第25話 悪夢の傍で
千田くんが風邪を引いた。案の定だった。
千田姉弟の喧嘩から一夜明けた朝。
身支度を整えていた最中に彼から連絡が入ったのだ。彼曰く「魔力を持つ者にしか罹らない流行り病」らしく、使い魔であるハルデも近づけないらしい。僅かながらも魔力を持つ椿妃さんでさえ距離を置かなくてはいかないそうだ。
文面は相変わらず素っ気なく、普段通りに見えるが病状が心配である。
そういう訳で放課後、私は林田くんと見舞いに行くことになった。
思えば彼の家に行くのは初めてだ。林田くんは小学生の頃からよく行き慣れているため目を瞑っても行けるそう。
彼以外人がいない家はぞっとするほど静かだった。
住宅街から離れた場所、広くも鬱蒼とした庭の先に灰色の壁が立っている。窓は見当たらない。火葬場に似た生気のない空間だった。
雨ざらしになって錆びた鉄の柵を押し、中に入る。案内も兼ねて林田くんが前を歩いているが、胸の中には爪ほどの恐怖心が様子を窺っていた。
魔女の家という肩書がよく似合う。庭で伸び伸びと蔓を伸ばす植物も見たことがないものばかりだ。
チャイムを鳴らす。
インターホンからの応答はなく、代わりに何の前触れもなく扉の鍵が開いた。
「お邪魔しまーす。咲薇ぁ、見舞いに来たぞぉ」
一言挨拶を口にする。彼に手招きされて私も玄関に足を踏み入れた。
途端、背後の扉が独りでに閉まり施錠される。玄関から見えていた室内の形状が歪んでいった。奥へと繋がっていた筈の廊下は消え、何もなかった場所に壁が立つ。薄暗い部屋に明かりが灯った。なんか、ジ〇リ映画みたい。
やがて変形が止まると林田くんが靴を脱ぎ、部屋に上がっていった。慌てて私も後を追う。
フローリングの冷たさが靴下越しでも伝わってきた。音が無さすぎて気味が悪い。本当に此処で生活しているのかと思ってしまう。
階段を上り、角を左に折れる。黒のドアの前に辿り着くと、林田くんが声を掛けた。
がちゃり。
ドアノブが勝手に回り、開いた。中を覗き込むと彼の匂いがした。
「今日も今日とて厳重なセキュリティだな」
「う、っせぇな……」
入口の正面の離れたところに横たわるベッド。その布団の中で蹲る千田くんが片手をこちらに伸ばしていた。
部屋に入ると再びドアが自ら閉まる。同時に魔女が伸ばした片手を動かしていた。なるほど、これも魔法で操作していたのか。
彼の部屋だけは何故か明るく見えた。さっきまでの恐怖心もない。ただ微かに緊張の糸が張っている。
「千田くん大丈夫? じゃないか」
「悪い、な、泉。ほんと、情けねぇ……」
声を出すのもやっとな状態だ。枕元まで行くと、彼は恥ずかしいのか布団に潜って顔を隠してしまった。
隣、林田くんが道中で買い込んだレジ袋の中身を取り出して言う。
「今んとこの調子は? メシは食ったの? あ、あとこれ今週の課題と保護者宛のプリントね。プリントは明後日が期限だからそれまでに治しておけよ。それとあんたの好物も買ってきた」
ガサゴソと音を立て、某猫型ロボットのポケットのように次から次へと食べ物と飲み物が出てくる。
林田くんの流れるような問いと報告を聞いているのかいないのか、千田くんは呻きに似た声で返答した。起き上がるのも儘ならないようだ。
今は食欲がないため、買ってきたものたちの大体は冷蔵庫に収められる。一息吐くのに、私たちはベッドの傍らに腰を下ろした。
にしても広い家だな。彼の自室もそれなりに面積があるし、二人暮らしでは寂しさも感じるだろう。
「そういや、あんたが寝込んでる間お姉さんはどこにいんの?」
小腹を満たすための菓子パンの袋を開けつつ林田くんが尋ねる。すると彼のスマホが着信音を鳴らした。ロック画面には千田くんからのメッセージが表示されている。
『彼氏んちに泊まる
