走らない! メロス!

Aiinegruth

走らない! メロス!

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治が判らぬ。でも政治にもメロスが判らぬので互角である。メロスは、村の発明家である。プログラムを書き、クライアントと、表にはそうとは伺い知れぬ陰湿な口論をして暮らしてきた。けれども肉体労働に対しては、人一倍に敏感であった。

 今日昼過ぎ、メロスは日産デイズルークスで村を出発し、野を越え、山の途中の道の駅で焼き鳥を食べ、約四〇キロメートルはなれたこのシラクスの市にやってきた。メロスの家にはいま、父も、母もない。女房もない。三人もまた激怒して、ロンドンへ、ひまわりにトマトスープをかけた阿呆どもをスターゲイジーパイにしに行ったのだ。気が短いのは一家代々の悪癖であった。

 そういうわけでメロスは、一六の内気な妹と二人暮らしだ。この妹は、村のある律儀なヴィジュアルバンドのギター担当を、近々、花婿として迎えることになっていた。結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらフジゲンのイカしたエレキやらを買いに、はるばる市にやってきたのだ。まず、その品々を買い集め、燃費が限りなく悪くなるまで車に詰め込み、それから都の大路へ足を向けた。

 メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。いまはこのシラクスの市で、配信者をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。最近Twitterに低浮上気味のため、訪ねて行くのが楽しみである。お手製の電動キックボードで進んでいるうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。道で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年前にこの市にきたときは、夜でも皆がセグウェイを乗りこなして、まちは賑やかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を横に振って答えなかった。しばらく歩いて老爺ろうやに逢い、今度はもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で、お願い教えて下さい! と拝み倒しながら質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

「王様は、人を走らせます」

「なぜ走らせるのだ」

「誰もかれもテクノロジーにかまけて、怠けている。というのですが、民は仕事の合間にセグウェイを楽しむだけで、怠けては居りませぬ」

「たくさんの人を走らせたのか」

「はい、はじめは王様の妹婿いもうとむこさまを。それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアキレス様を」

「おどろいた。国王は乱心か」

「いいえ、乱心ではございませぬ。テクノロジーを、信ずることが出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をもお疑いになり、少しく機械頼りの暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めばハチマキを渡されて、走らされます。今日は、六人走らされました」

 聞いて、メロスは激怒した。

「呆れた王だ。生かして置けぬ」

 メロスは、すぐ殺すとかいう短気な男であった。徒歩で王城に入って行くと、たちまち彼は、巡邏じゅんら警吏けいりに捕縛された。調べられて、メロスの腋に電動キックボードが抱えられていたので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。

「この電動キックボードで何をするつもりであったか。言え!」

 暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。その王の顔は凛々しく引き締まっており、隆々とした筋肉は、肩にでっかいダンプ乗せてんのかいといわれても、さもありなんというほどであった。

「市を暴君の手から救うのだ」

 とメロスは悪びれずに答えた。

「おまえがか?」

 王は、憫笑した。

「仕方のないやつじゃ。おまえには、わしの心配がわからぬ」

「言うな!」

 とメロスは、中指を立てて反駁はんばくした。

「テクノロジーを疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、国の進歩をさえ疑って居られる」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の節制は、あてにならない。人間は、もともと炭水化物の奴隷さ。信じては、ならぬ」

 暴君は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。鍛え抜かれた肺活量に砂が舞った。

「わしだって、平和を望んでいるのだが」

「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか」

 今度はメロスが嘲笑した。

「罪のない人を走らせて、何が平和だ」

「だまれ、機械頼りめ」

 王は、さっと顔を挙げて報いた。溢れ出る筋力の圧が、メロスの背負う城門を唸らせた。

「口では、どんな清らかなことでも言える。わしには、人の心の弱さが見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、泣いて詫びたって聞かぬぞ」

「ああ、王は悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと走らされる覚悟で居るのに。ただ、――」

 と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、続けた。

「ただ、私に情をかけたいつもりなら、出走までに三日間の日限にちげんを与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ、一切走らず帰って来ます」

「ばかな」

 と暴君は、腹から良く響く声で笑った。

「とんでもない嘘を言うわい。村の場所は知っておるぞ。道中の森には旧い猛獣も居ろう。追われるぞ。人間がこの距離を、少しも走らず帰って来るというのか」

「そうです。帰って来るのです」

 メロスは必死で言い張った。

「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという配信者がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。三日間のうちに私が走ってしまうか、三日目の日暮れまで、私がここに帰って来なかったら、あの友人を走らせて下さい。頼む、そうして下さい」

 それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっとほくそえんだ。生意気なことを言うわい。人間は原初、身体を動かしたいという欲望には抗えぬ。わしはその欲望を少しく刺激してやって、正しい姿に戻しているに過ぎぬ。どうせ走って帰って来るに決まっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に走らせてやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男にハチマキを渡してやるのだ。世のなかの、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。

「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。約束を違えれば、その身代りを、きっと走らせるぞ。ちょっと走って来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」

「何をおっしゃる」

「はは、走って来い。おまえの心は、わかっているぞ」

 メロスは口惜しく、王をにらんだ。ものも言いたくなくなった。

 竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりに相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でメロスを一発ぶん殴り、配信者らしい語彙の豊富さで、深夜に叩き起こされた文句をしこたま並べ立てた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、「私が走らされるまであと三日間! 中継生配信!」の許可を王に貰い、王城の広報室のふかふかソファーに座ってスプラトゥーン3の実況を始めた。メロスは、足に、走っているかどうかが分かるという、ディオニスランニングメーターを装着させられ、すぐに出発した。初夏、満天の星である。

 メロスはその夜、約四〇キロメートルの山道を急ぎに急いで、峠付近で張っていた警邏けいらに捕まり、二点を加算され、村へ到着したのは、翌日の午前だった。陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの一六の妹も、今日は兄の代りにパソコンに向き合っていた。妹は兄の疲労困憊ひろうこんぱいの姿を見つけて驚いた。そうして、タイピングを続けながら兄に質問をした。

「市に用事を残してきた。またすぐ市に行かなければならぬ。明日、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう」

 妹は頬をあからめた。テンパり誤タップが続いて画面のソースコードがぐちゃくちゃになっていくのに、メロスはほほ笑んだ。

「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、明日だと」

 メロスは、よろよろと歩き出し、家へ帰って間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

 眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。バンドマンは驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、夏フェスの季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押して頼んだ。銀染めに赤メッシュをさした婿も頑強であったが、持ち帰ったエレキギターをメロスがかき鳴らすと、ソウルに響いたらしく、態度が柔らかくなった。そして、婿の家の外、メロスが直した村の廃ビルの電光掲示板に突如、『I WANT To Marry You Tomorrow!』とピンク色の丸い字体で表示されたのが決定打となった。静かな夜。月影の照らす廃ビルの下、野暮ったい赤色のジャージを着込み、どや顔で自分の仕業を背負って立つ眼鏡の妹は、メロスとハイタッチし、OK・Honeyと続く婿に抱き締められた。村のひとびとも、皆起き出てこの愛でたい様子を眺めていた。

 結婚式は、その次の日の真昼に行われた。新郎新婦の、ソウルフルなデュエットが済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引きたて、狭い家のなかで、むんむん蒸し暑いのもこらえ、モンスターエナジー一気飲み競争や、スマブラなどをした。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮らして行きたいと願ったが、いまは、自分の身体で、自分のものではない。ままならぬことである。メロスは、丸二日やり続けて未だにウデマエB帯から昇格できないセリヌンティウスの配信のアンチコメントをモデレーター権限で削除しながら、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。

 明日の日没までには、まだ十分のときがある。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。そのころには、雨も小降りになっていよう。少しでもながくこの家にぐずぐすとどまっていたかった。まだセリヌンティウスの配信画面に表示されている、ディオニスランニングメーターに反応はない。メロスはうっかり走ってしまったときの言い訳を五〇個ほど考えながら、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、

「おめでとう。私は疲れてしまったから、眠りたい。眼が覚めたら、すぐに始発の電車で市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しいことはない。おまえの兄の、一番嫌いなものは、人類の進歩を疑うことと、それから、エビだ。おまえも、それは、知っているね。海鮮丼に決してエビを入れてはならぬ。揚げ物ランチプレートでもそうだ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、とっても偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」

 花嫁は、夢見心地でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、

「仕度のないのはお互さまさ。私の家にも、いま宝といっては、妹とパソコンだけだ。ほかは、ロンドンで環境活動家たちを襲撃している。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」

 バンドマンは貰ったギターで甲高い一音を鳴らし、メロスと拳をぶつけた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、自室にもぐり込んで、お気に入りの寝巻きで死んだように深く眠った。

 外したワイヤレスイヤホンのBluetooth接続をオンにしたまま寝たので、五重のアラームも無意味であった。眼が覚めたのは翌日の昼前である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、映画を二本梯子しても約束の刻限までには十分間に合う、と立ち上がった。今日は是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってハチマキを巻いてやる。メロスは、悠々と準備をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子であるが、スマホの検索結果は良好ではない。シラクスから村近くの駅まで通じ、雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負ける在来線は案の定運休している。あと一点で免停の車しか足はない。電動キックボードほかの身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、運転席のドアを開けた。

