫然と机の前で呆ける日々が、秋口まで続いた。

 ちょうどそのころ、アメリカワールドカップのアジア最終予選が行われていた。列島中がサッカーで沸き上がり、錠も中継のある日は欠かさず見た。

 その予選の大事な試合で、日本のある選手がフリーキックを直接ゴールにたたき込んだ。あのときの実況は今も鮮明に覚えている。

『ボールをセットして、さあこの距離、どうする? 目の前には敵の壁。――直接狙った! ああ、入った! 壁を打ち抜いた! 日本勝ち越しのゴール!』

 それ以来、錠は近所のグラウンドにサッカーボールを持って出かけるようになった。小さな町のほとんど使われていないそのグラウンドは、道路との境に高いフェンスがあり、その手前には大人の背ほどのブロックの壁があった。野球やもうちょっと大き目のボールをぶつけた跡が、あちらこちらに残っていた。

 ここらは晩を過ぎるともう誰もいない。通りの街灯をたよりに、錠は壁に向かってひとりボールを蹴った。

 リフティングはする気にはならなかった。できて五、六回だ。誰も見ていないにせよ、ミスして転がっていくボールを追いかけるのは嫌だった。壁に蹴れば戻ってくる。

 やがて、テレビで見たあのキックをイメージするようになった。まっすぐ、相手の壁をぶち抜くような弾道。ゴール前に並んだ相手ディフェンダーたちの腕を削るように打ち抜いて決めたフリーキック。

 どうすれば、あの人みたいに蹴ることができるのか――。

 しかし、その迫力は錠にはとうてい出せるものではなかった。

 毎日のようにボールを蹴るうち、錠はボールを変化させることにこだわるようになっていった。錠が壁の向こうに決めるには、軌道を曲げるより他にない。

 壁を越えてから落とすんなら、もっと縦に回転をかけたらいいんじゃないか――。

 錠は日々、いろいろな蹴り方を試してみた。

 ボールを下から上にこすって蹴るにはどうすりゃいいかな? 普通に甲で蹴りにいったらボールの真ん中を蹴っちまう。

 そうか。足首は伸ばさず、つま先をボールの下にもぐりこませたらいい。

 でもこれだけじゃ、つま先がボールの下に当たった時点ですぐに飛んでいく。それも逆回転で目

の前に落ちてしまう。

 そうだ! 

 体のうしろのほうで捕らえたら、ボールが足から離れるまでにこすり上げる時間とれるぜ――。

 錠は己の理論をボールに込め、壁の向こうに向かって蹴り続けた。

 そして、ついに思い描いたとおりのボールを蹴ることに成功した。その足から放たれたボールは目にもとまらぬ速さで壁を越え、そして急降下して壁の向こうに姿を消した。

 理屈はこうだ。ボールに縦回転をかけるためにボールの下につま先をもぐりこませ、下から上にこすり上げる。ただし、つま先でボールの下を蹴った時点で飛んでいっては縦回転をかける余裕がない。そこで体の後方で、足の甲とすねで挟み込むように引っかけてすくい上げ、ボールの離れていくポイントまでにこすり上げる時間をとる。そのために軸足をかなり前に踏み込むわけだ。

 キックの名手の多くは回転をかける際、甲のやや内側でボールの下をこすり上げるように蹴っている。そのあたりの情報がない錠は、自ら回転をかける理論にたどり着いた。内側ではなく、甲全体で蹴ることによって強いキックが打て、さらに後方でとらえることでボールに触れる時間が長くなり、威力も増すという副産物があった。これによって、驚異的なドライブ回転のシュートが生まれることになった。

「へへ、これはすごいや。大学入ったら驚かせてやる」

 やがて完璧にマスターしたが、結局人前で見せたのは大学一年の冬になってからだった。竹内に誘われて通っていたサークルの試合で一度だけ、自分をあざ笑うやつらの前で見せつけた。ブランクは関係なかった。それほど自分の体にこのキックはしみついていた。

 しかしそれ以降、加瀬の目にとまるあの日まで一度も蹴ることはなかった。

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