死期臭

そうざ

Smell of Death

 その老朽化した玄関で、ご免下さぁい、と三回呼び掛けた時、僕ははっとした。

 宅配便ドライバーのバイトを始めて三ヶ月、いつの頃からか、僕は訪れる各家のニオイに注目するようになっていた。

 各々の家庭には各々のニオイがある。玄関に足を一歩踏み入れた途端、それは僕の鼻を捉えるのだ。一番多いのは料理の匂い。カレーや揚げ物、焼肉や餃子、思わず腹の虫が鳴る。新築の家は、畳みや木材等の真新しい匂い。旧家を訪ねると、それ相応の古めかしい匂いがする。男鰥夫おとこやもめらしい寂びれたアパートからは汗のにおい。はたまた、気取った女がまとう香水の臭い。生乾きの洗濯物の臭い。犬の臭い等々――ニオイ一つで、その家庭の有り様を彼是あれこれと想像してしまう。それは、僕の密かな愉しみになっていた。

 そして今、僕は良い匂いとも嫌な臭いとも言えない不可思議なニオイを嗅いでいる。

 そこで、またはっとした――このニオイ、昔、何処かで嗅いだ事がある。

 路地裏の平屋建て、格子作りの引き戸、薄暗くて狭い三和土たたきの玄関、高い上がりかまち――そんな幾つかの似たような条件が相俟って、過去の記憶を呼び起こさせたらしい。


 小学生の頃だ。

 あれは何の用事で訪れたのだろう。最初で最後、一度だけの訪問だった。

 近所に見窄みすぼらしい木造モルタルの平屋があった。得体の知れないその家は周辺から孤立していて、人が暮らしているのかもよく判らず、子供心にも不気味に映っていた。

 泥濘ぬかるみを避けながら細い路地を進んで行く。夕暮れに近かったのか、両脇に背丈を越える程の生垣が配されていたからなのか、やけに薄暗かった記憶がある。

 路地の突き当りに窮屈そうにうずくまるように、その家は息を殺して存在していた。呼び鈴はあったのだろうか。あっても壊れていたのか、今日は、と声を掛けたが、反応はなかった。余程、帰ろうかと思ったが、何かしらの用事を言い使って来た筈の僕は、曇りガラスのはまった引き戸に手を掛けた。鍵が掛かっていれば引き返す理由になったが、戸は建て付けも悪くなく、すうっと開き、屋外おもての薄暗さ以上に陰気で狭苦しい玄関が垣間見えた。

 その時、くだんのニオイが鼻をかすめたのだ。

 改めて、今日は、と発した。何度か呼び掛けた筈だが、玄関と室内とを仕切る黄ばんだ障子戸が僕を無情に突っねるばかりで、物音一つ聞こえない。

 ニオイは次第に強くなり、途方に暮れる僕をより不安にさせた。そして、不安は限りなく恐怖に近接して行った。

 やっぱり帰ろうとしたその時、家の奥からか細い奇声が聴こえた。おののいた僕は反射的に退き、玄関の引き戸にぶち当たってしまった。曇りガラスががたがたと音を立てた。

 すると、奥から人の気配が近付くや否や、障子戸が勢い良く開き、仁王立ちした小太りの小母おばさんが姿を現した。その面相よりも、見下みくだすような眼光が印象に残っている。

 そこで二言三言ふたことみこと、言葉を交わした気もするが、僕はしどろもどろだっただろう。泥濘ぬかるみも構わず逃げるように路地を走って帰った事は、鮮明に覚えている。

 しかし、本当に恐怖を感じたのは数日後だった。あの家から葬式が出たのだ。

 何でも、年老いた親子の二人暮しで、僕の会った小母おばさんが寝た切りの父親の世話をしていたらしく、その父親が急死したのだと言う。死因は窒息死。父親は長らく嚥下えんげ障害を患っていて、小母おばさんが目を離した隙に食べ物を喉に詰まらせたらしい。

 その頃はまだ自宅で葬儀を執り行う家が珍しくなく、近隣のよしみで僕の両親も一応、顔を出した。幸い、子供の僕は駆り出されなかったが、葬儀の一切が終った後もしばらくは落ち着かない日々を過ごした。僕の中で、恐ろしい想像がめぐっていた。

