第30話【エピローグ】

【エピローグ】


 身体の感覚が戻った時、俺はふわふわと宙を漂っていた。全身が暖かい、穏やかな上昇気流に包まれている。


「これは……」


 一体なんなのだろう。思考がぼんやりして、物事の因果関係が掴めない。

 分かるのは、身体が酷くだるいこと。ついでに、それにしては心地よい感覚に囚われていることだ。


「俺は、何を……」


 そう呟いた。すると、背中に当たる風が強くなった。同時に身体のだるさがぐっと増して、ゆっくりとどこかへ向かって、仰向けの姿勢で下りていく。

 身体は指一本動かせないのに、何故かそれが不快ではない。強いて言えば、その不快感のなさに、俺は疑念を抱いた。


 やがて、真っ暗だった視界の中央に白光が見えた。それは徐々に大きく、眩しくなっていく。


「んっ……」


 状況を確かめたいが、どうしたらいいだろうか。

 ああ、目を開いてみればいいのか。

 俺は目が眩むであろうことを覚悟で、ゆっくりと瞼を上げた。


 すると、白光は急に遠ざかり、代わりに急に全身が現実感に呑み込まれた。

 同時に点で構成されていた意識が線を、そして面を構成しながら形成されていく。


「うわあっ!」

「うおっとぉ! 脅かすな、剣矢!」


 この声――髙明か? だとしたら状況を尋ねたい。確かめたい。だが、俺の喉はまともに動いてはくれないようだ。

 いや待てよ。俺は何を確かめたいんだ? どんどん明瞭さを増していく記憶の上を漂いながら、俺は物事の優先順位を考える。全力で、必死になって。

 でなければ、点も線も面もいつ崩れ去るか分からない。そう思ったからだ。

 

 そんな中、この場にいないある人物の顔が脳裏をよぎった。


「は、は……」

「ん? どうしたんだ、剣矢」

「葉月……。葉月は無事か? 生きてるんだよな? 教えてくれ、髙明!」


 すると、慌ただしく動き回っていたもう一つの人影が、ぴたり、と動きを止めた。

 その小柄な人影に向かい、俺は髙明にしたのと同じ質問を繰り返した。


「エレナ、葉月はどこだ? どうなったんだ!?」

「落ち着け、剣矢。お前よりは軽傷だ」


 代わりに髙明が応じる。


「け、軽傷……?」


 髙明は唇を湿らせ、俺の寝かされているベッドのそばに丸椅子を引き寄せた。そのまま腰かける。

 そんな彼に向かって唾を飛ばしながら、俺はまくし立てた。


「だって、葉月は慣れてもいない筋肉増強剤を注射したんだろう? それに、右腕の骨折は酷いはずだ。それなのに俺より軽傷って――」

「だから落ち着けって。同じことを何度も言わせんな」

「いてっ」


 髙明の見事なデコピンに、俺はさっと顔を俯けた。この期に及んで、俺はようやくここが俺たちのアジトの医務室であることに気づいた。


「まずは今の状況を説明する。生憎だが、俺たちには戦い続ける以外の選択肢はないようだ」

「た、戦う?」

「そうだ。ドクの置き土産のお陰でな。エレナが盗聴と通信妨害を繰り返して、情報を入手したんだ」


 俺の意識は一瞬だけ、葉月の安否確認から遠ざかった。その隙を逃さずに、髙明が一気呵成に語り出す。


「お前が寝ていたこの二日間に、怪物化したドクの遺体はどこかに搬送された。剣矢、お前は確かに怪物を仕留めた。が、遺体を抹消することができたわけじゃない」

「えっ、じゃあ、お前が言いたいことって、まさか……」

「何者かが遺体を持ち去った形跡があるのを、俺と和也の二人で確認した。つまり、人体強化技術に関する研究は何者かが引き継いだ可能性が高い」


 苦い唾を飲む俺の前で、髙明は視線を落とした。


「加えて、昨日から妙な事態が国内で頻発してる。医療薬品の研究所の爆破やら、密輸市場の盛り上がりやら、警視庁による都内警備の厳重化やら」


 エレナがすたたたっ、と寄って来て、自分の携帯端末を展開してみせた。この情報が虚偽でなければ、確かに一昨日から今日にかけて、何らかのブツの遣り取りが頻繁に行われている。