ハルデは知らん』
「ははっ、なんでコッチで返事してんだよ」
彼が画面を見せてくれた。どうやら喉が痛くて喋りたくないみたい。
液晶画面越しの会話がしばらく続くと、数少ない窓から夕方を告げられた。林田くんが顔を上げる。
「オレ明日から大会だから帰るわ。泉さんはどうする?」
「んーまだ居ようかな。親には帰りが遅くなるって連絡はしたし」
「そっか、分かった。じゃあね二人とも」
学生鞄を手にし、彼は眼鏡の奥の瞳を優し気に細めた。片手を振って、私も別れを口にする。
沈黙の帳が下りた空間に、電子音がぽつりと鳴る。私は手元のスマホを起こした。
『日、短いんだから帰れよ』
魔女からのメッセージ。
無機質な文字の羅列から彼の優しさが滲み出ていて、思わず微笑んでしまった。首を緩く振って答える。
「つらそうにしているのに帰れないよ。私の心配なんかしなくていいから」
実を言うと彼の姉である椿妃さんから頼み事をされている。
一つは、軽くで良いから彼に夕食を作ってあげること。もう一つは薬を飲ませることだ。
千田くんの事だから、ご飯は食べずにそのまま寝ている可能性が高い。薬の存在もきっと忘れてしまうだろうと、椿妃さんが電話をしてくれた。
正直、料理の腕に自信はないけれど、食べられるものは作れる筈だ。
そう心中で意気込み、私は部屋を出た。
・
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泉が台所を借りると言って部屋を出て行った。メシを作ってくれるらしい。本当に情けないし申し訳ない。
一つ寝返りを打った。全身に掛かる重力が重く感じて、頭の中をガンガン痛みが走っていく。喉も息をする度、焼けるように痛んで仕方ない。
大抵この手の発熱は、罹った本人の魔力の強さで治りの速さが変わる。俺の場合だと二日くらいだろうか。
不治の病ではないから命の危険はない。と、言いたいところだが、魔女狩りが
実のところ、この体がこんな状態だから泉には離れられると困るのだ。簡単に言うと彼女を帰したくない。彼女が襲われた時、即座に向かうことができないから。
階下。
雑音のないこの世界に調理の音が響く。
食器を移動させる音。包丁がまな板とぶつかる音。コンロに火が灯る音。
姉の代わりに看病してくれる泉やシンには感謝しかない。こういう時は俺だって心細くなるものだ。
遠い記憶に母の姿が行く。
彼女の優しい面影が浮かんできた。
いつだったっけ。最後に体調を崩したのは。
確か、まだお父さんとお母さんがいて、ずっと隣に居てくれていたような気がする。あぁそうだ、あれは小四の時だ。
この頃は魔力の操作が下手くそで、よく暴走しかけて母親に止められていた。幼い俺にとっては強すぎる力だったし、誤ってクラスメイトに当ててしまったこともあったっけ。
そんな息子に制御の方法を、お母さんは辛抱強く教えてくれた。
同時に、その力は守るために使うのだとも。
お母さんは俺より魔力が弱かった。でも魔法を使うのは誰よりも上手かった。
当時は彼女の完璧な結界魔法のお陰もあって、狩人と接触する機会などほとんどなかった。あったとしても母親は攻撃せず、ひたすら防御に徹していたのを覚えている。
だから、攻撃以外の魔法に秀でていた彼女が、お父さんを殺したことは言わずもがな大きな衝撃だった。
今思えば、あの悲劇の数日前から彼女の様子がおかしかった。それに気が付かない――否、俺は気付こうとしなかったんだ。
本人も疲れているだけと笑っていたから、それに笑い返すだけで何もしなかった。お母さんならきっと大丈夫だろうと割り切って。
自分を汚い理由で擁護するなんて幾らでもできる。昔はそうして「自分は悪くない」と言い聞かせていた。