 私は、今宵走らされる。走らされるために進むのだ。身代りの友を救うために進むのだ。王の奸佞邪智かんねいじゃちを打ち破るために進むのだ。進まねばならぬ。そうして、私は走らされる。若いときから名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、Uターンしそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながらアクセルペダルを踏んだ。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、一〇分くらいで隣村に着いたころ、メロスは額の汗をこぶしで払った。ここまでくれば大丈夫、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。途中休憩していこう。と持ち前の呑気さを取り返したメロスは、隣村の映画館でナチョスを食べながら3D眼鏡を掛け、アバターのリマスター版を楽しんだ。三時間かかった。再出発して、そろそろ全里程の半ばに到達したころ、降って湧いた災難、メロスの車は、はたと、とまった。

 見よ、前方の川を。昨日の豪雨で山の水源地は氾濫はんらんし、濁流滔々とうとうと下流にたかり、どうどうと響きをあげる激浪が、木葉微塵こっぱみじん橋桁はしげたを跳ね飛ばしていた。詰みである。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟けいしゅうは残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよふくれ上り、海のようになっている。大きな桃も流れていく。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら神に手を挙げて哀願した。

「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既におやつの時間です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために走るのです」

 濁流は、メロスの叫びをせせら笑うが如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、あおり立て、そうしてときは、刻一刻と消えて行く。いまはメロスも覚悟した。跳び渡るよりほかにない。泳いだら、あのディオニスの阿呆が作った足のランニングメーター(完全防水)が走ったと誤判定するやもしれぬ。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、用意していた三〇度の木のスロープを川岸一杯に設置し、デイズルークスを一直線限界まで隣村の端に後退させた。そして免停までの残り一点を地球の反対側にあるサッカーゴールに蹴り込む勢いで、アクセルを踏む。軽自動車の根性、猛る時速一二○キロ。無駄にのっぽな天井高が風を切り裂き、ふわりと浮いた感覚の直後。心拍二つ分置いて、タイヤはまた再び地面を捉えた。無茶したのでエンジンから異音がする。対岸に残したスロープを惜しそうな眼で三〇分見つめたあと、車から降りたメロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた徒歩で先を急いだ。一刻といえども、無駄には出来ない。陽は既に西に傾きかけている。川から徒歩二〇〇メートルと少し、やっとのことで峠を歩いて越えたとき、強く響く声がする。待ち構えていたのは、王国の楽団であった。

「待て」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」

「どっこい放さぬ。走れ」

「――王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」

 数十人でメロスを取り囲んだ楽団は、メロスに言葉を返さず、一斉に演奏し始めた。嵐の『Happiness』である。思わず走り出して明日を迎えに行きたくなったが、走っても明日を迎えてもダメである。メロスはリズミカルに揺れ出す身体を抑えつけ、バックパックを背負ったまま電動キックボードを取り出した。飛鳥あすかの如く彼らの間をすり抜けると、先を進んだ。去り際、ボーカルの青年にグッと親指を立てるのを忘れなかったのは、流石の男、メロスであった。

 警邏もキックボードではスピード違反を問えぬ。いや問えるかもしれないが、捕まらなかったので問えぬということにしておく。一気に峠を駈け降りたメロスだったが、流石に疲労が溜まっていた。折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照ってきて、幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ進み、こけて、ついに、がくりと膝を折った。炎天下で用いたからか、キックボードの充電も消費が早く、切れていた。

 立ち上ることが出来ぬ。天を仰いで、メロスは泣き出した。ああ、濁流を跳び越え、楽団を振り切って韋駄天いだてん、ここまで突破してきたメロスよ。真の勇者、メロスよ。いま、ここで、疲れ切って動けなくなるとはなさけない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて走らされねばならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、日頃の運動不足が祟り、全身えて、一〇分歩いただけでもはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。路傍ろぼうの草原にランチョンマットを敷き、虫除けスプレーをし、首元にひんやりマフラーを巻くと、ごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いなふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。

