4話

 あれは、小学校に上がったばかりの頃だった。その日はとても風が強くて、お母さんは小さな私が怪我をしないよう、ずっと手を握って歩いてくれていた。その手がなんだか温かくて、歩き疲れてしまっていたのもあって、私は、お母さんに抱っこをせがんだ。


 信号待ちをしている時も、私は抱っこしてもらったまま、うとうとしながらお母さんに抱き着いていた。


 突然、お母さんの悲鳴が聞こえて、私は宙に投げ出された。その直後、お母さんは落ちてきた看板に押しつぶされて死んでしまった。


 劣化と強風が原因だったそうだ。看板は、その場にいた数名の人生を簡単に奪い、事件はニュースや新聞でも取り上げられた。手入れがなされていなかった看板について、罰を受けるべき人達は罰を受けた。もう十年近く昔の話だ。


 でも、私は思うのだ。もしあの時お母さんが私を抱いていなければ、お母さんは看板につぶされる前に逃げられたのではないかと。


 その話をすると、お父さんは悲しそうな顔をして否定した。事件のショックから立ち直れないのだと心配して、精神科医を見つけてきた。


 その先生の助けもあり、私はようやく人生を楽しもうと前向きな考えもできるようになってきたと思う。でも、あの日の事を忘れる事はとてもできない。何度も何度も、繰り返し母の死に顔を夢に見る。面影すら残らないほど、潰れてしまったあの顔が、頭から離れない。


 あの事故の夢に見る度、母は私を責めているのではないかと考えた。


 なぜなら、あの事件の日から今日に至るまで、私は度々お母さんの幽霊を見た。その幽霊を見た直後、あやうく交通事故に巻き込まれかけたし、手すりが壊れてベランダから落ちそうになった。


 その度に、私は思ったのだ、お母さんは私を恨んでいるのではないかと。あの日、私はお母さんの代わりに死ぬべきだったのではないかと。


 ———――


 お母さんは、静かに私の話を聞いていた。顔が無いから、どんな表情なのかわからない。そもそも、顔があったところで、あの状態じゃ表情すらわからない。思えば、お母さんの幽霊に首が無いことは救いだった。お母さんの死に顔は、夢に見る度辛いから。


「本当は、私を助けた事後悔してるんだよね? もっと生きていたかったのに、私なんかを助けて死んじゃったから、私の事が許せないんだよね? 私がお母さんの代わりに死ねば良かったのにね」


 伸ばされるお母さんの手。思わず後退りすると、その手は虚しく空を撫でた。


「でもね、私だって死にたくないんだよ。学校は楽しいし、好きなものが買えるなら、バイトだってそんなに辛くないし。それに、最近は彼氏もできたんだよ」


 待ち受けにしている、彼の写真を見せた。


「ね、こんなにカッコイイ人に、駅前でナンパされちゃったんだよ。お父さんには内緒だけど、今日デートする約束なんだ。レストランに連れてってくれるんだって。だから、ね……もう許してよ。私だって、生きて幸せになりたいよ」


 お母さんは、私の方へ伸ばしていた手を、ゆっくりと降ろした。その手が震えていたことに、私は気付かないふりをした。


「河瀬さん……」


 一部始終を見ていた細井君が、お母さんの方を見ながら、私の方へ歩いてきた。


「……もうすぐ17時になるけど」


 ハッとして時計をみれば、時計の針があと2分という所まで迫っていた。

 

「あ、ヤバっ! 遅刻しちゃう」

 

 急いで荷物を纏めていると、細井君が数枚の紙の束を差し出してきた。


「さっき使った魔除け。ドアとかに貼っとくと大抵の霊は入ってこられないから。儀式中に出てきた幽霊がまだその辺にいるかもしれないし、念のため。……札が破られても、時間稼ぎにはなるだろうし、よかったら使って」


「ありがとう。……色々、本当にありがとう」


「いや、いいよ。気にしないで……」


 細井君は、何か言いたげにしていたけど、諦めたのか視線を下した。


「今日の埋め合わせはするから」


「いや、そうじゃなくて、お母さんの事!」


 咄嗟にそう口に出してしまい、引っ込みがつかなくなったのか、細井君は決心したように、真っすぐ私の眼を見た。


「代わりに死んで欲しいなんて、俺はそう思わないよ。もし俺が同じ立場にいたら、命を投げ出してまで守った人に、死んで欲しかったとはきっと思わない。それに、河瀬さんのお母さんが亡くなったの、河瀬さんのせいじゃないよ」

 

「細井君は、優しいね」

 

 私の声に、細井君はハッとして、目をそらした。

 

「お医者さんもね、前に同じこと言ってくれた。『自分を大切にしてください』って付け加えてくれて。嬉しかったよ。でも、私の中のお母さんは許してくれないんだ。私の不幸を望んでいるんだよ」