「剣矢、お前にこれ以上無理に戦え、とは俺からは言えねえ。けど、俺は戦う覚悟だ。この落とし前はきっちりつけねえとな」

「な、なら俺もたたか――いつっ!」

「下手に動くな、馬鹿。左の肋骨を二本やられてるんだ、しばらくは安静にな」

「あ、ああ……」


 俺は自分の落ち着き具合を確かめながら、今度こそ明確に尋ねた。


「葉月は無事か?」

「ああ。右腕を骨折してるが、幸い強化された筋肉が衝撃を吸収してくれたらしい。いいぞ、和也。入ってきてくれ」


 振り返りながら髙明が声を上げる。すると、医務室のドアがスライドして、新たな人影が現れた。和也だ。その両手は車椅子の持ち手に当てられていて、葉月がそこに座っていた。


 葉月に、酷いザマだな、と憎まれ口を叩きそうになって、俺はなんとかそれを封じ込める。

 酷いといっても、負傷が酷いのではない。全身の衰弱だ。


「まったく、無茶しやがるな、葉月も」


 俺がそう言うと葉月は顔を上げ、弱々しい笑みを浮かべた。


「それはお互い様だろう、剣矢?」


 その言葉が終わる頃には、再びドアがスライドしていた。髙明と、彼に背中を押されたエレナが退室するところだった。


「あれ、お前らちょっと――」


 と言いかけた矢先、和也もまた、車椅子のストッパーをかけて二、三歩後ずさった。


「和也?」

「剣矢、葉月のこと、よろしく頼むよ」

「……は……?」


 和也もまた、笑みを浮かべる。こちらは弱々しくはなかったが、どこか無理をして口の端を上げているような感じだった。

 一瞬だけ未練を含んだ一瞥をくれてから、和也もまた踵を返して退室した。


 残されたのは、俺と葉月。冷房機器の低い唸りが、俺たちの沈黙にひびを入れている。

 その沈静化した空気を破ろうと、俺は試みた。


「葉月、歩けないのか?」

「いや、違うんだ。全身がだるいだけ。心配には及ばない」


 俺はぐっと葉月の目を覗き込む。

 心配には及ばない、だと? 今、コイツはそう言ったのか? 俺は自分の胸中で炎が燃え滾るような思いがした。


「冗談じゃねえぞ!!」


 俺は自分の胸に手を当て、痛みを堪えながら葉月を怒鳴りつけた。

 

「お前の右腕が潰されて、かと思ったら車椅子でのろのろ出てきやがって……。心配するなって? 心配するに決まってんだろうが! お前は俺にとって……。ああ、くそっ!」


 俺は不安定な姿勢のまま、右腕を振り上げた。葉月を殴りつけようとしたのだ。

 だが、葉月は動じない。それどころか笑みを深めている。その表情は実に穏やかだ。


「よかった、剣矢。お前には、まだ戦う意欲があるんだな」

「決まってんだろ、ドクの遺したものを潰していかなきゃならないんだからな! だから――」


 俺はするりと右腕を下ろし、ばたりと上半身を横たえた。

 そうだ。俺がまだ戦おうと思えるのは、単なる正義感のお陰ではない。守りたい人がいるからだ。


 では、何故守りたいと思えるのか? 理由は簡単で、その人物・美奈川葉月が俺の命の恩人だからだ。


 黙して俯く俺の肩に、そっと葉月が手を載せた。


「戦士は休息するのも任務のうちだ。今はゆっくり休んでくれ、剣矢」

「葉月……。それは俺に対して、自分が現場指揮官であることから下した命令なのか?」

「違う」


 葉月はゆるゆるとかぶりを振った。


「ただの仲間としての頼み事だ」


 その言葉に、俺は不思議な感覚を得た。胸のうちに灯りがともったような。

 仲間、か。

 そこには主従関係以上の、何かしらの人間臭さがある。そんな気がしてならない。


「結局、俺たちは俺たちなりの信頼を基に、戦い続けるしかないんだな」

「そう、だな。……辛いか、剣矢?」

「大丈夫、そういうわけじゃねえよ」


 俺は今度こそ右腕を伸ばし、瞳を潤ませる葉月の頭にそっと載せた。

 そして気負うことなく、ただただ純朴にこう言った。


「葉月がそばにいてくれるなら」


 葉月の両目から、するすると形のいい頬をなぞるように涙が落ちていく。

 俯き、嗚咽を漏らし始めた彼女の肩を、俺は右腕だけで抱きしめた。


 THE END

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緑碧の死線 -visual all green- 岩井喬 @i1g37310

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