 私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、ちょっとしかなかった。神も照覧、私は精一杯に努めて来たのだ。動けなくなるまで一〇分も歩いて来たのだ。私は不信の徒ではない。ああ、出来ることならいまアバターになりたい。けれども私は、この大事なときに、手持ちの機械も根性も尽きたのだ。甚だぴえんである。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私は友をあざむいた。配信やTwitterで拡散される。クソコラがいっぱい作られる。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じことだ。ああ、もう、どうでもいい。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、あざむかなかった。君が挑戦してやっぱり無理だった激辛ペヤングも代わりに食べたし、バクツイ疑惑のときはネット上の猛者たちと無限の論戦を繰り広げた。君が名義貸ししたチェーン店の焼き鳥屋、『せせりヌンティウス』にも足しげく通った。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかったような気がする。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。私もThe Way of Waterの公開を待っている。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。セリヌンティウス、私は進んだのだ。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまできたのだ。あんまり口に合わなかったナチョスも残さず食べた。濁流を突破した。パンフレットとかを買うのを我慢した。楽団の囲みから、するりと抜けて一気に峠を駈け降りてきた。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。でも寂しくなったら察して構ってくれ。

 ともかく、私は負けたのだ。だらしがない。正義だの、信実だの、愛だの、テクノロジーだの、考えてみれば、くだらない。他人を走らせて自分はのんびりする。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。アバターのあの米軍のおっさんだ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、念のため虫除けスプレーをもう一度かけて、アイマスクをして、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、ピコン、機械音が聞えた。そっと頭をもたげ、スマホを確認すると、セリヌンティウスの配信にスーパーチャットが送られている。どうも、彼はゲームに飽きて雑談に移り、メロスの妹の結婚式について話題にしているらしかった。

「あいつは雑なやつだけど、私の親友だから、祝ってやってくれるとうれしい。この話題で貰ったお金は、そうだな、プレゼント代にするよ」

『親友さん結婚おめっとございます!』『末永く爆発しろ!』『こんにちは、めでたい話題なので、初スパです』。青に、緑に、橙に、赤に、様々な金額が送られ、画面が見る間に華やかになり、暖かな言葉で埋まっていく。

 ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。染み渡る決意と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。我が身を走らせて、名誉を守る希望である。脳内に勝ち確BGMが鳴り響く。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の運動不足などは、問題ではない。走ってお詫び、などと気のいいことは言って居られぬ。アドレナリンもドバドバである。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。進め! メロス。

 電動キックボードの充電はない。けれども、天は視ていた。勇者に相応しい乗り物は、直後に現れた。バサバサとした五対の羽音。体長一五メートルほどのシラクス一帯を仕切る森の主。旧冠天級準龍ロスト・オールド・ドラゴニュートギゼルハは、ほとんどムカデに近いその体節を折りたたみながら、川辺に降り立った。ほとんど年に一回会えたら幸運な守り神である巨大ムカデは、メロスに語り掛けた。

「力を貸そう」

「……何故、私に」

「今日、余からの祝福を受けるべきものが、それを譲ると申しておる」

 メロスは再び震えるスマートフォンを見た。画面には、結婚式を終えた村のひとびとが一同に集まっている。その中央、婿に肩を寄せた妹は言う。

「セリヌンティウスさんの配信を見ました。兄さんの誠実さを貫き通して帰ってきてください。筋肉痛になったときのシップと、エビ抜き海鮮丼を用意して待っていますから」

 全身の血液が煮え立った。ギゼルハの背に飛び乗ると、メロスは黒い風のように奔った。郊外はすぐだった。巨大な神秘種しんぴしゅがくねりながら空を往く。野原で宴席のまっただなかを駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、一旦停止して犬を撫で、猫の写真を撮り、少女にサインを残して、少しずつ沈んでゆく太陽の、平均一〇倍も早く進んだ。スポーツインストラクターの一団とすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳に挟んだ。

「いまごろは、あの男も、走らされているよ」

 ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに進んでいるのだ。その男を走らせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。現時点で何だかトルークマクトっぽいので、それ以上の風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど寝巻きであった。しかも、お気に入りの薄着の美少女キャラクターがでかでかとプリントされた日常使い出来ない奴であった。上空は寒く、二度、三度、口からくしゃみが噴き出た。見える。はるか向こうに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。ギゼルハは、テクノロジーの瘴気によって神聖が断たれる市内には入れない。だが、それまでに眼下から声がした。

「ああ、メロス様」

「誰だ」

 メロスは宴会の席から掠め取った焼き鳥を頬張りながら聞いた。

「貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます」

 メロスは、彼の後についてセグウェイで進んでいる男の見覚えがあるのを思い出した。平沼騏一郎ひらぬまきいちろうである。平沼騏一郎にも政治が判らぬ。平沼は第三十五代内閣総理大臣である。枢密院すうみついん議長であり、共産主義に相対する目的で、ドイツとの関係構築に腐心してきた。しかし、突如成立した独ソ不可侵条約には人一倍に敏感で、辞任して、いまは複雑怪奇ふくざつかいきオカルト配信者をしている。