 あの時、家の奥から聞こえたか細い奇声は、寝た切り老人の断末魔ではなかったのか。小母おばさんの眼には、そう思わせる尋常ではない暗い光が宿っていた。

 だが、全ては状況証拠でしかない。自宅での不審死という事で警察の捜査も入ったが、事件性はないとの結論が下され、一件は終息した。近隣住民にとっても、全く親しくもないお宅で長患ながわずらいいの年寄りが亡くなっても、大した出来事と感じなかったようだ。

 結局、僕の勝手な想像も直ぐに平凡な日常に埋没してしまった。その後、あのニオイを嗅いだ記憶はない。癌で入院中だった祖父の臨終に立ち会った際も、転倒事故で救急搬送された祖母の枕元に駆け付けた時にも、何のニオイも感じなかった。

 あれは、不気味な家を訪問する緊張感が作り出した錯覚だったのか。にもかかわらず、まさに残り香のように、禍々まがまがしい記憶をじ開ける暗号として、あのニオイは僕の脳裏に刻印されてしまった。


 間違いない。あの時と同じニオイだ。

 相変わらず、僕の呼び掛けに応える声はない。やけに大きなテレビの音声だけが、玄関にまで漏れ続けているだけだ。

 施錠するまでもなくちょっとそこまで外出している可能性もあるが、僕は嫌な予感に揺れ始めていた。

 死期臭しきしゅう――突然、そんな言葉が思い浮かんだ。

 死にぎわの人間が発散するSOS信号のようなニオイ。そして、それを感じ取れるのはごく一部の人間で、僕がその一人だとしたらどうだろう。

 また少年時代の記憶が蘇り、想像が具体的な形を成した。

 小母おばさんが年老いた父親に食事を与えている。いつもより大きくて硬い食べ物をどんどん口の中に詰め込んで行く。やがてもがき苦しむ父親。その姿を冷たく鋭い眼光で傍観する小母おばさん。その一部始終を、玄関に居ながらにしてニオイで察知していた僕――過日と同じ事が今、起きようとしている。

 意を決した僕は、届け物を三和土たたきに置き、上がりかまちに足を掛けた。人命救助となれば、家宅侵入の罪には問われないだろう。僕は、一種の使命感に突き動かされていた。

 障子戸を開けると、死期臭しきしゅうは更に濃厚になった。四畳半の茶の間。テレビの通販番組が大仰な声を上げている。黄ばんだ襖を開けると、細い廊下が奥へと続いていた。僕は、導かれるように歩を進めた。

 あの日以来、死期臭しきしゅうを嗅ぐ機会がなかった理由が今、解った気がする。死期臭しきしゅうは、病死や事故死の際には発生しない。殺人の時に限り、殺される側が助けを求めて無意識に発散するものなのではないだろうか。

 突き当たりの板戸の細い隙間から、納戸らしき暗い空間が口を開けていた。中に人の気配を感じた僕は、思い切って板戸を全開した。

 果たして、そこに人影があった。が、はっとするが早いか、人影は僕に体当りをして来た。たちまち下腹部が熱くなった。人影は脱兎の如く玄関の方へ走り去ってしまった。追い駆けようにも下腹部の熱さが痛みに変わり、僕はその場に崩れ落ちるしかなかった。

 箪笥や戸棚が開け放たれ、周囲に物が散乱している。明らかに物色の形跡あとだった。仰向けになった僕は、自分が壺やら掛け軸やら骨董品らしき物品に囲まれている事に気付いた。四肢の痙攣を押さえながら、こんな襤褸家ぼろやなのに意外と金持ちなんだな、と思った。

 全身にあふれる脂汗の臭い。漏れ出した小便の臭い。畳を染め始める血の臭い。そして、その全てを凌駕して行く死期臭しきしゅう――。

 朦朧もうろうとする脳裏で、殺される側が助けを求めて無意識に発散するニオイ、という解釈だけでは不充分だと気付かされた。

 死期臭しきしゅうを感じ取る特殊能力は、他人にだけでなく、発揮される。そしてそれは、これから起きる殺人を一種の予知能力だったのだ。

 玄関の方でこの家のあるじらしき声がした。

「あら、荷物が届いてるわ」

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