 

 堪えようと思っていた涙が、目から零れ落ちた。

 

「お母さんの幸せを奪った私が幸せになるなんて、きっと許してもらえない。それでも、私は幸せになりたい。いつか、あの頃のお母さんみたいな、優しくて強いお母さんになりたい」


 唇の端が、弧を描いた。


「私を好きだと言ってくれた人は、私の事を褒めてくれた。お母さんゆずりのこの黒髪が素敵だって。きっと、きっと私を幸せにしてくれる。お母さんに許してもらえなくても、あの人が私を幸せにしてくれる」


 私は、精一杯笑顔を取り繕うとした。でも、どうしても涙が止まらない。大好きなお母さんに許してもらえないのが、悲しくて、仕方がない。


 細井君が、困ったような顔をして頭を掻いた。


「ごめん、ごめんね本当に。こんな事に巻き込んじゃって。しょうもない親子喧嘩でごめん」


「いいよ。……それより、時間大丈夫?」


「あはは……うん、ヤバイかも。もう行かなきゃ」


 細井君に手を振って、私は待ち合わせの駅に急いだ。


 夕方の駅は混雑していたけど、なんとか待ち合わせの15分前についた。化粧室の個室で着替えを済ますと、鏡の前でメイクを整える。髪を結ぼうとポーチの中の髪留めを探した。取り出した髪留めの装飾が、ふと私の過去を呼び起こした。


 ……そういえば、この髪留めお母さんに貰ったんだよね。お母さんが使ってたの、私が欲しがったからくれたんだった。


 キラキラした髪飾りが、私の中の決意を固くする。


 ……お母さんの分も、幸せになるから。あなたの平安を願うから。いつかきっと、許してね。


 そう念じながら、髪を結んだ。


 白いブラウスに、ベージュのスカート。サラサラの黒い髪には、可愛いお花の髪飾り。


 鏡の中の自分が、微笑んでいる。


「急がないと遅れちゃうね」


 制服を入れたバッグをロッカーに押し込んで、待ち合わせの場所に急いだ。



 5分前についたはずなのに、彼はもう待ち合わせ場所に来ていた。壁に寄りかかって、携帯を見ている。


「幸夫さん!」


 手を振りながら駆け寄ると、彼は私の方を見てニコッと笑った。


 半田幸夫さん。私を好きだと言ってくれた男の人。彼は社会人で、私はまだ高校生になったばかり。あまり公にできない関係かもしれない。でも、初めて会った時の事を考えると、周りの眼は全く気にならない。


 『一目見た瞬間から、君の美しい髪が忘れられない』


 そう告げられた時の胸の高鳴り。私たちの出会いはきっと、運命なんだと思う。


「遅くなってごめんなさい」


「僕も今来たところだよ。じゃあ、行こうか」


 伸ばされた手に触れると、大きな掌に包まれる。心地よい暖かさで、ドキドキしてしまった。


「実は残念なお知らせがあって」


 そう切り出した幸夫さんは、残念そうにため息をついた。


「さっきレストランから電話があって、どうやらダブルブッキングが起こってしまったみたいなんだ。だから、予定を変更して、僕の家で夕食をご馳走させてくれないかな」


「え、幸夫さんの家で?」


 そう告げられて、少しだけ目を泳がせた。


「でも、ご両親がいらっしゃるんじゃ?」


「1人暮らしだから大丈夫。一戸建てだから、他の人の眼も気にならないよ。だから、どうかな?」


「……日付が変わる前には帰らないと……お父さんが心配するから……」


「車を使えばすぐだよ」


 悩んだけど、私は申し出を受け入れる事にした。


 幸夫さんは、ニッコリ笑って、私を駐車場に泊めてあった車に案内した。幸夫さんが助手席のドアを開けてくれたので、乗ろうとすると、何かが後ろから私の手を掴んだ。


 振り返れば、お母さんが私の手を握っていた。


 ……どうして? お母さんは私に触れないはずじゃ……。


 ふと、細井君の話を思い出した。


『幽霊は未練を断ち切るチャンスが来た時、この世の物に触れられる』


 ……そんなに、私の幸せが許せないの?


 私はその手を振り払い、助手席に乗ると、細井君から貰った魔除けをドアポケットに置いた。車から締め出されたお母さんが、ダンダンと車の窓を叩いている。


 幸夫さんは辺りを見回して、首を傾げながらも車のエンジンをスタートさせた。走り出した車。お母さんが後ろから追いかけてくる。歩くのもやっとな体を動かして、必死に手を伸ばしている。


 喋れなくても、


「行かないで」


と、叫んでいる事は簡単に想像できた。でも、


 ……ごめんね、お母さん。


 私は固く目を閉じて、お母さんから目を背けた。

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