だから、あの夢を見るようになったのだろう。
ここ最近は眠っている間に夢を見ることは減ったが、中学の頃は毎晩のように悪夢が襲ってきた。
それは彼女が、少し離れたところで泣いている夢。
真っ白な空間。しゃくり上げながら俺と、姉と、父の名前を呼んでいる。涙を拭い、謝っている。
でも彼女は洗脳されたままだった。
『ごめんなさい、ごめんなさい。私が異端な存在だから、皆を殺さなくちゃいけないの。全部お母さんが悪いの、本当にごめんなさい。私が皆を連れて行ってあげるから。家族みんなであの世に行きましょう、お願い』
夢の終わりあたりに差し掛かると、母親の容姿は黒くなって人でないナニかに侵食される。
いつだって俺は動くことができない。声も出せない。ひたすら泣き続ける彼女を眺めているだけ。
何度、涙が頬を伝っている朝を迎えただろう。
代わり映えのない悪夢を繰り返し見続けて。目が覚めてもそこに父と母は居なくて。
居るのは、弟のために働く姉と、道に迷って大罪を犯そうとする子どもの魔女だけだ。
馬鹿だな、俺って。
まだ救われると思っている。まだ誰かに救いを乞うている。もう手遅れだって知ってんのに。
「千田くん、大丈夫?」
薄明りと聞き慣れた囁き。
重く閉ざされていた瞼を開けると、無表情の彼女が目を合わせてきていた。いつの間にか眠っていたらしい。
掠れた声で泉を呼ぶ。彼女はほんの少しだけ口角を持ち上げると、うん、と返事をした。
「たまご粥作ったんだけど食べられそう?」
彼女の手元には盆に乗せられた小ぶりの皿がある。白い湯気を立たせ、優しい匂いが鼻孔をくすぐった。
あー、今日は今朝から水以外なにも口にしていない。思い出したかのように腹が微かに鳴った。
鈍痛が居座る頭を押さえつつ上体を起こす。咄嗟に泉が俺の背に手を回し、支えてくれた。彼女の匂いが近く、いつもなら慌ててしまうところだが今日は余裕がなかった。
霞む視界を凝らして時計を見ると、六時を過ぎていた。
盆を膝の上に置き、引き寄せる。ふわりと熱気が肌を掠め、目前の食事に意識がいった。
スプーンで掬って口に運ぶ。それなりに熱かったが空っぽの腹が勝った。
「しょっぱいかな。味見は一応したんだけど」
抑揚のない口調が尋ねてくる。俺はスマホの画面に指を滑らせた。
『悪い。味わかんねー』
素直な感想を述べる俺に、彼女は何の抵抗もなく表情を崩した。それは、まるで母親のような――
俺は粥をあっという間に平らげ、泉は後片付けをしてから帰ると言った。何から何まで申し訳ない。
玄関先。
看病を終え、彼女はローファーを履いた。ドアノブに掛けようとした手を一旦引く。軽くこちらを振り返って、普段と変わらない無表情で別れを告げた。
「明日の朝、ちゃんと連絡してね」
『分かってる。今日はほんとにありがとな』
先程より喉の調子は戻ったが痛いものは痛い。端末片手に会話する異様な空気に、思い出したら笑ってしまいそうだ。
ふと、泉が静止して黙り込む。
変に思って小首を傾げると、彼女は平然とした顔で返した。
「千田くんの声、はやく聞きたいから……その、お大事に」
そう言って去った。彼女らしくない台詞だった。
閉まった扉を数秒、放心状態になって見ていた。どうしてか頬が熱いし心臓がうるさい。
大きな溜息を吐いてその場にしゃがみ込み、顔を
彼女は一体何のつもりでそんなことを言ったんだ。他意はないにしろ、あまりにも思わせぶりが過ぎる。
掠れてしまって自分でも何を言っているのか分からない。それでも呟かずにはいられなかった。
「そういうの、やめろよまじで……っ!」
少年魔女 朧 @novel_oboro
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