「もう、駄目でございます。無駄でございます。進むのは、やめて下さい。あの方をお助けになることは出来ません」

「いや、まだ陽は沈まぬ」

「ちょうどいま、あの方がハチマキを巻かれるところです。ああ、あなたは遅かった。私の外交政策より遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬってばよ」

「やめて下さい。進むのは、やめて下さい。いまはご自分の足が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。髪を掴まれ、運動場に引き出されても、平気でピクミンの主題歌を歌っていました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます明日・リスレスポンス(Squirrel!)、とだけ答え、複雑怪奇なライムバトルを繰り広げている様子でございました」

「それだから、進むのだ。信じられているから進むのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。頑張ってる感が大事なのだ。ついて来い! 騏一郎。あとこれ、さっき撮った猫」

「かわいい……」

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。王城まで五キロメートル。全力で走って、何とかやっと間に合う距離だ。勇者よ、友のためなら最後は共に。そう思ったメロスだったが、市壁の断崖にあたって、いよいよ着陸するという段になって、更に声がする。一機のオスプレイが、斜陽を返して滑り込んでくる。

「息子よ! 事情は知っているぞ。来い!」

 コックピットから叫ぶのは、ロンドンへ遠征に行っていたメロスの父だった。手痛い反撃に遭ったらしく、トマトスープまみれで不機嫌な表情の母も、女房も乗っている。メロスは急上昇して高度を合わせた巨大ムカデから、寝巻きの腰に装着したアンカーを発射して航空機に飛び移る。メロスは、いままさに勇者で、漢で、ジェイク・サリーだった。本日二度目の浮遊感にも屈しない。頭は空っぽで、ギゼルハの加護により常人の数倍に強化された筋肉だけが正確に動いている。陽は、ゆらゆら水平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとしたとき、余りに眩しい閃光が地を揺らした。距離一キロ。黒いヘリコプターの下端にぶら下がり、勢いをつけ、高く聳える王城門から俯角三〇度。メロスは、雷鳴を轟かす彗星のごとく、運動場に墜落した。間に合った。

「待て。その人を走らせてはならぬ。メロスが帰ってきた。約束のとおり、いま、帰って来た」

 と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、加護が消えた途端めちゃくちゃ噎せた。群衆は全員、遅れてのオスプレイの着陸に注目していて、事態に付いていけていない。すでに運動場には白いレーンが引かれていた。合図のピストルを掲げた男の横で、セリヌンティウスがハチマキをしてクラウチングスタートの姿勢を取らされている。メロスはそれを目撃して最後の勇、既に割れた群衆の中央を堂々と歩き、

「私だ、刑吏けいり! 走らされるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」

 と、精一杯に叫びながら、ついに、刑吏からハチマキを貸してもらい、第二レーンに並び、クラウチングスタートの姿勢を取った。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスのハチマキは、ほどかれたのである。

「セリヌンティウス」

 メロスは眼に涙を浮べて言った。

「私を殴れ。力一杯に頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえないのだ。殴れ」

 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で頷いたが、配信中なのでこっちからの暴力沙汰はダメに決まってんだろと耳打ちし、運動場の奥の方に隠してぶら下げたカメラをこっそり指差した。

「メロス、私を殴れ。私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 メロスは近付き返し、お前だけ被害者枠でバズを狙うんじゃないと悪態をついた。しかし、一通りのやり取りを終えた二人は、清々しい打算のない笑顔で向かい合った。

「ありがとう、友よ」

 同時に言い、ひしと抱き合い、それからおいおい声を放って泣いた。

 群衆のなかからも、歔欷きょきの声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、凛々しく整った顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。ディオニスランニングメーターの示す通り、メロスは走らなかった。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」

 どっと群衆の間に、歓声が起った。

「万歳、王様万歳」

 人混みを掻き分け、ひとりのジェームズ・キャメロンが、青色のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、遠方のカメラ目線を意識したまま、とびっきりのイケボで教えてやった。

「メロス、君は、寝巻きじゃないか。早くそのマントを着るがいい。彼は、メロスの寝巻きの美少女を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」

 メロスは、赤面しながら、思い返した。日産デイズルークス、キックボード、ギゼルハ、オスプレイ。テクノロジーだけでは、走らずに村からここに至ることは出来なかった。

 王国で突如健康ブームが起こったのは後の話で、ある配信者と、ある発明家と、筋肉隆々の王様が、揃って3D眼鏡をかけ、AVATAR The Way of Waterを楽しんだのもまた後の話である。


 おしまい(ごめんなさい)

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走らない! メロス! Aiinegruth @Aiinegruth

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